ままごとです。-7-


川縁の花道。すっきりと晴れ渡った空は清々しく、花見客が両腕を上げて深呼吸している。鼻先をさらっていく風がくすぐったい。
「とおるー、こっちだって!」
荷物を全部こちらに押しつけて、身軽なくりぼうは早足で木の下に辿り着き、短い足で跳ねている。
「お前なぁ…」
肩にピクニックバックをかけた透は怒りのダッシュもできず、フレイとラズに並んで歩いている。「シートひいておくんだよー」とフレイは、どこぞの家族連れのママみたいに、くりぼうを使ってちゃっかり場所取りさせていた。

"えーと、お弁当は海苔巻きとおいなりさんと梅シソ入りのおにぎり。タコさんウィンナーも、もちろん入れました。あとは見てのお楽しみって事で。"

みんなが目覚める頃には、重箱入りされた弁当がきちんと用意されていた。おっはよーと明るい笑顔を見せる料理人に、三人は一同に(何時起きしたんだこいつ)とつっこまずにはいられなかった。週末、予定がある者は誰もおらず、お昼は外で食べることになった。外食とは言っても、大変手の込んだ手作りで。
「ここ、ぼーくの!」
木の一本に、くりぼうは抱きついた。
「ここだよー」
大きく手を振りかぶり、手にした青いシートをぱっと風に広げる。花の薄紅色とのコントラストが鮮やかだ。
「どうした」
視力のいい目に力を入れて、透が気難しげな表情をしている。
「―何でもない。触んなよ、頭」
人の頭を撫でるラズの癖を見抜いていた透は、頭から数センチのところで止まった掌を、自分の手で押し上げた。
「肩が痛いんだよ。あ、お前それ裏返し!」
バッグの紐を肩にかけ直して、透は走っていく。置いて行かれたラズは行き場を失った手と透を交互に見比べた。フレイが小さく笑った。
「香鳴さんは仕事?」
神戸に出張とかいうことで、しばらく見ていない。英国の土産だと言って、包装なしの瓶と缶を置いていったのは1月の末だ。
「そうみたいだな」
「何か言ってた?」
出張するまでに処理しきれなかった書類の山はラズが片付けている。大概が英文から日本語に訳する作業なので、そう大変なものではないらしい。だが、透に言わせれば香鳴は片付け下手である。
「別に」
「ふーん。―ねぇラズ、ナイフ探してるでしょ」
「…探して、ない」
「嘘だね、何かごそごそしてるってくりぼうが言ってたもの。押入なんて分かりやすいとこ隠してないよ。あの人だってそれで僕をどうにかできやしないんだから、気にする必要ないと思うけど」
「思わない。捨てた方がいい、あれは」
「そうかなぁ」
「そうだ」
「まぁそれならそれでいっか」
フレイは一人で考え込んでいる。歩幅が小さくなった彼より早く、ラズは木の下に辿り着いた。
「おべんと食べよー、ラズ座って」
聞き慣れた声に従ってブルーカラーの地面に手をつく。陽光を受けた花弁が頭上でざわめいている。花びらの色はほとんどないと言っていい。気の向くままに降り立った他のに寄り添い、重なり合って、やっと見極めるほどの薄い紅。えんじ色に塗られたアスファルトに、思うままの模様を綴っている。そのうちフレイも追いついて、透がシートに置いたバックから、えへらとした顔で色々出し始めた。冷茶の入った水筒に菓子類、割り箸等。最後には布にくるんだ弁当箱を慎重に手にとって、結び目を解いた。
「じゃじゃーん!」
効果音付きでフレイが開いた重箱はかなり大ぶりだった。三段重ねを一つずつばらけ、横に並べていく。
「すご…」
中身をのぞいたくりぼうは、頬を両手で押さえて不細工になった顔を輝かす。口元から涎が垂れそうだ。
「―お前、ほんと何時に起きたんだ」
些細なことでは眉一つ動かさないラズも、すぐには声が出なかった。
