Send a letter


 平太は唸っていた。うっすらと横線が引かれている他は真っ新な、柔らかい風合いの紙を目の前にして十五分。まだ、何も書けていない。
 「はあい、今日はこれまでです」
 先生の、三十過ぎにしては可愛らしい声が教室に響いた。生徒は手を止めて、隣同士で小突くように笑い合っている。「ねえ、書けた?」「ううん、もうちょっと」
 ちょっととは言っているが、もう大体は書けてると、気恥ずかしげな声にはそう含まれている。はあ、と平太は溜息をつき、シャープペンシルを転がした。
 「どうですか、皆さん」
 教卓に立つ先生は、生徒の顔を右から左に見回した。くりっとした目の小顔には、期待の籠もった眼差しがある。
 「来月の最初の週に、受け取った内容について発表してもらいたいと思っています。皆さん、決めた相手にちゃんと投函する事、いいですね」
 はーい、と間延びした、けれど素直な返事が上がった。今日日の中学生にしては卑屈でないのが、このクラスの長所である。先生はニコニコ微笑み、「それじゃあ、楽しみにしていますからね」と、ベルに合わせて教室を出ていった。
 平太は便せんを二つ折りにして机の脇に置き、セットになっている干草色の封筒を手に取った。和紙独特の手触りで、細かな銀粉が織り込まれている。わざわざ切手が貼ってあるあたり、授業に対する先生の並々ならぬ愛情の深さが感じられてならない。はあと溜息つき、周囲に探りを入れてみると、大方が「あとは出すだけ」というような顔付きをしているように見える。和気藹々と席を通り越していく旧友達の姿は、心なし身軽そうだ。
 一体何をネタにしたら書けるのか、教えてもらいたい。平太はゴシゴシ額を擦った。
 「おい」
 「うひゃ!」
 背中を突然指で突かれたものだから、変な声を出してしまった。拍子、手の中の封筒がぐしゃり潰れた。
 「ああっ!」
 「あ、悪い」
 驚愕に身を固めた平太の手元を覗き込んだのは、シャツの襟をかっちり締めた螢(ほたる)だ。平太の幼い頃からの友人である。実業家を小さくしたような子、と彼の事を例えたのは平太の母だが、螢を見ていると、確かにそんな風に思えないこともない。学級委員長としてテキパキ仕事をこなす様子は、表面だけ捉えれば頼もしく、彼に任せておけば大丈夫という気にさせられる。
 「ちょっと待っててくれ」
 皺くちゃになった封筒を平太が机の上で伸ばしていると、自分の席に戻った螢がすぐに引き返してきた。
 「はい」
 差し出された封筒は、平太のとは色だけ異なっている。先生が配った六種類のセットのうち、螢が選んだのは、菖蒲の透かし模様が入った淡い藤色をしていた。
 「俺のをやるよ、交換だ」
 交渉成立、問題なし、と、平太の手からすいっと封筒を取り上げた。
 「待てよ。それ、もう使えないじゃんか」
 「いいさ、これくらい」
 たかが手紙。されど手紙。インターネットがはびこる今の時代、むず痒さを感じる平太だが、握り潰された封筒は伸ばしても不格好で、受け取る奴を気の毒に思う。ボロの封筒をさっさと自分のにしてしまう螢には、「たかが手紙」の前文しかないようだが。
 平太の割り切れない表情を見た螢は、「そんなに気になるなら他のを使う」と言った。
 「どうせ事務用品のだろ。購買に売ってる白いやつ」
 「茶封筒が妥当じゃないか」
  螢はにやりと口元を上げた。



 「皆さん、手紙を書いてみましょう」

 生徒の情操教育に稀なる一途さを発起する我らが担任、佐倉先生がそう提案したのは一週間前、国語の時間のことだった。ホームルームにその日の当番が「何か報告したい人」と尋ねると、生徒等より素速く、「はい」と先生が手を挙げた。連絡事項とは言っても、これまで生徒が自ら挙手するような事案は殆ど無く、各授業の担任からの伝言などが常だったのだが、それがいけなかったのか、先生はつかつかと教壇の前にやって来て、こほんと一つ咳払いをした。
「皆さんは、誰かに何かを伝える時、何を使いますか?」
 はい塚田君、と、先生は廊下側の最前列に座る男子に手の平を向けた。
 「えぇと、掲示板とか」
 いつのドラマだよ、と背後から突っ込まれ、塚田は首の根を掻いた。だが先生は頷いて、
 「それもありますね。先生が小さい時、主人公が駅のボードでメッセージを読んで、恋人を追いかけるドラマが人気でした」
 きゃあっ、と女の子達の甲高い声が弾けた。
 「携帯でメールしたり、インターネットでやり取りしたり、便利になった今ではやり方が他にも沢山ありますね。でも先生は、大事な人に大切な言葉を贈る時、いつも手紙を書きます。電子メールには絵文字をつけるなどの、相手を不快にさせない為の機能が付いていますが、手紙には、メールでは得難い、特別な暖かみが感じられるようにも思います。ですから、はい、」
 佐倉先生は後ろ手に隠していたのを、ぱっと胸の前に持ってきた。セロファンシートに入っているのは、文房具屋で売っていそうなレターセットだ。よく見ると、中のそれが和紙だと分かる。三つのシートにはそれぞれ、柄と色の異なるセットが二種類ずつ入っていた。
 「綺麗!」
 とろけるような感激が後ろの席に聞こえた。どのクラスにも、こまごまとした文房具に弱い女の子というのが存在する。今、声を挙げた篠田正美(しのだまさみ)なんて、机の中に何個もの消しゴムを確保していて、(平太は一度隣の席になったことがあるので知っている)彩色形状のバラエティに富んだのをうっとりと眺めていたりする。ちなみに、平太は角の欠けたモノ消し一つしか持っていない。
 「この便せんと封筒を一枚ずつ、みんなに配ります。時間はたっぷり一ヶ月、国語の授業の一部も当てます。誰に宛てるのかは自由です。書く内容もお任せします。ただし、相手を中傷したり、傷つけるようなことは絶対に書かないで下さい」
 佐倉先生は最後を特に強く言って、不正を許さない目で念を押した。細い体型だけど、正義感が人一倍強い人だというのは、クラスの全員が了解していた。善人ぶるのは御免だが、理由も無く悪ぶって困らせたくもない。イジメなんてもっての他だ。肩に伸ばしたふわふわの茶色い髪のような空気を持つ佐倉先生は、お人好しがすぎて天然なところもあるけど、そういうところが好ましいとも言える。だから平太も、その提案には、言った本人は気付いてないのかもしれないが、人によっては一通も受け取らないかもしれない可能性があるのは黙っておく。この場合、書く事に意義がある。大人を自負する中学二年生ならば、その辺は大いに割り切るべきだ。宛先を決められても面白くはないのだし。
 そういう訳で、ノリだけはピカ一なクラスの連中の大半は、先生の提案をすんなり受け入れた。平太もその一人だ。だが、シャープペンシルを手にしてから十分、一行も書き進めることが出来ないのに愕然とするうちに、あっと言う間に一週間が経ってしまい、現在に至っても一文字すら書けないでいた。
 「手紙一枚に、よくそれだけ時間をかけられるな」
 螢の目には、呆れよりも感心の光が宿っていた。
 「そういうお前はどうなんだよ」
 「一分で書いた」
 「いっぷんん??」
 こいつの頭の中はどうなってんだ。いや、一体何を書いたらそうなるんだ。
 くすくすっと笑う女子の声が、教室の真中で響いた。椅子に座った花井美喜(はないみき)と、彼女の二人の友達が談笑している。花井は兎みたいな黒目がちの目を瞬きさせて、楽しそうにお喋りしていた。
 「平太、今日時間ある」
 「ん、ああ、特に用事ないけど」
 「じゃあ帰り、俺の家」
 寄れと言いたいのだろう。二人で進めるゲームを、まだ攻略していない。分かったと答えると、次の授業開始を知らせるベルが鳴った。



