ままごとです。-8-


足の裏が冷たい。先に行きたいと、それだけを思う。膝は動いているのに、一向に前へ進んだ気がしないのは、右にも左にも何もないからだ。月光のない夜を、透はひたすら走っている。先に行きたい。行けば会える。
遠くにやっと木が見えた。枝から花を落としている。駄目だ、落としてはいけない。散るなと口を開いた時、後方から甲高い悲鳴が上がった。
心臓の鼓動は見るなという警告だった。しかし自分の顔は、声に反応する事が必然であるかのように、右肩から後ろに反れた。
(…どうしたの、ああ、喉が!)
暗闇に彼等が見える。闇なら何も見えないはずなのに、あの日の光景がそのまま浮き上がり再生している。
(一体何を御膳に入れたの!)
紫刺繍を施した帯を腰に締めた女が、女中に食らい付いている。首根を揺さぶられる女中は、今にも泣きださん顔で繰り返す。
(存じませぬ!存じませぬ!)
女は女中の襟首を離し、宙を空回る手で小さい体を抱きかかえた。青白く閉じられた目。薄く開いた口元から、血に染まった前歯が覗いている。唇の端からぬめった色が伝い落ち、顎下で球になっていく。ぽつ、畳にはねる。ぽつ、ぽつぽつ。女が喚いた。
(誰がやったの!こんな、ああ、早く!早くしないと…)
そこには少年自身の姿もあった。藍の袴を着て椿模様の屏風を背にし、座布団の上で正座した姿勢のまま、女が抱えた者を呆然と見ている。
少年は額を前方に戻した。これが現実なのかどうかは分からない。ただ、意識は彼に走れと命令しており、少年はそれが自分の望みであることを知っていた。後ろでまだ声がする。女の物ではない。低い、呻るような男の声だ。振り返るな。振り返るな。
(何故だ)
視界が切れ、急激に目眩に襲われた。瞼を擦った次の瞬間には、自分はその舞台の上にいた。広い間隔を真中にして、少年から見て左に本家、右に分家の席がある。吸い物や魚を乗せた膳は、どれも食いさしの状態だった。
女の嘆きに操られるようにして、右側の男はのろのろと立ち上がった。泡を付けたその口が、もう一度「何故だ」と呟いた。整然と敷き詰められた畳を越えた向こうに、手応えのない地面を蹴っている自分の後ろ姿が見えた。男はゆらり肩を動かし、座っている少年を血走った目の中心に据えた。
(お前が)
耳を塞ぐ余裕などなかった。男が恐怖した顔で指さしたのと、少年が悲鳴を上げたのは同時だった。


(お前が死ぬはずだったのに。)


*   *   *


 あの山を本家と分家の二つに隔てるなら、沙耶は分家の人間だった。広大すぎるほどの私有地は、確かに他人にとっては羨ましいものかも知れない。利権が絡んだ彼等、特に大人にとっては。
霧に紛れる山は、深い濃紺と緑をしていた。迷子になったら戻れないと、父は透にそう諭した。
(絶対に一人で入ってはいけないよ)
父の膝に乗っていた朧気な記憶。月見に出ていた縁側には、浴衣を着た母もいたような気がする。浴衣には橙色の模様があった。よく覚えていないが、多分金魚か花火だったと思う。
次に思い出す場面に両親はいない。しわくちゃの腕を震わせた母の父。祖父が目を見開いているのを透は見上げている。お手伝いさんが、酷く慌てた調子で電話している。ガードレールを破って転落したと、そんな事を言っていた。透の両肩に置かれた祖父の手には、痛いくらい力が込められていた。
緋ノ原では元来女性が家を継ぎ、嫁婿が緋ノ原の姓を名乗る。父は山裾の村の出身だった。祖父の二人の娘のうち、緋ノ原を継いだのは長女の方。母の妹は大学を卒業してから周辺の会社に就職していた。だから両親の葬式が内々で行われた日、透は駆けつけてきた叔母を初めて目にした。彼女はそれからずっと、この緋ノ原の家にいる。
山の上には二つの家しかない。山林を登記している緋ノ原と、緋ノ原から別れた六条の家だ。大正末期、緋ノ原から一人だけ外に嫁ぎ出た女がいた。女は長女だったが、家は次女が継ぐことで話はまとまった。しかし当時の主が住居を隣接させることを婚姻の条件としたために、六条は緋ノ原の垣根を越えた場所に門を構えることになった。緋ノ原と六条は祝い事や正月の開け酒を一緒に行う。それは戦後も変わりなく続けられてきている習慣だった。

