ままごとです。-9-


声がでなかった。呼ぼうとすると喉が震える。沙耶、とたった一言発せればいいだけなのに、阿呆みたいに口を半開きにしている自分がいた。沙耶は柔らかい風に髪を泳がせ、横顔を傾げている。覚えているよりも少し骨張った手首が、袖口から覗いて見えた。動かない喉の裏で、透は名を呼んだ。腹の底に長い間沈めてはいるが、けして忘れてはならない箱の鍵だ。

何を言えばいいだろう、元気だった?変わらないなと?
真正面に沙耶の姿を捉えた時、叔母の声が耳を抜けた。

(沙耶は、あなたのこと覚えていないわ)

「あの」
草の上に薄い影が揺らいで、透は思わず肩を引いた。病院の寝間着を着た沙耶がこちらを向いていた。ガラス玉を埋め込んだように精細な色合いの瞳だった。伸びた前髪が、その目の間に張り付いては離れる。少なくとも透が知っている限りにはおいては、昔と変わりない風貌だ。しかし頬の赤みが退いたその表情が、気の許せる知人に対して向けられる類のものではないことを、透はおのずと感じ取っていた。
「君も入院しているのですか」
遠慮がちにそう言い、寝間着の襟首を抑えながら、初対面の相手の領域を侵さない程度に距離をとっている。沙耶は顔も知らない人間に気安く声をかけられるような気質をしていない。入院生活の中で同年代を見付けた時の、ちょっとした安心感を言葉端に添えて、彼はそこに立っている。
「…それ」
「え、あぁ、これですか?」
透に指さされた物に気づいて、沙耶は恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。茶色の丸い耳をした、熊の縫いぐるみだ。
「母が家から色々持ってきてくれて―小さい時のを。懐かしくて、つい」
そう言って沙耶が肩に抱いた物に、透は見覚えがあった。

(なにそれ、ぼろぼろじゃん)
(母さんのお古、透にあげる)
(お前なぁ、俺いま幾つだと思ってんだよ、いいから持ってろ。お前のが似合う)
(何だよそれ、透のが似合うに決まってる)

「すみません、いきなり声かけてしまって。でも知っている人がいなくて退屈で。あと、ちょっと安心したくて」
最後の方の意味が飲み込めず、透は聞いて返した。
「安心て」
沙耶は口の先を開いたが、説明よりも早いといったように、右の手を胸に当てた。
「今度手術するんです、肺が悪いのが検査で見付かって。怖くはないんだけど、ここは年輩の方ばっかりで心細くて」
日が出てきたと、透は場違いな事を思った。東の方で閃光をほとばしらせる光球が、高みを目指して動きつつある。ひんやりと肌を舐めていた気温も今は温く、車のエンジン音や自転車のベルが静けさを破る。鳥が群れを成して飛んでいく空。誰がどんなにごねようと喚こうと、今日という日は確実に訪れるのだと、目に映る物全てがそう囁いた。

(―自分の存在が大事な奴を傷つけるとしたら、あんたならどうする)

会ったばかりのラズにそう言った。あいつは背が高いばかりで、その時彼がどんな顔をしていたかを思い出せない。無責任に言い放った自分こそが、その答えを振り切った逃亡者のくせに、まるで関係のない第三者に答えを望んでいた。

(あなたが言えば、沙耶はきっと思い出す努力をするわ)