 結論から先に述べると、螢の家では遊べなかった。いつも通り、天気とかゲームとかの話をしながら、二人並んで帰ったのだが、家の玄関前まで行くと、螢の顔が無表情に変わった。壁の小さい窓ガラスの中から物音がしている。誰かが誰かと話しているようだった。
 「ちょっと待ってて」
 中に入っていって、外に出てきた螢の手に黒い鞄はなく、肩にオレンジのサックをかけていた。
 「ごめん、平太の家行こう」
 平太は頷いた。先を行く螢の足取りは、ここまで来るよりも少し速くなっていた。
 「父さんが帰ってたんだ」
 そうぽつり言ったのが聞こえた。

 「あら、螢くん。いらっしゃい」
 「こんにちは。お邪魔します」
 平太の母が迎えると、螢は礼儀正しく頭を下げた。何度も来ているのだから、いい加減くだけても良いのだが、毎回律儀に頭を下げる。螢の瞼にちょっとかかるくらいの黒い前髪は真っ直ぐで、切れ長の目は浄瑠璃人形を彷彿させる。ろくに梳きもしない平太の髪は、水でいくら撫でつけてもはねっかえるばかりで、自分のはこんな風にはならないだろうなと羨ましく思っている。
 「いいのよ、あとでお茶とお菓子を持っていくからお食べなさい。今日は苺とラズベリーのタルトを作ったのよ」
 母はうきうきとした調子で料理の本を抱きしめた。最近お菓子作りの教室に通い始めたので、腕を奮いたくて仕方がないのだ。一昨日はチーズケーキだったし、その前はシナモンクッキーだった。甘いものが苦手でない平太にしても、二日おきに並べられる甘味には、流石にげんなりし始めている。だけど螢は、出来の良い大人みたいに「楽しみにしてます」と言って、母を喜ばせる。母はますます上機嫌になり、張り切って台所に入っていった。
 「あんま相手しなくていいよ」
 二階の部屋に上がって、平太は鞄を地べたに下ろした。折り畳みテーブルがベッドの足下にあり、ゲーム機やソフトが散らかしっぱなしになっている。片付けろと口すっぱく言われるが、物の場所が一発で分かる一番良い状態だから、掃除は週に一度するかしないかだ。
 「まともに聞いてると、そのうち生クリームをボールごと食わされるぞ」
 「でも、おばさんの料理、俺は好きだな。美味しいじゃないか」
 「毎日付き合ってないからだよ」
 鞄からゲームソフトを出した螢を待たせて、平太はテーブルの脚を広げ、周りのいらない物を、とりあえず脇によけた。
 「おっし」
 プレステのボタンを押そうとしたら、螢にどうしてか止められた。
宿題を終わらせてからやろうだなんて、そんな品行方正なこと。平太は当然「ええええっ」と顔を渋くしたのだが、母に小言を言われないようにする為にはそうした方がいいと説き伏せられ、結局ノートを開く羽目になった。
 今日の宿題は、漢字帳と計算ドリル、そして国語の教科書に載っている小説の音読だ。音読を宿題にされても、平太はちゃんと読んでいった試しがない。やったかどうか調べられないのに宿題にしてもしょうがないんじゃないかと思う。上手い奴は練習しなくたって読めるし、下手な奴は何遍読んでも、本番で失敗する。
 突き合わせた頭を上げて螢を見た。螢はドリルでも教科書でもない、分厚い本を読んでいた。お前はしないの、と聞こうかと思ったけどやめた。螢が宿題を忘れて先生に怒られるのなんて、一度も見た事がない。
 漢字をノートに写している、自分の書く音だけが聞こえる。やり始めた最初は、二人とも何か口にして、話の種にしていたが、段々と静かになった。平太が時々、計算の仕方を螢に質問して、螢がそれに答える。平太がその通りにやって答えを出すと、螢は「うん」と頷いて、また赤い本に目を戻した。
 途中、母が、会心の出来だというタルトケーキを、紅茶とセットにして盆に持ってきてくれた。フラン何とかいうそれは、ラズベリーソースの甘酸っぱさが程良く感じられて、今まででのベストにランクインすると平太には思えた。螢は行儀良くケーキをフォークで切り分け、頁を捲る合間に一欠片ずつ食べている。
 何十分か過ぎて、不意に、螢が目を上げた。
 「平太は手紙書けたのか?」
 「…書けてない」
 答え方がちょっとぶっきらぼうになったのは、平太が頭を悩ましているのに、螢はたったの一分で書き終わったというのを思い出したからだ。螢はただ確認するような顔をしていた。なのに、投げて寄越してきたのは直球だった。
 「花井に出せよ」
 ぶはっ。平太の飲んでいた紅茶が飛沫を上げた。
 「な、な、なに。何で、何で花井?」
 動揺を必死に隠そうとするが、誤魔化そうとすればするほど、どつぼに填っていく。頭に血が上って、お風呂でのぼせたみたいになっていく。螢はケーキの欠片を飲み下して言った。
 「先生、あの手紙、誰に書いてもいいって言ってたろ。内容も自由だって。男子じゃそれにかこつけて、好きなやつに出そうってのもいるらしい」
 平太は思わず目を剥いた。
 「ええっ。んなのもアリなん?」
 「好きだと言われて悲しむ奴はいないだろう。先生の決めたルールは破ってない」
 お前、突っ込むところが間違ってるぞ。涼し気に言い放った友人の顔を見て、平太はそう思った。手紙なんて年賀ハガキと同類じゃないのか?書きたいことがあんまり思い浮かばないもんだから、去年結婚して東京に移り住んだ従兄にでも出そうかと思ってたのに、平太より一周りも二周りも度胸がある奴がいるのだという。
 「花井人気あるからな」
 螢の追い打ちに、平太の頭の中は、ハンマーで殴られたみたいになった。数時間前まで、紙一枚の問題だったのに、何だかすごく気分が落ち着かなくなった。いや、それよりも。
 「…なんで分かった…?」
 平太は勘の良すぎる友人を、恐る恐る見上げた。
 「だって、今日も見てたろう」
 しれっと返答される。そうか。俺って分かりやすいのか。がっくりと顎が下がった。
 「花井に手紙渡す誰かに負けたくないなら、お前も出すべきだと思う」
 「だって…手紙なんて書いた事無いし…」
 言い方がもにょもにょっとしてしまうのを、螢は気味悪げに見ていたが、ごちそうさまとフォークを置いて、片手で開いていた本をぱたりと閉じた。
 「『織女(たなばた)にかしつる糸の打ちはへて年の緒長く恋ひやわたらむ』」
 「は?」
 「織り姫に貸してやった糸みたく、長ったらしくずっと恋煩いしてるのかってこと。そんなに苦手だって言うんなら、分かった。俺が書き方教えてやる。だから花井に手紙渡せ、いいな」
 「はああ??!!」
 平太は素っ頓狂な声を上げた。だが螢は仕事を一つ終えた顔で、用意したソフトをゲーム機にセットした。「あらかた終わっただろ」と、コントローラーを平太に持たせてスイッチを押す。若干間抜けなオープニング音と同じ音が、平太の脳内にも鳴り響いた。螢がどうしていきなり、こんな事を言いだしたのかが分からない。人の事なんて、夏休みの朝顔の観察程度にしか考えてないくせに。
 「さっさとボス倒そうぜ」
 魔法の杖を振りかざした小人型のシャドウ―自作キャラのことをそう呼ぶ―が、洞窟の奥へと駆け出した。平太がデザインしたロボット型のやつも、つられてのそのそ歩き出す。だけどさっぱり集中出来ない。