彼等は一体何を楽しみに生きたのだろう。先代より前にここで生活していた者のことを考える時、透は嘆息せずにはいられなかった。物心つく以前は、優しい母と父に可愛がられ昼夜を過ごすことに、何の疑問も抱きはしなかった。外の様子を知らず、与えられた本を読む毎日であれば、きっと成人するまでそうだっただろう。
家庭教師に宛われた最初のバイトの学生は、黒縁の眼鏡をかけた男だった。どこどこを卒業したと、聞いてもいないのに自己紹介し始めた彼は確かに学に優れていたが、頭髪があまり清潔ではなかった。おまけに質問するごとに、点がどこにつくのか分からない理論を長々と述べる。ある時「もっと簡潔に」とお願いしたら、その日を境に来なくなった。次に訪れたのは学生ではなく、名門予備校の講師だったが、これは一日中手揉みしているようなゴマすりだった。苦手な英語で単語に四苦八苦しているというのに、ノートを覗き込みもせず「頭が良くていらっしゃる」などとお世辞をまき散らす。(そんなわけあるか、ボケ)と、透は冷めた目で彼の尖った顎を見上げた。おだてられて喜ぶ子供であったなら、それもいい遊びになったかもしれない。だが透にとって、知らないことをそのままでいいと言われるのは、ひどく腹ただしい事だった。
家庭教師の言う言葉など、露程にもあてになりやしない。一人黙々と問題集を潰しながら透は思う。一体どれほどの知識を得れば十分だと言えるのだろう。十冊、二十冊、三十冊こなせば足りるのだろうか。
そんなふうにして腹底に押し殺してきたものが破裂したのは、雨上がりの日中だった。

風邪で横になっていた透は、寝苦しさを誤魔化すために、障子の戸を少し開いておいていた。普段は寒くさえある山頂がその日だけは熱に浮かされていた。廊下に吊した風鈴がリィンと鳴っている。透が寝付くのを諦めて天上の板の目を見上げていると、外の敷石が踏まれる音がした。手伝いが庭掃除でもしているのだろうか。氷をもう少しもらおうと、重い頭を起こして障子に手をかけた。
「すまないけど―」
透はそこではっと目をひらいた。下着のシャツ一枚と、短パンを履いた少年が、運動靴の踵を潰して立っている。全身をこんがりと日焼けしたその少年は、中から人が出てくるとは思ってもいなかったようで、透と目が合うなり素っ頓狂な大声を上げて門の方に逃げていった。村の人間に違いない。「待って」と透は口にしていたが、脳が熱に掻き混ぜられて追うことができなかった。「お化け屋敷に人がいたぁ!」という少年の声が、斜面を滑り降りていった。
暑いと思った次の拍子に、黒の帳が眼前に落ちた。深い崖に突き落とされたような感覚だった。谷底では様々な物が透を取り巻いた。戦国を司る武士の合戦、世界の地理、民族。数式の羅列と遺伝子の螺旋。緋ノ原は女の血統。
(―なら俺は)
写真で見た遊園地の遊具の一つ、回転木馬のように、透が知っているありとあらゆるものが周囲を回った。アルファベット、円、。
"―ありとあらゆるものだって?"
木馬に乗った道化師がせせら笑っている。
"そんなもの、世界の何万分、何億万分の一の事情にすぎないではないか。"
自分は女ではない。だが一人子だ。相続をどうするかはお爺さまの一存に委ねられている。それでも、と思う。
先ほど見た少年は捕まらない鳥のように飛んでいった。自分がどれほどの事を学んでも手に入れられずにいる物を、彼は易々と手にしている。
ぎりぎりで保っていた線が切れた。何も自分の物になっていないことが、悔しくてたまらない。自分のどこが羨ましいなどとあいつらは言うのか。何処にでも行けてしまう自由な者たちへの嫉妬で、濁った感情が旋回を始める。

(…大丈夫だよ)

意識の表層に誰かがいた。

(大丈夫)