俺に責任はないと言ってくれた小夜子さん。悲しい目をして慰めてくれた。だけどあんた、一番大事なことを言わなかった。俺にとってではなく、沙耶にとって幸せな方法を。

透は設置されているベンチの一つを指さした。青々しい葉を茂らせた木の下にあるそれを顎で示して、ハーフカットのズボンのポケットに手を突っ込んで先に歩き出す。
「俺も手術するんだ、背骨のとこ」
「ほんとですか、」
「です」
「?」
「丁寧語とかいらないよ、多分年そんな違わないと思うし」
透は思いついたように振り返った。
「もう寒くなくなってきたな」
「は―、うん。今は春だね、そういえば」
自分の事情を話していいものか、躊躇う口調だった。おそらく自身が一番困惑しているだろう事、二年の歳月を眠っていた事実を考えれば、沙耶の話し方は不自然でない。だが透は聞かなければならない。
「そういえばって、まるで今気づいたような口振りだ。何か変」
他人なら絶対に不思議に思うことを、口にする。沙耶がつい最近起きたなんて事は知らないのだから。気管を悪くしていたことも、入院していたことも、彼に関する事は全て、今ここにいる自分は「知らない」のだ。
本当にそうなんだと、沙耶は拗ねるように言った。
「信じられないだろうけど、僕は二年ほど寝てたんだよ…眠った記憶もないから自覚なしだけど。昏睡状態なんて、漫画みたいだ」
「それで起きたら春ってわけか、眠り姫だな」
知識としての記憶には問題ないらしく、沙耶は唇を上に反らした。
だって仕方ない。眠りの森の姫は存在するが、王子はいない。他に例えようがないのかというような視線を背中に感じたが、『三年寝太郎』の方はもっと適当でないから、黙っていた。
木陰のベンチに近い場所に水飲み場があった。上方に穴を開けた噴射型で、蛇口をひねると温水だった。暫く手をかざしてもういいと思ったところで一口含んで、今度は側面にある普通の蛇口を拈り、頭から水を被った。ベンチに腰かけた沙耶は、縫いぐるみを傍らに寝転がして、絹雲が浮かんだ空を見ていた。
「すみません、知らない人相手に愚痴言って」
沙耶は元の喋りに戻っている。
「読むことだとか書くことだとか、そういうことには問題ないんです。ただ、自分がどういう生活をしていたかになると、そこだけぽっかりと穴が空いている。一面を塗った真中にいきなり白い斑を押されたように、中の領域がない状態だと思ってもらえればいい。起きたら母だという人がいて、確かにそれは違いないけれど、覚えているよりも年をとっているようだった。枕ごと自分を抱えて泣き出すのを見て、やっとこれは母だと思った」
「原因は何だって」
「…聞くと泣くんです。喘息で咳き込むうちに、意識が無くなったそうです。そんなに酷かったのかな」

『誰のせいだと思っている』

無意識に男の名を口にしかけた透の胸に、自分の声がとすっと落ちてきた。高い場所から落とした小刀が木版に突き立つように、真っ直ぐに。「あいつ」が、どれほど醜い事をしたとして、その原因を作ったのは―させる理由になったのは誰だった。『答えろ』と、自分の声はそう言った。

「近頃、母は笑うようになりました。父がもうすぐ戻ってくるみたいなんですよ。仕事か何かで家を離れていると聞きました。僕が目を覚ましたからやる気が出たんだって、変な話ですね」
排水溝に渦を作って流れ込む水を見下ろした目を、透は閉じた。滴が耳元を伝って首にまとわりつく。暗いのはほんの僅か、刹那のこと。その一瞬を耐えればいい。
「なぁ」
一言一句間違うなと、己の胸に言い聞かせる。
「俺、お前の事知らないし、聞くつもりもない。でも同じ病人として聞いときたい。後でまわりの奴らを変な風に責めるのは嫌だから」
決めるために必要なのは、その答えだけ。

「お前、今幸せか」

沙耶はきょとんとした顔付きをして、病院の屋上をじっと眺めた。母が持ってきてくれたという縫いぐるみを膝に寄せ、その両手を軽く握っている。屋根の上にシーツが何枚も干されていて、目が痛いほどに、その波は真っ白だった。穏やかな息が彼の口元から流れ出た。
「幸せかどうかは分かりません。でも、母が嬉しいのは、嬉しいです。僕が覚えている母の顔は、何故か辛そうだ」

―あんたならどうする。

「―った」
小さく呟いた声は、風が木の葉を滑る音に掻き消された。振り返った透は沙耶の前に立ち、手を差し出した。年相応にしっかりとした腕に、沙耶の視線が落ちる。
「握手してくれる」
沙耶の黒目が瞬きした。
「小児病棟の先生が言ってたんだ、病人同士で握手すると手術うまくいくんだって…子供向けのジンクス。ガキっぽいけど」
ようやく意味が飲み込めた様子の沙耶は、破顔して頷いた。暫くぶりに楽しいことに出会えたというように、声のトーンが上がった。
「うん!君、名前は」
「知らないもんどうしの方が効果あるんだよ」
そっぽを向いた透の様子を気恥ずかしいのだと思い立ち、沙耶は、じゃあ、よろしくねと掌に指を乗せた。
「願い事言わなきゃ、君から」
「俺…?」
「だって君が教えてくれたんだから」
「…お前の病気が治りますように」
そのまんまだなぁと、沙耶は笑った。
「じゃ、僕の番」
瞼を落として、沙耶は短い間黙った。背を曲げて額を二本の腕に宛う。握手一つにさえ、誠実な祈りを捧げるようにして。

「君の病気が早く治りますように―痛くなくなりますように」

(大丈夫だよ)

(大丈夫)

深い闇から見えた、蛍のような光だった。小さくて、だけどきれいで。


『…ここどこ』
『中の部屋だよ。倒れたんだ』
『…』
『透?』
『なぁ、もしも…もしもだ。俺がここから出ていくって言ったらどうする』
『…』
『! もしもだって、泣くなよ!』
『―ううん』