 だって螢。花井が好きなのはお前なんだ。

      


 学級委員の螢に、密かなる想いを寄せている女子は二人や三人ではないと平太はみている。クラスの女子だと、最低でも三人。隣とその隣のクラスを併せたら、両手の指が全部おれると思って疑わない。
 螢の父親がまだ家にいた頃、それは幼稚園に通い始めたちっさな時のことだが、母がパート勤めで迎えに来られない日が多く、そういう時の平太は一人で帰らねばならなかった。あの頃、といっても十年も経っていないが、今みたいに人さらいが頻繁に出没するような、危うい時代ではなかった。幼稚園の先生から、「平太君のおかあさん、今日迎えにこられないみたいなの」と聞けば、「じゃあ一人で帰るよ。バイバイ」と手を振って、帰りがてら道草に、わざわざ遠回りして歩いたものだ。いつだったか、母がまた迎えにこられないというので、スリッパを脱いで帰ろうとしていた夕方、
 「平太君、待って」
 先生が平太を呼び止めた。
 「今日、螢君も迎えがないの。一緒に帰ってもらえないかな」
 先生の左手は、おかっぱ刈りの男の子の右手と繋がれていた。平太は合点承知した。その子の顔が女の子みたいで、体つきも小さかったので、(俺が連れてってやらなくちゃ!)という使命感にかられ、兄貴風を吹かしたのだ。
 螢の両親は共働きで、平太と同じく、よく一人で帰っていたのだという。帰り道にそれを螢から聞いた時、平太は「よっし、これからは一緒に帰るぞ!いつでも来い!」などと大言壮語して、雛を守る親鳥のような気分になった。繋いだ手にぎゅっと力を込めて歩くと、螢はちょっとびっくりしたように瞬きして平太を見上げた。そして口元にえくぼをつくって笑った。
 「ありがとう」






 「はい、そこで切ってください」
 背を真っ直ぐ正して読んでいた螢の声が途切れた。平太は夢から覚めるように、はっ、と息を止めた。
 「今日はここまでにします。伽津木(かつき)くん、よく読めていましたよ。皆さん、次の時間もちゃんと音読をしてきて下さい」
 五限目が終了した。生徒は筆記用具を仕舞い、椅子をひっくり返して机に乗せ始めた。教室の後ろに押して、ばらばらに廊下に出ていく。
 平太の掃除場所は美術室だ。平太の他に、同級生と三年生が一人ずつ担当になっている。だが、三年生が掃除にきたのは一学期が始まった最初の数週だけで、そのうち顔を出さなくなった。ズボンがだらしなく腰に吊り下がっていた事以外、顔も思い出せなくなっている。美術室はそんなに広くないし、さぼってるのを先生に言いつけて反感を買うのも面倒だ。だから、上級生に関してはもうどうでもいい。
 床を箒で掃いた平太は、雑巾を片手に喋りまくっている同級生を一瞥した。ついでに、こっちもいなくなって欲しいぐらいだ。
 「そういえばさあ、お前の組、おもしれー事やってるんだってぇ?」
 山中は前髪を指で弄りながら、ふんと鼻を鳴らした。
 「手紙出す、とかだっけ。ダッセーことやってんなぁ。俺この間機種変したばっかでさ、3Gのメタルカバーで写真の画質も最高」
 どうせ親にねだったんだろ。平太は心の中で悪態をついた。平太の両親は機械にうとく、パソコンは一台あるが、二世代前の弁当みたいな形をしていて動作も鈍く、インターネットにも繋がっていない。最近買い換えを検討しているようだが、手元に届くのはいつになることか。学校には授業で何台か用意があるが、昼休みの使用は許されておらず、ネットに接続するには特別な許可がいる。不便極まりなく、自分だって高校に入ったらマイパソと一緒に頼むつもりだが、持ってたって、こんな人を馬鹿にしたような言い方はしない。
 山中はポケットから銀色に輝く携帯を取り出し、ボタンを操作した。あからさまに見せびらかす手付きだった。
 「面白いって言えばぁー」
 一々語尾を伸ばすな、むかつく。
 「お前と伽津木が仲いいのもおもしれぇなぁー」
 無視を決め込むつもりでいた平太は、思わず手を止めた。山中はにやにやした表情を崩さない。
 「あいつ何でも出来んじゃん。俺のクラスの女もこの間告ったらしいけど、ソッコーでふられたらしくって、わあわあ泣いてたって話だぜ。ひでえ奴だなぁ」
 憎たらしいが、山中は勉強が出来る方だ。でも螢と比べたら全然下。自分のクラスでも名の通る螢のことが、こいつは何かとつけて気に食わず、因縁つけてくる。
 ひでぇのはお前の性格だよ。…確かにちょっと、あいつは冷たいとこあるけど。それにしたって、薄っぺらな偽善振りかざしたがる山中とは勝負にもならない。掃き溜めた埃を、わざと山中に向けて払った。山中はごほっと咳した。ざまあみろ。
 平太は入口の隅に箒を立て掛けて美術室を出た。背中にきいきいした声がぶつけられるのにも構わない。ただ最後、山中の放った矢が胸の辺りを掠め、どきりと心臓が跳ね上がった。
 「お前が好きな子だって、あいつに取られるかもしんねぇんだぞぉぉ!」