足下がふわりと浮く感じがした。そのまま体ごと上層へと上ると、闇は徐々に引いていった。




駅を二つ乗り継ぎして、東北に繋がる夜行に乗った。朝一で下りた駅には人がまばらに立っていて、鞄一つ持たない透を珍しげに見る中年の女性が一名。視線を振り切って市内のバスが出るのを待つ。発車して後ろの席に乗り込むのと同時にドアは閉まった。透意外に駅から乗り合わせる人間はいなかった。
列車で眠りこけている間に夢を見た。父と母が死んで棺を並べた葬式の日、六条の人間が悔やみに訪れたあの時が、始めに沙耶に会った日だった。自分は八つかそこらだったが、沙耶はそれより下だった。両親に連れてこられたというだけで、式自体にどんな意味があるのかは分かってはいないようだった。透は廊下で膝を抱えていた。縁者の難しい話を聞くつもりはなかった。女の方がいないのは何代目ぶりだろうと、座敷ではそんな話が無遠慮に囁かれていた。
「お兄ちゃん、お腹いたいの?」
白足袋を履いた見慣れない子供が透の前に立った。知らない、あっちに行けと、透は顔を背けた。
「…でも、痛そうだよ」
子供は透の隣に座り込んだ。
「お兄ちゃんもお腹痛くなるの?僕はしょっちゅうだ」
そう言って撫でた場所は、腹ではなく肺に近い。透はゆるく顔をあげた。
「痛いのは嫌なのになぁ」
「…お前、名前は」
「ろくじょうさや。僕初めて家を出たよ」
他家の弔いだというのに、沙耶はあどけなく笑う。
「みんな黒いんだ、お兄ちゃんも黒い服着てる」
「父さんと母さんが死んだんだ、」
「しんだって、何」
「もういないってこと」

窓ガラスから外の景色を眺めながら、昔の事を一つ、また一つと思い出す。両親の葬式であるのに、透は涙を流した記憶がない。あまりにも唐突で、置いて行かれたというより、待たされたような感じだったのだ。ただいまと聞こえるまでここで待てと。そんな声は今日に至るまでなかったのに。
年が近かった沙耶は、それからよく透の家に遊びに来た。それまで緋ノ原で祝い事があっても顔を出さなかったのは、母親が沙耶の持病を心配したかららしかった。そういえば、沙耶の両親はいつも片方しか出席していなかった気がする。緋ノ原の家は余計な家督争いが生まれぬようにと、予防線を張る意味で当主とその家族を中心に居を構える。しかし六条でそのような慣例はない。元々にして本家の傘下にあるからだ。血縁の者が周囲に屋敷を連ねる様子は、緋ノ原の一枚屋根よりも賑わしい。
吸入器を手放せない沙耶は、時折苦しそうに背を丸めて横になった。病院で診てもらった方がいいんじゃないかと、見ているしかない透は何度もそう勧めた。いくら専属の医者がいるからといって、できる処置は限られている。だが沙耶は「お母さんが困る」と言って目を瞑るだけだった。その時は、母に山を降りる面倒をかけさせたくないと言っているのだと思った。

"お母さんが困る。"