二人で桜を見に行くよりも昔。村の少年に出くわして、自分の心に耐えきれなくなった時。行けばいいと彼は言ったのだ。屈託なく微笑んで。

『君は行って。僕も行くから』

沙耶の心は、一つも変わっていない。


するりと、透は指の間を離した。
「サンキュー…、がんばってくる」
「また会えるかな」
「生きてたらな」
透は沙耶を向いたまま、後ろに数歩下がった。医者の予約とってあるからもう行くと言って背を向けた。沙耶は手をかざして、それを見送った。
中庭の脇を通り抜けて、入り口からそう遠くはない場所の車寄せに来た。煉瓦が積み立てられた一角が白い飾り石で囲まれており、中に枯れ葉や堆肥を混ぜた柔らかそうな黒土が盛り上がっている。太い幹に枝垂れかかる花の色を、透は見た。人影がおずおずと近寄ってくる。沙耶の母親だった。
「透様―。すみません、あの子は山での生活をほとんど覚えていないんです」
「俺のこと何か言ったか」
「いいえ、でも、」
透は女を振り返った。淀みない慄然とした言い方だった。

「俺のことは絶対に話すな。俺だけでなく、あなたの夫―沙耶の親父が起こしたあの騒動に関しての全部だ。あなたたちは本家、分家と縁を切り外で暮らすのだから、沙耶の親父の刑期が終わっても、俺には連絡するな。借金の返済も小夜子さんに頼んでおいた。俺はもうあんたたちと関係がない」


*  *  *

雨、とフレイが言った。午前中まで晴れていたのに、午後は椀をひっくり返したような有様だ。すっかり駄目になった洗濯物を横目にして、フレイは「さてと」と、立ち上がった。
「あれ、どこ行くの」
くりぼうは壁に貼った大きい紙面に落書きをしていた。
「行かないよ、ちゃんとご飯作らなきゃ。お腹減った透の分もね…それ何、茶色いゆで卵…?」
「卵じゃないって!とーるだもん、あ」
クレヨンをぼっきり折ってしまって、くりぼうは驚愕の目で道具を見つめた。
「お、折れた…」
「ゴメン、邪魔したね―貸して」
くりぼうの横に並んだフレイは、折れたクレヨンの先が丸い方を手にして動かした。シャシャッと音が鳴りそうな、滑らかな手付きだ。ひねた感じの顔が、安い紙のキャンバスにみるみるうちに表れてくる。おぉーっと、くりぼうが拍手した。
「うまいねー!すごい似てる、この目つきの悪さとか」
「…そこまで似せたつもりはないんだけどなぁ」
「見たままってことでしょ」
くりぼうはいったん顔をふやけさせ、もう一度真剣な顔付きで紙面の前に座り込んだ。
「とーる、早く帰るといいなぁ」
フレイは塗れた窓ガラスに目をやった。灰鼠が走り回っているような分厚い雲が、窓から見える向こう景色を覆っている。薄いカーテンを引き、窓を打つ雨音を遮った。
ドアのノブが引かれた。一瞬透かと二人は目配せしたが、塗れた金髪から滴が垂れるのを見て、残念そうに肩をすくめた。
「早かったね―どしゃぶり?」
「…タオル貸してくれないか」
くりぼうがケースから取り出して、とたとたと走り寄った。ありがとうと言って、ラズは部屋に入る。くりぼうが再挑戦で続きを描いていた絵に気づいて指さした。
「…これ…卵」
「違うって!」
二度も卵呼ばわりされ、くりぼうは顎に皺を寄せた。
「透だって」
こっそりフレイに耳うちされ、ラズは物々しく頷いた。
「うまいな」
「遅いって」
完全にタイミングを外したラズを置いて、フレイは台所にいく。腕まくりをする様子からして、今日もはりきりしゃかりきのようだ。香鳴さんから連絡あったーー?と声が飛んでくる。
「別に」
「あ、そう」
どうでもいいような返しが、逆に何故か刺々しい。流水の後に、まな板を包丁が軽く叩く音が続いた。髪を拭き終わっても、ラズの着ているカットソーの肩はまだ塗れている。腕に抱えていたらしいだけあって、合成皮質の古ぼったい鞄の方は、滴が滲んだ程度に済んでいる。ラズはその中からファイルに挟まれた紙の束を取り出し、ボールペンを片手にしながら、くりぼうには意味不明な言葉を唇に流した。