教室に戻ると、机と椅子は綺麗に元通りになっていた。こちらの担当は多くて、クラスの五人が掃除にあたっている。まだ途中だったので、戸口に立って入室の許可を待った。螢が班長なのだ。
 彼は窓ガラスを拭いていた。制服を脱いで、ワイシャツを肘の辺りまでめくっている。
 各月と週のスケジュールを書いた後ろの黒板の前に花井が立っていた。肩の下ぐらいまである髪が、掃除の間は二つ結びにまとめられていた。何か書こうとしていたのか、右手はチョークを持っている。だがその目は黒板を向いていなかった。日射しのいい手摺り、そこに立つ人間を見つめている。螢の背中を。



 その日の帰りも、螢は平太の家に来た。次の日も次の日もやって来た。平太の母は「レパートリーが追いつかない」とおやつの心配をしたが、螢は「お構いなく」と、業務用スマイルを絶やさなかった。
 宿題かゲームをするのかと思いきや、螢は平太を放って寝てばかりいた。体を丸めて腕を組んでいる姿は、眠っている間も何か考え事をしているように見えた。
 今日は雨。冷えた水の粒がガラスを叩く音を聞きながら、平太はとりあえず宿題をしている。
 学校では非の打ち所のない螢が自堕落なまでに眠りこけるのを、平太は今までに二度見てきた。それはいつも「父さんが帰ってきた」日に始まり、「父さんが家を出た」日に、緩やかに終わる。一年前の二度目の時には、平太の家に寝泊まりもした。でも今回は、まだそれがない。
 ―なんでつるんでるんだろうなぁ。
 平太は思う。背だって小学五年生時にあれよという間に追い越され、それ以来常に成績優秀、スポーツ万能。僻む要素は尽きないが、それにしたって、山中のようには芯から憎めない。平太の中での螢は、いつまで経っても、親が迎えに来なくて心細そうにしていたあの時の螢のままだ。
 (クラスの女がわあわあ泣いて…)
  しとしとと、雨音が続く。

 「―…何時?」
 テーブルの向かい側の下から尋ねられた。
 「もうすぐ七時半。寝過ぎ」
 起きあがる気配はない。目を開けてるのかどうか、テーブルの上からは見えないのだが、
 「手紙書いたか」
 「書けてない」
 それは限りなく、『書かない』に近い返事だった。
 「…書きゃいいのに。誰かに先越されたらどうすんだ」
 「告白されても、花井がそいつとつき合うとは限らないだろ」
 「つき合わないとも限らない」
 「―」
 こういう状態の螢がいつにも増して不機嫌なのは心得ているが、今度のは意味が分からない。(俺の自由だろ!)って、喉元まで込み上げてきそうになる。
 (…あれ…?)
 螢がふるりと首を振って上体を起こした。鼻筋に前髪が張り付いていた。
 「帰る」
 こめかみに過ぎった考えを平太が確かめる前に、とんとんとん、と階段を降りる音が遠のいていった。テーブルの上に残された忘れ物を届けに行く間もなかった。赤いカバーの新書に金色で文字が書かれている。古今和歌集。手に取って捲ってみたが、日本語とは受け入れがたい文ばかりで頭が痛くなった。明日渡そうと学校の鞄に仕舞い込んでいると、母の「夕飯よー」と呼ぶ声が上の部屋まで届き、平太は腰を上げて台所に向かった。暗い階段を降りきっても、さっき脳を掠めた疑問が頭から離れなかった。




 週明けの火曜日、ちょっとした事故があった。掃除の時間に、花井が怪我をしたのだ。平太はその時間、美術室で山中の嫌味を聞き流していたので実際には見ていないが、テレビの隣に飾ってあった花の花瓶が、花井の上に落ちてきたのだという。清掃をしていた男子がふざけて駆け回っていたら勢いで花井に衝突し、よろめいた花井がテレビ台にぶつかって、そんな事になったらしい。怪我の方は幸い大事には至らなかったが、重い花瓶が肩にぶつかり、花井は蹲って動く事も出来ないでいた。事故の当事者だった男子―お調子者の谷蔵だ―はオロオロするばかりで、突然の出来事に、周りにいた生徒も、口をぽかんとするばかりだった。
 そこに、バケツに水を汲んだ螢が帰ってきた。歪な空気が流れているのを瞬時に察し、水浸しになっている床と、痛みを堪えている花井の姿を見るなり、班長がしなければならない行動に素速く移った。
 「立てるか」
 花井は螢に支えられて何とか膝を上げた。不安そうに見送る女子生徒に、螢は、濡れた床を拭いておくよう頼んだ。
 ホームルームには螢の方だけ戻ってきていた。机と椅子はいつも通りきちんと並べられ、床板には水跡だけ残っていた。ただ、花瓶のあった位置が空っぽになっていた。佐倉先生が事故について生徒に注意する。谷蔵が席で体を小さく縮めた。
 「あれ、ちょっと役得だったよね」
 部活をするか帰るかの時間に、教室に残って井戸端会議しているクラスメートが、四人ぐらいで輪になって話しているのが聞こえた。平太はバスケ部所属だが、今日は顧問の先生が病欠だとかで自主練習だった。大会もなく、何となくやる気が出でこない。三十分ほどだらだらして、廊下をダッシュする先輩に見付かりでもしたら行こう。そんなつもりで席に座っていたのだが、女子の声が、葉陰に集まった鳥みたいにかしましい。
 「うん。びっくりしたけど、ちょっと羨ましかったなー、なんて」
 「伽津木くん迷いなかったよね。ミキのこと好きだったりして」
 やだーーっ、と黄色い悲鳴が上がった。
 「そうだ、へーた!」
 一人が平太を呼んだ。花井と仲のいい与科香里(よしなかおり)という女子で、勝ち気で背も高い。平太が苦手とする部類だ。
 「あんた、伽津木くんが誰好きなのか知らない?」
 「…あ?」
 「友達なんだから知ってんでしょう」
 「知らねーよ」
 「何で?」
 「知らねーもんは知らねー!」
 友達なら好きな子の名前知ってて当たり前だと、与科はそう信じ切っている。平太は腹ただしくなってきて、鞄を取り上げた。
 「何よ怒っちゃって。変なの」
 与科はぷっくり頬を膨らませた。

