□赤い靴□



 靴を履きたかった。ショーウィンドウの中に並べてあった、とびきり真っ赤なのを。咎める人間はいなかった。顎をくいっと引いた格好のよいマネキンが私を見ていた。外に飛び出すと、重力から解放されたかのように体は軽かった。陸橋から飛んだ。靴は柔らかい底で、アスファルトから弱い足を守ってくれた。渋滞の列を作っている車のボンネットを蹴り上げて、けたたましく鳴るクラクションに攻撃されるのを、声を上げて笑った。笑いながら走り続けた。

私はどこまでも行けると思っていたけれど、靴は私の思い通りにはならなかった。道は耳を塞ぎたくなるような音でいっぱいだった。耐えきれなくなって目に付いた脇へ滑り込むと、地面に散らばっていた釘を思い切り踏んづけた。ゴムを突き抜けたそれは、足の裏を傷つけるぎりぎりまで食い込んでいた。しかめ面で抜くと、裏の波模様に丸い穴が開いた。
―靴が痛んでいく理由はそれだけでなかった。
ガラスケースから取り出した物は、私がまだ眺めているだけだった時の色を、どんどん失っていった。指の先を縁取る皮の部分には、どこかで擦った痕が重なるように残り、踵の白いラインが踏んづけたガムで粘ついてた。そろりそろりと歩いても、靴が醜く変わっていく様はゆっくりと、けれど確実に進行していった。


気がつくと、さっきの陸橋に戻っていた。
前の車に乗り上げるような光景は相変わらずだった。今は静かだった。自動車の群れは中央線の隔てを無視し、犬一匹も通れないほど道を埋めていた。全てが同一の方角を目指していた。個々の乗り物を細胞にして、一つの生き物を構成しているようにも見えた。幾つかはエンジンがかけられたままだった。マフラーから吹き出るガスが生暖かく感じられた。右手側には商店街が並んでいた。靴屋もあるはずだった。
片方に手をかけて脱ごうとしたけどやめた。赤は一番好きな色だった。飾り一つ付いていない単純な作り。余計な細工がついていないから動きやすかった。
私は誰かと出会うのを待った。大声で泣き伏すそいつに、
この靴がどれだけ素晴らしいか聞かせてやるつもりだった。


最終更新日 :07/02/28