トゥルルル…

振り向いたフレイがラズと目を合わせて、その音源をたどった。隅の方に据えた、木製の小さな戸棚の上で鳴り響いている。必要最低限でしか使用されず、かけてくる相手も限られた物だった。近い場所にいたラズが受話器を取り上げた。
「―はい」
電話の向こうの相手は、ラズの話し方からすると知人ではない。場所は、いつ頃、と幾つか質問の要項を重ねて、「迎えに行きます、もう暫くお願いします」と言って切った。出したばかりの書類をファイルに挟み直し、玄関の傘を拾って出ていく。
また濡れるね、とくりぼうが言った。



 駅の係員室に透はいた。構内で気分を悪そうにしていたのを、駅員が声をかけ休ませてくれていた。
「貧血のようだからまだふらつくかも知れない。えぇとあんた、知り合い?」
見るからに身内とは思えない容貌の青年を、駅員は胡散臭そうな目つきで見た。だんまりを決め込んでいたのをようやく口にした番号だから、まぁ問題ないか、とワイシャツの襟首を正した。
引受人が現れたことで、透に対する注意は削がれた様子だった。窓口に往来する乗客への応対で、係員の数人が立ったのを見計らって、ラズは彼を連れだした。歩けるかと問うと、透はよく見えない表情で頷いた。
スプリング・コートを頭にすっぽりと被った会社員が、地下街にもぐる階段に早足で入り込んでいく。ラズが開いた傘の色は、黄色味が強い朱だった。
「それ…」
無機質な目が、ぼんやりとその雨避けに焦点を結んだ。
「あの時と同じだ、俺を連れて行った時のと」
騒動の後、家の者の目が手薄になったのを見計らって、透は一人で山を降りた。危ないと父に言われた傾斜は、成長した透の足を邪魔する物ではなくなっていた。迷うかも知れないという考えは、頭の隅にかろうじて引っかかっていた。だが、そんなことで足踏みしていられる余裕がなかった。通帳一つで行ける場所はそう遠くない。行けるところまで行ければいい。雑な思いで列車を乗り継ぎした。着いたのはどこの街かとも分からない、人通りのあまり多くない雑踏。また夜が来ると見上げた視界に朱の花が咲いた。
「あんた何って聞いたんだよな俺。誰、じゃなくて。見ず知らずの人間によくついていく気になったよな…腹が減ればあんなもんか。フレイ見た時ちょっと安心したけど」
ラズが渡した透明な方を差して、小雨になってきた中を透は歩いた。
アーケードを通り過ぎて、アスファルトの整った住宅街の方に行く。進むに連れて、道沿いのタクシーも買い物に訪れる人間の数も、だんだんとまばらになっていった。
足音が一つ止まった。
「…俺、思ってたよ」
挽き潰された声があるとすれば、それはきっとこんな風だろう。
「山を継いだ時も、祝いの席の時も、こんなのいらないって。何かが起こって、俺じゃない誰かが俺になればいいんだって。…でも違う。俺は、沙耶があんなふうになるのを望んだんじゃない…絶対…違う」
小さめの傘が地面に転がり落ちた。嗚咽を噛み殺す透の顔は濡れていた。近づいたラズは、いつものように頭を撫ではしなかった。透の前に足を折り、肩に腕をまわして背をさすった。泣き顔を見せまいとして、腕の付け根に目の辺りを押しつけると、「がんばったな」と耳の後ろで言うのが聞こえた。


(俺、がんばれたのかな)


雨と共にぐしゃぐしゃになっていく意識の中で、透は呟いた。深くに広がる湖を指打つように、優しい声が彼の中に響き渡る。


―痛くなくなりますように。


嬉しいと感じることの出来る沙耶を見て、良かったと思った。どうか幸せでいてと、心の底から願った。



*  *  *

「…ご苦労様だったね」
家に着くなりタオルケットを体に巻いて、透は眠った。少しの物音では目を開かないぐらいに心身が疲れているのは、同居人の目から見ても明らかだった。くりぼうがその横で、絵本を開いている。起きたらあの壁の絵を見せるつもりなのだろう。透の分の夕食は、ラップをかけてテーブルに残っている。
「それで君は何と答えたの」
クレヨンを選びながらフレイが尋ねた。
「自分の存在が例え不可抗力でも傷つけるものならって、それ」
ファイルの中身の仕分け作業をしているラズは、紙に視線を落としたまま、湿気で捲り上がったのを指で押さえている。下手な答えだったら殴るからねと、フレイは物騒なことをあっさり口にしながら青の線を引く。曲線を描いたしなやかな腕が壁から降りた。
「虹か」
「うん、久しぶりに描きたくなった―想像だけど」
茶色い透の似顔絵の横に、フレイが描いた別の子供の顔があった。
二つの笑い顔の上に、七色の橋が架けられている。棚の水差しに飾った小枝から、淡い紅がひとひら落ちた。