 図書室に行くと、カウンターに三年生の図書委員が二人座っていた。お互いに小声で何か喋っていて、平太が入っていっても目配せすらしない。干渉されないならそれはそれでありがたい。真中ほどに丈の低い本棚があって、その前後に六人がけの机が三つずつある。平太は奥の隅に鞄を置いて腰掛けた。
 六月は気分的にも鬱陶しい。先々週、先生が手紙を提案した日の辺りから天気を崩し、先週末から本格的に雨降りになった。まだ梅雨入りではないと思うが、前線は着々と本島を攻めてくるだろう。
 本を読む気にはならず、とりあえず宿題を終わらせようと鞄を開けた。教科書の間に挟まった封筒の藤色が角を出していた。引き抜いて、中を取り出す。便せんは自分のだから、草を編んだような柔らかい黄色をしている。
 折り畳んだのを開いて、平太はしばしそれを見つめた。宣言した通り、文字の一つすらない。
 出さなくたってばれる物じゃあない。誰かさんが誰かに愛を告白するという話だって、差出人が名前を添えるのは自由だ。古風な手法ではあるけどもその勇気は讃えたい。だがあくまでも自分以外の話。螢に言われるまで思いもしなかった。
 臆病だと罵られればその通りなのかも知れないが、平太の中では漠然とした判定があって、自分に下っているのが敗北でも、そうだろうなという潔さが先に立つ。諦めではない。あいつだったら俺も認める。
 ―友達なんだから知ってんでしょう。
 知らない。これは事実。階段を降りて今の今まで消えないもやもやは、それだったんだ。
 図書館の戸が開いて、真っ直ぐな前髪が中を覗いた。平太の姿を見とめて入ってくる。お喋りしていた委員も軽く頭を下げた。声をかけられた平太は、便せんを封筒に戻し、鞄に差し入れた。
 「何だ、帰ったかと思って探したぞ」
 下駄箱まで行ったら靴が残っていたので引き返してきたのだと言う。螢は平太の椅子の隣に座り、背を崩した。
 「匿ってくれ。疲れた」
 天井を斜めに向いて目を閉じる。先生にも生徒にも「学級委員」の螢は、人に見付からなさそうな時と場所を選んでは時々サボタージュする。クラスのまとめ役に推薦された時、彼の「頑張ります」が「ガンバリマス」に聞こえたのは平太だけだろうか。他人も親をもうざがる螢が、同期の世話をしたがるとは思えない。
 ゼンマイをきりきりいっぱい巻いてたのが、止まってしまったみたいだ。平太の部屋で寝ていた時も今も、そうやって少し休んで、またゼンマイを巻き戻す。じゃあな、って戦地に赴くみたいに言い残して。
 「花井の怪我たいしたことないってさ」
 螢が呟いた。
 「そう」
 良かった、とか、保健室連れてってくれてありがとう、とか思ってる事は色々あったのに、何も続けられなかった。
 「…土日、また家行っていいか?」
 母は螢を平太の兄弟のように扱ってるから、いつだって勝手に上がってくれて構わないのだが、
 「悪い、用事があるんだ」
 へえ、と螢は意外そうに平太を見た。ここのところの週末はずっと、ゲームを二人で進めていたからだ。不服そうに舌を打ち、「じゃ適当に外をうろつくかな」と言って額を机に押しつけた。本当は用事なんてない。ただ、何となくで、どうして断ったのか、平太には自分でもよく分からない。
 校舎の中庭に面したガラスは、色々な色を透かしてモザイク画のようになっている。紫陽花の赤紫やカキツバタの青、松葉菊の薄いピンクが水滴に濡れて、窓を通した内側からは輪郭がはっきりしない。
 「たまには家に居てあげたらどうなんだ。せっかく―」
 要らない事まで口にしてしまった。が、リアクションがない。視線を外から中に返すと、螢は顔を壁の方に向けていた。すう、と寝息が聞こえた。起こそうかと声を掛けかけたが止めた。ひどく疲れているように見えたからだった。
 それから十五分ぐらいして、ゾンビのように起きあがった螢はふらり図書室を出ていって、短い時間の後に鞄を持って戻ってきた。時刻が六時になった時計を見て、平太もサボることに決めた。二人で帰り、煙草屋の角で別れた。
 傘をたたんだ平太が小腹を満たそうと台所に入ると、母が食卓のテーブルにボールペンを持って座っていた。先っぽでメモ帳をトントン叩いている。何をしているのかと思えば、手紙を書いているのだという。
 「高校の時の友達からハガキをもらってね、お返しに何か書こうと思ったんだけど難しくて。さえちゃんみたく、上手く可愛くって、なかなか出来ないわあ」
 ハガキの差出人が「さえちゃん」なのだろう。母は縦書きの便せんに、何度も書き直していた。
 「メールにしたら簡単じゃん」
 平太のアドバイスに、母は「んー」と気のない返事をした。
 「さえちゃんはそれでもいいと思うけれど、私が、ね」
 「?」
 母は徳用パック入りのチョコレートの銀紙を破った。自慢の手作り菓子は、今日はお休みするようだ。
「だって、さえちゃんの時間をもらったんだもの。きっと何を書こうか考えたと思う。お母さんもその時間、ちゃんと返してあげたいの。今はこんなことやってますって。その方が、何となく、生きてる感じしない?」
 そう言った母の傍らには、お気に入りの携帯が蓋を閉じていた。
 部屋に上がった平太は、鞄を開けて「あ」と声に出した。螢に本を返し忘れていた。尋ねない螢も悪いが、週末に来るつもりだったならその時でいいと思っていたのかもしれない。
 「…まあいいや」
 どうせいつでも来るんだし。
 月曜、と脳に浮かべて思い出した。再来週の月曜が発表だと言ってなかったっけ。自己申告制なのを願うばかりだ。平太は封筒一式を探り出し、じっと見つめ直した。
 別にいいじゃないか。花井が螢を好きだって。螢がそれで花井とつき合ったって。深呼吸して、まずはメモ帳に下書きから書き始めた。少しだけ、足下がふわふわする。俺は今、生きてる感じ、してるだろうか。




 週末、螢の奴が襲撃してくるんじゃないか気になったが、土日とも平和そのもの、言ってしまえば暇だった。嘘をついたのは平太だから仕方ないが、やりかけのをそろそろコンプして、次のステージに移りたいとも思った。
 学校の門から生徒玄関へ方角いっぺんに歩く集団に、螢の背中を見付けた。
 「うはよー」
 タックルを仕掛けたのだが、
「あ、…はよ」
 返事はどこか上の空だ。
 「風邪でもひいてんの?」
 湿気が多いと頭痛がするとはよく洩らしていたが、螢は「ああ」と、あまり聞いていなさそうな相づちを打った。平太は気を取り直し、ゲームの約束を取り付けた。嘘をついた後ろめたさもあり、「かあさんがケーキ焼くから食ってけよ」と付け加えもする。螢は傘の内側で、声を出さず顎を縦に振った。
 鉛色の空から重い雨の降る日は、校舎の照明がやけに明るく感じられる。生徒の一人が席を立ち、ヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』を音読している。声も晴れた日より響き渡るようで、同じ教室なのに、どこか別の場所にいるような気がしてくるから不思議だ。
 机の中の教材の一番下に忍ばせたのをこっそりと見る。時計の進みが怖いような、浮ついた気分になってきた。
 前方斜めの席を三つ飛ばした場所に花井がいる。平太の列の最前席には、姿勢よく教科書を開いている螢の背中がある。花井の頭が少し動き、白い頬が覗く。唇を結んで瞬いた瞳に、一瞬、ずきりと胸が痛んだ。
 よく分からないけど見ていたい。それが「好き」って事なんだろう。だけど見ていると色々な事が分かってくる。その子が誰を見ているのか分かってしまう。「好き」って、そういう事だ。
 自分を応援してくれるのが、小さい頃からの友達だってのは皮肉だけれど、平太は嘘偽りなく、この友人になら任せていいと思った。螢は何にも言わないけど、花井の気持ち、薄々感じ取ってんじゃないのかな。それでいて順番とか気にする奴だから。
 (だったら、俺、ちゃんと伝えるよ。)
 一縷の望みという言葉を思い出して、内心苦笑した。どっちに転んだって、螢とはずっと友達でいたい。