あの言葉がどういう意味だったかもっと考えていれば、別に手だてがあったのかもしれない。

幾つ目かの停留所でバスを降りた。叔母にもらったメモを見ながら通りを少し歩く。早朝の肌寒さにやんわりと日の光が滲む。白いセメント塗りの建物がすぐに見付かった。赤いランプを屋根に付けた見慣れた車が、中の駐車場を外回りして裏に消えた。自動ドアを通り抜けて、エレベーターに乗り込みボタンを押す。蛍光灯の白っぽい光を頭に受けているうちに、チン、と電子レンジのような音を鳴らして止まった。手すりがついた廊下を、看護婦がすれ違った。メモを見せると、看護婦はにこやかな顔で道を教えてくれた。
「ここを真っ直ぐ行って左です。もう起きてますから、入っても大丈夫ですよ」
透を部屋人の友人だと思ったのだろう。礼をして透は先へ進んだ。
百の桁が合っていることを確認して曲がり、十、一の桁へと目線を移す。部屋番号に突き当たるまでに、時間はかからなかった。透は音を立てないように中に入った。目の前でカーテンが風に煽られて揺れている。ベッドの脇の椅子には絵本が何冊か置かれ、一番上の物には、猫と鼠が何か話している噴き出しがあった。
(いない…)
部屋のプレートにはちゃんと沙耶の名が書かれていた。外出しているのだろうか。ベッドの脇まで来て、何気なく窓の外を見やった。黄緑色の地面が下に広がっている。病院の中庭が一望できる位置だった。円形の芝生を囲んで、木製のベンチが幾つか並んでいる。散歩に良さそうだと思いながら、透は体を部屋の中央に向けて戻した。
「透、様…?」
戸口に女性が立っていた。口元を手で押さえ、恐ろしい物を見た眼差しを透に向けている。沙耶の母親だ。年にしては身長が低めで、後ろで一つに髪をまとめている。化粧をしてはいるものの、ほとんど効果がないのではと思えるほど皺だらけの疲れた様相をしている。沙耶の居場所を聞こうと透は近づいたが、女性は膝に顔が当たるほど腰を折り曲げた。
「―すみません!すみません!あの人があんなことをするなんて、思ってもいなかったんです。私は知らなかったんです何一つ、ああ、ですから!」
沙耶の父親がいない今、目覚めた沙耶に代わりに仕返しをしに来たとでも思っているのだろうか。
「そんなのもういい。沙耶はどこ」
「恩を仇で返すようなことを、あの人は」
「もういいと言っているんだ!」
女性は「ひ」と口の中で悲鳴をもらした。家は出ているが、本家にも兄弟血筋は存在する。母親の怯えぶりは恐らくこの何年、彼等から相当に中傷を受けているに違いなかった。緋ノ原だけではなく、六条の身内からさえ忌まれているのかもしれない。

―落ち着いて聞きなさい、透。

沙耶が運ばれ親族が散った何日か後、叔母が透を呼んで言った。

―沙耶は昏睡状態。命は助かったけれど、いつ起きるかは全く分からない。だけど緋ノ原にとって、放ってはおけない事実が別にあります。

沙耶が食べていた御膳の汁物からは毒物が検出された。農薬の一種で、人間なら一舐め程度で気管に炎症を起こさせる。適切な処置をしなければ、数十分程度で死に至る。だが沙耶の御膳は、本来なら沙耶に配られる物ではなかった。

―釜戸のお女中達に聞いてまわりました。六条に配られる膳は、緋ノ原の後に運ばれた。膳は二列に作ってあって、出席していた人数も両方が同じだった。緋ノ原の前一つがあなたのもの。けれど見誤りで、六条のために並べていた膳をこちらに出してしまった。六条家の一番前に座っていたのが沙耶。…分かるわね、間違えたのよ。あの人が言ったのは、だからそういう意味。


『お前が死ぬはずだったのに』


「―っ!」
沙耶の母親の脇を通り過ぎて、透は部屋を走り出た。一体誰が沙耶をあんな目に遭わせたのか。あいつが、あの人がと糾弾しながら、本当の答えはいつも別に見えている。世襲の儀で、祖父は透を正式に跡継ぎとする事を書に残した。透がいずれ結婚し、娘が生まれたならその時女系に戻すようにとも。その儀から数週して祖父は老衰で亡くなった。新しい当主を祝う席が設けられたのは、それから後の事だった。
子である自分が死ねば、正当な跡継ぎはいなくなる。しかしもしそんな事が起きても、本家の他の親族が継ぐことになるだろう。いつの間にか借金を貯め込んでいたというあの男は、そんなことも考えつかなかったのか。愚かしく恐ろしく、馬鹿馬鹿しくさえ思う。緋ノ原の財以外に人を呼び寄せる物など何一つない場所のために、替わりのないものを傷つけたのだから。

階段を駆け下りて、透は病院の中庭に出た。中にいるよりも息がしやすい感じがした。何故だろうと思ったがすぐに分かる。この建物は死に近い。現実にごく自然に融合、存在しながら別の場所に繋がっている。そこが何処かは分からない。生きたいと、心の底から願った人間にしか見えない場所だ。立っていると朝日がじんわりと顔に染みこんでくる。「何処か」へと旅立つ者に手を触れるように、それは優しかった。
中庭の中央まで歩き、やがて足を止めた透は、両膝に手をあてて肩を鎮めた。これ以上進むことに意味はなかった。母親は謝るばかりで話にならない。自分で探すしかないと振り返った矢先、透はそこに人が立っているのを見た。腕に縫いぐるみを抱いている。沙耶だった。