 一週間の予定を規格通りこなすのが学校なので、掃除の時間だってやってくる。三年の先輩はいない。いつものサボリだ。
 平太の頭は、きたる放課後のシミュレーションでいっぱいだというのに、今日の山中はやけにしつこく、粘っこかった。携帯のこの機能が凄いのだとか、習っているバイオリンが週末のコンクールで優秀賞を取ったのだとか(最優秀賞ではない)、いかに自分のステータスが周囲より秀でているか、回りくどく、しかし濃密に語って見せた。
 平太はすべからく無視した。それが山中の自意識を傷つけたのか、全然似合ってない銀縁眼鏡の鼻の引っかかりを、格好良いつもりで押し上げながら、今度は個人攻撃を仕掛けてきた。
 「皆川くんてバスケ部員なんだよねぇ。金曜日部活行ってなかったじゃん。それで次のレギュラー大丈夫なわけぇ?僕は今の時期から冬コンの課題曲決まっててさ。毎日練習漬けで困っちゃうよ」
 お前に関係ないだろ。そう思ったが口には出さない。山中はカシャンカシャン携帯の蓋を開け閉めしながら、ニヤニヤ笑っている。
 「サボリといえばさぁ」
 山中は一際大きな声を出した。
 「金曜は伽津木も一緒だったじゃん」
 しまった。見られてたのか。平太は平静を装い、「螢は気分が悪くて休んでたんだよ」と言い返した。
 「はん、どうだか」
 山中は開閉する手を止めず、さらに続ける。
 「気にくわないんだよ、あいつ。裏表ある人間つーの?先生の見えないとこで手ぇ抜くくせに、いいとこだけ持ってっちゃってさあ。あんな奴のどこが良くてもてるんだか。親が言ってたから知ってんだぜ、あいつの父さん他に女つくって出て」
 「黙れっ!」
 話の矛先が螢に及んで、さすがに平太の中で、我慢という名の紐が、ぷつんと切れた。
 「何にも知らないくせに、人の事あれこれ言うんじゃねぇっ!分かったかこの猿!!」
 「さ、猿だとぉ…?」
 持っていた箒を倒して胸ぐら掴んできた平太を、山中はじたばたしながらも睨み付けた。だがその顔は、突然、下品な笑みを浮かべたものに変わった。
 「お前さぁ、もうちょっと、人疑った方がいいんじゃねぇのぉ」
 「はあ?」と平太が眉を潜めるのを、可笑しそうに喉で笑う。
 「お前のクラスで一番人気ある女子って、花井だろ。あいつ可愛いよなぁ。髪だってサラサラで、色白で。だけどさ、諦めた方がいいと思うぜ」
 ちろりと平太を見上げ、何を思ったのか、携帯を操作した。
 「俺は別に」
 「ほら見ろよ」
 携帯の画面が突き付けられた。映っているのは花井と―、
 平太は目が逸らせなかった。山中の舐めるような声が、耳に入り込んでくる。
「コンテストのあとCD買いに駅行ったらさあ、偶然見ちゃったんだ。日曜デートってやつ?熱いねえ。これ、伽津木が花井に渡してんのって、お前のクラスで手紙ごっこやってるあれじゃん。興味ない顔してやっぱり一番いいとこ攫ってくんだから、羨ましいよなぁ、なあ皆川」
 小さな四角の中に、向かい合って立っている二人がいる。どちらも私服で、学外だというのが一目で分かった。水色のチェックのワンピースを着た花井は俯き加減で表情もぼんやりしている。だが山中の携帯のカメラは、螢が花井に差し出しているものを、色味良く写していた。それはくっきりとした黄色で―
 「これで花井は伽津木の彼女決定だなぁ。うぐっ」
 山中の腿を蹴り上げ、平太は美術室を走り出た。呻いた後に勝ち誇った笑い声が混じるのを聞いた。



 体育館の熱気と掛け声。シュート外しすぎだ、と顧問の笛が厳しく鳴った。ノーマークのポジションもあったのに一本も入れられず、終了間際にディフェンスにボールを奪われて逆転された。練習試合後、平太は汗だくのユニフォームを脱ぎ捨て、タオルで汗を拭った。
 教室には戻らず、部室から生徒玄関へ歩いた。鉛色の空が暗く閉じている。見上げなくても嫌な雨だった。肩と膝に雨粒が降りかかり、傘を握る手が冷たい。 
 ―結局、渡せなかったな。
 玉砕覚悟で花井に渡そうと思っていた手紙は、机の中に置きっぱなしにしてきた。部活が始まる前に渡そうと、休日返上で書いたが、呼び止めることも出来なかった。
 書道室に行く前の螢に何か言われたが覚えていない。封筒の色が頭の片隅にぼんやり浮かんだままだ。聞きたいのは、どんなつもりだったのか、それだけ。
 「―た、平太っ」
 水が跳ねる音に、平太は振り向かなかった。
 「教室にくるって言ったろ、何で来なかった」
 「また靴を調べたのか」
 「違う。バスケやってる竹中が、お前ならもう帰ったって」
 螢の制服は雨粒を吸って濡れている。額にも髪が張り付いている。走ってきたんだと、平太でなくても分かる。それでも聞かずにはいられなかった。
 「日曜何してた」
 「え」
 螢は黙った。しかし沈黙と気取られまいと、「あ、そうだ」と、今朝とは異なる、明るい声を作って言った。
 「家にいた。父さんの話相手して」
 「嘘だ」
 平太は歩くのを止めた。そして螢に向き直った。
 「花井と会ってたんだろ」
 螢の目が驚いて見開くのを、平太は裏切られた思いで見返した。それは螢が花井とつき合うからではない。螢は平太よりもずっと前に、手紙を書き終わってた。自分も悩んで、頭使って書いたから分かる。心が決まってれば、好きな奴に贈る言葉なんて、一分あれば十分なんだ。
 「俺、花井がお前のこと好きなの知ってた。だからいい。そんなのは全然いい。だけどお前、花井に告白するつもりでいたのに、何で俺に手紙渡せなんて言ったんだ。お前が一人で勝手に渡せば済む事だったろ」
 先生と生徒には『学級委員』の螢。
 母さんには礼儀正しく、平太の部屋では『ずぼら』な螢。

 "―裏表のある人間つーの?"

 この期に及んで山中の言葉なんか思い出す自分が腹ただしく、口を半開きにして何も言い返せずにいる螢が許せず、何かがもう、苦しくて仕方なかった。
 「平太、俺」
 「俺が迷ってるの見て面白かったか?だからあんな毎日、書け書けってうるさく言ったのか?お前の親が大変なのはよく知ってる。だからって、俺を巻き込むなっ!!」
 平太は、螢が何か言いかけたのを拒むように走った。目頭がどんどん熱くなっていった。


次の日から数日、週でいうと火曜から木曜を、平太は風邪で学校を休んだ。螢の事は関係ない。本当に熱を出した。
 「ちゃんと着替えないからよ」
 母は小学生の子供に聞かせるように言い、平太の為に林檎を剥いてくれた。三十八度を上りつ下がりつする熱で、脳が芯からふらふらになった。
 ダウンして布団に納まっている間、浅い夢にたゆられている間も、ずっと昔に起きた事柄や、最近の事、授業の景色までもが思い出された。それには幼稚園の、螢の手を引いた夕暮れ時の、丸くて大きな太陽を浴びながら帰った時の、遠く微かな景色も織り込まれていた。

 (一緒に帰るぞ)

 (ありがとう)

 他に何を喋ったか、あまり覚えてなくても、それだけは覚えている。そのうち太陽の光は消えてゆき、ぽつんと道に立つ螢だけが夢に残った。俯いたその姿は、意識を手放す最後まで顔を上げなかった。
 ―そんな風な眠りを繰り返すうちに、花井と螢の事については落ち着いて考えられるようになってきた。お似合いだと、それぐらい思えるようになった。螢がどんな悪戯を巡らしていたにせよ、花井が熱を上げる格好良さが彼に備わっている事に変わりはない。騙されたと、あの日は怒るばかりだったが、本当は、真実を言わない友人に腹を立てたのだ。殴るべきは、多分山中だろう。あんな写真勝手にとりやがって。
 ベッド脇のテーブルで、置いてけぼりの歌集が主を待っている。
 (これも返さなきゃな)
 平太は瞼を閉じた。明日には学校に復帰して、言い過ぎたことを螢に謝ろうと思いながら。

 だが翌日、平太の意気込みに反して、金曜日は螢が休んでいた。先生は「伽津木くんは風邪でお休みです」と朝の会で報告した。自分だって治りきっていないから、見舞いに行って悪化させたらまずい。そう思い、月曜を待った。しかし週の真中になっても、螢の席は空になったままだった。
 三限目の国語の時間、佐倉先生はみんなに手紙を出したか尋ね、受け取った生徒に発表を依頼した。自主的に手を挙げた生徒は、殆どが差出人の名を知らなかったが、中には内容から読みとれるものがあり、一番ウケたのは、鷹栖という男子生徒が、その友達の佐々木に宛てたものだ。佐々木と鷹栖は席が隣同士なのだが、それは佐々木が授業中こっそり漫画を忍ばせていたり、教科書を立てた陰で次の授業の課題をしたりしているのあげつらう、半ば告発文であった。
 「てーか、それお前、自分で書いたんだろうが!」
 佐々木は机を手の平で打って抗議した。まあ、佐々木のその反応こそ、(佐々木だろうな)という想像を現実のものに決定づけたのだが。それに対し、鷹栖は細い顎を横に振り、
 「僕は良き友人として、君がこれ以上悪しき習慣へ道を踏み外すのを、見過ごすことは出来ない」
 「う、裏切り者め…」
 佐々木は恨めしそうに呻き、ガックリと項垂れた。
 頬を紅潮させて発表した女子生徒は、「『友達になりたいです』」とひっそり思いを告げられた手紙を大事そうに読み上げた。同性なのか異性なのか不明だが、文体からして、女子のように感じられた。
 「『夏の合宿、頑張ろうな。目指すは優勝!ファイト・オー!』」
 「『今だから告白するけど、お前ん家の掃除機壊したの、実は俺』」
 「『ずっと仲良くしてくれてありがとう。楽しかったよ。三年生になってもよろしくね』」
 「『給食を喉を詰まらせやしないか、いつもヒヤヒヤする。もう少し、落ち着いて食べられないものだろうか。牛乳の一気飲みは体に悪いぞ』」
 中学生らしいものから、子供の心配をするおかんのようなものまで、悩んでいたのが馬鹿馬鹿しくなるぐらいの、ザ・フリーダム。なんだ、と平太は思った。書きたい事書けば良かったのか。
 花井はふんわりした笑みで、十人十色のそれを楽しそうに聞いていた。発表はしないのだろう。好きな奴からもらった手紙をみんなに披露するなんて、嬉しいけど、平太だって恥ずかしくて出来やしない。
 揚々として明るい教室の空気に顔の筋肉を弛めながら、平太の胸の辺りには、在るものが見付からない時のような不安がちらついていた。一つだけ空いている席のように、心のどこかが埋まらなかった。

 掃除の時間、平太は山中に謝る振りをして、携帯の例の写真を消去した。山中は当然怒ったが、「肖像権の侵害って知ってるか」と、拳を振り上げたら逃げ出した。聞いた話、螢にふられたという女子生徒というのは、山中が恋慕していた子だったらしい。二組の友達に教えてもらって、山中の螢に対する憎しみの理由が、それでやっと分かった。あんな性格だから、素直に気持ちを伝えるなんて出来ないでいたのだろう。そこに、ただでさえ燗に障る螢が、自分の好きな子をふったなどと聞いたら、プライドがズタズタだ。だけど螢が好いているのは花井なのだし、それについての非は螢にない。
 平太の書いた手紙は机の中で眠っている。ずっと考えていたが、渡す事に決めた。結果が分かっていても、自分の為に渡したかった。 だが、次の日朝一にやって来た先生が言った内容は、降り続いた雨が急に止んだ天気のように唐突で、誰もが耳を疑った。
 「伽津木くんは、埼玉に引っ越しました」
 驚きの声が、ざわっと湧いた。
 平太は席で瞬きも出来ずにいた。鞄の中には、今日来なかったら家まで行って渡すつもりだった、あの本がある。
 佐倉先生は残念そうに、声を落とした。
 「お家の事情だと聞いています。伽津木くんはとても真面目で、委員長としてみんなを良くまとめてくれていたと思います。皆さん、寂しくなりますが…」
 先生の口は動いているが、何を言っているのか、平太にはよく理解出来ない。頭の奥が、ジンジンしてくる。寂しいって、いない、って。
 何だよ、それ。

 

 生徒が教室を出ていく。平太は廊下にいた花井を呼び止めた。彼女はブラスバンド部だが、廊下で一人、書道室に行く方角を見ていた。
 「伽津木くん、突然だったね」
 花井は寂しそうに笑んだ。平太にとっては意外だった。てっきり、泣いてるかと思っていた。
 「皆川くんは、何も聞いてなかった?」
 「いや―」
 「そっか」
 花井は睫毛を伏せた。そのまま黙ってしまう。やっぱり、相当辛いんじゃないだろうか。せめて彼女にぐらい言ってから行けよ。花井の沈んだ表情を見て、平太の中で怒りが込み上げた。それでつい、口に出してしまった。
 「せっかく両思いになれたのにな」
 え、と兎のようにくるっとした目が上がった。
 「あ、えと、ごめん。日曜に一緒にいるの、友達が見ててさ。花井さん螢の事好きなんだろ。やったじゃん、手紙もらって」
 山中を友達だなんて思ってやしないけど、写真取られてたなんて聞いたら傷つくだろうし。花井を励ましたくて、平太はそう言った。
 花井は平太を大きく開いた目で見つめた。その目は何故か、とても驚いていた。
 「違うよ」
 花井は緩く首を振った。
 「私が伽津木君好きなのは本当。でも手紙はもらってないよ」
 え、と今度は平太が声をあげた。
 「だってあいつ、封筒―」
 花井は、ふふっと笑った。
 「それは私が渡したの。話したいことがあるから、日曜に会ってくれるよう書いて投函しちゃった。来てくれてすごく嬉しかったけど…駄目だったの」
 先生が配っていた時のことが、平太の頭の中で甦った。あの時―先生はレターセットを、そうだ、縦一列の席に色んな種類が混ざるように配った。クラスの人数は二八人。
 愕然とした。同じ柄を取る奴が数人いるって事を、完全に失念していた。握り潰した封筒を交換したまでの一連の流れが強く残っていて、人が選んだものなんて気にもしていなかった。それだけじゃない。ミスは他にも思い当たった。平太はともかく、母みたいな目上の人には応用が利かないぐらいの礼を尽くすのが螢だ。それが、大事な女の子への告白で―あぁもう螢が告白に手紙って時点であり得なく思ってきた―握り潰されてへろへろになった、皺くちゃでしょうもない封筒なんか使うだろうか。いや、使わない。
 「じゃあ…もしかして…」
 「受け取れないって、その場で返されちゃった」
 花井は可愛らしい顔で、ちろりと舌を出した。目が少しだけ潤んでいた。
 「花井」
 平太は自分でも拍子抜けするほど、あっさり口に出していた。
 「俺、花井の事、ちょっといいな、て思ってた」
 花井は一瞬きょとんと表情を止め、「うん」と頷いた。
 「ありがとう。…ごめんね」
 「うん」
 平太も頷く。そして、書いた手紙を渡した。ありがとうって、花井は涙を擦って受け取ってくれた。




 螢がいない帰り道を、平太は一人で歩いた。雨上がりの空は夏の用意を前に、日没を遅くしていた。眩しい金色が山の窪みで輝いていた。オレンジと薄い茜色のグラデーションは、母の作る甘ったるいゼリーのようだ。
 煙草屋の角を、家とは逆の方向に曲がった。暫く歩くと、コンクリートの塀がクリーム色の家を囲う場所に出る。表札は出ていなかった。磨りガラスの玄関も鍵がかかっている。
 「そこの、」
 斜め向かいの家の前で日向ぼっこしていたお婆さんが平太に話しかけた。
 「そこの家な。二日前ぐらい前に、出てったよ。片親の方は何度か帰ってきてたみたいだけれど、姿勢のいい息子は母親についてったみたいだ。父親も昨日役所の人と話していたようだけど、それからずっと見ていない。あんた、あの子の友達かい」
 平太はこくりと顎を動かして、来た道を引き返した。この道を螢と歩くことは、もうない。
 家に帰り玄関を開きかけた矢先、郵便受けに何かが挟まっているのに気付いた。柔らかな手触りした黄色の封筒。伸ばしたけど駄目だったというような、うっすらした折り目が、宛名を書いた付近に幾つも散らばっている。

 『皆川平太様』

 部屋で破って中を取り出した。書いたさ、と言ったあの声が響いてくる。便せんには一度書いた消し跡が残っていた。字を消しにくい紙質らしく、上に重ねてあるのは、消しきれなかった下の文字と同じだ。

" ごめん。"

 一分で書いたと、螢は言っていた。言えずに行ったことなのか、花井について誤解させたことなのか、何度反芻してみても、意味を一つにしきれない。そこに書かれているのは、ただ、平太が螢に言いたかったことだけだ。
 「馬っ鹿だぁ…」
 ゲームだって途中だし、本だって返せてない。ひどい暴言を浴びせかけた謝罪も、傷つけた後悔も、まだ、何も。
 封筒の裏面に見慣れない住所が載っている。学習机の引き出しを開き、白い封筒と紙を取り出した。シャープペンシルをカチカチ鳴らし、短く目を閉じた。あの「書け書け」攻撃が、パソコンも携帯も持たない平太への保険だったのかどうかは知らないけれど、知る方法は、ある。
 何を書こうか、何から書こうか。恋文よりも難しい。考えるうちに頭の中がぐしゃぐしゃにこんがらがってしまって、頭を掻いて、鞄のあの分厚い本を出して捲ってみたら、栞の挟まった左の頁に歌が一つ目にとまった。

 待つ人にあらぬものから初雁の 今朝鳴く声のめづらしきかな
 
 外庭で紫陽花が水滴を光らせている。窓を通じた風に乗って藤色の手紙が机を滑り落ちるのを、慌てて掬い上げた。見上げた細い黄金色は、手を繋いで帰ったあの暮れの時と、同じ。

 (一緒に帰るぞ)

 (ありがとう)








螢、元気にしてますか。僕は―








―了―



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あとがき
 何年も会っていない友人などに、思い出したように手紙や葉書を書きたくなる時があります。筆無精で申し訳なく思いながら、何を書こうかなぁとしばらくぼけっとしたり。
 お話の中でもちょっと触れましたが、私もレターセットとかに弱い達です。見かけると、ついつい買ってしまい、どんどん溜まってゆきます。使用する機会があると何か嬉しい。 でも改まって書き始めると、何かいつも訳の分からないことに…もらった方はさぞ不審に思っていることだろうと遠い目をしつつ。。
 この作品、当初は文芸誌二号に投下する予定でした。が、結局時間が足りず、平行して書いた『霧の家』を寄稿させて頂きました。あちらとは大分雰囲気も違いますが、書き終わってやっと人心地ついた感じです。お世話になっている方にありがとうの気持ちが伝われば幸いです。これからも出来ますれば、よろしくお願いいたします。(^^)