鮭のレモン添え、インゲンとハムのサニーレタス巻き、茹でて潰した玉子と細切りの人参サラダ、大根と沢庵の漬け物、薄焼きしたはんぺんとミニハンバーグ、足八本のウィンナー、他多数のおかずが二段を占めて、残り一段に三種類の飯物が入っている。
「…一週間の食費」
ぼそりと透が呟いたが、主婦が計算していないはずがない。臨時収入というやつです、フレイは手をひらひら躍らせた。ラズのように主たる仕事があるようには見えないのだが、彼の場合、ある日突然姿を消して何日か留守にした後、またふらりとアパートに帰っていることが多い。一番長かった不在は一ヶ月。その時の稼ぎは相当良かったらしく、フレイは一万円札を指の間に挟んで、「どっか食べに行こうか」と言ったけれど、それだけの予算があれば十分な料理を台所のテーブルに並べられることが分かっていたし、何より幼年者が、彼の手料理を恋しがっていた。
「いっただっきまーす」
胡麻がふられた稲荷寿司を箸にとり、くりぼうがあーんと口に放り込む。
「んん、おいひ」
「ちゃんと噛めよ」
「この黄色いのは」
「大根染めたやつだよ」
「あ、僕も春巻き欲しいの!」
手をつける前はその量に圧倒されたが、一度食事を始めると案外早くに減っていく。男二人に加えて育ち盛りの子供が合わさるのだから、当たり前といえば当たり前だが。ちなみに作った本人は食べる事にはあまり執着がないらしく、おいしい等の賛辞に満足するも、『残したら怒るよ』のオーラを肩から立ち上らせながら、水筒のお茶を飲んでいる。
花を観てつまむうち、箱の中身はすっかり空になった。下の方に見える川の流れは、速いようにも遅いようにも感じられた。頭のてっぺんが赤いつがいの鳥が、低空飛行で橋の下をくぐり抜けていった。
「楽しそうね」
木の裏側から声がした。目をぱちくりさせるくりぼうの横で、足を投げ出していた透が額を上げた。白い足首にサンダルの止め具が巻き付いている。膝元では生地の薄いスカートがゆらゆらと揺れ、シャツの袖口から伸びた腕が片方、木の幹に添えられている。唇にオレンジを控えめに塗り、黒髪を後ろで編み込みにした女性だった。透の喉が掠れた。
「さよこ、さん」
「用事で近くまで来ていたの。みなさんおそろいで―久しぶりね」
一人一人に挨拶するようにして流れた目線が、くりぼうで止まった。どぎまぎしているくりぼうに、さよこと呼ばれた女性は膝を少し折って微笑みかけた。
「あなたはこの間いなかったわね、こんにちは」
「こ、こんにち、わ!」
まだ言い切らないうちにラズの背中に隠れてしまう。襟首にしがみつくくりぼうを片方の手であやし、ラズは大丈夫だからと言った。
「すみません、この子は人に慣れなくて。―お元気でしたか」
「ええ、ご心配なく。透がちゃんとやっているかどうか気になって。でも杞憂だったわね」
女性は胸に手を納めた。
「―何しに来たんだ」
「透」
フレイが制すのも聞かず、少年は反射的に声に力を込めた。きつい眼差しを受けた参入者は悲しげに表情を変え、金の髪を肩に垂らした青年の方を一瞥した。立ち上がったラズは、シートに転がしたビニール球を拾い上げた。
「くりぼう、キャッチボールだ」
先に歩いていくラズと険しい顔つきの透を交互に見やり、薄茶の頭髪をふわふわさせたくりぼうは、バットを両手に持ち上げた。
「透、あとで遊ぼうね」
去り際にフレイも言い残す。
「こちらが日陰ですから、中に入って話してください」
ありがとうと女性は礼した。三人の姿が石階段の下に消えてからも、透はなおしばらく黙っていた。風に乗って花びらが舞い落ちる。シートの青い海にも、それは点々と色を泳がせた。
「きれいね、とても」
女性は絡み合った枝を見上げていたが、その目はそれよりさらに遠くを見ているようだった。
「小夜子さん」
緋ノ原小夜子ひのはらさよこ。それが彼女の名前だ。自分とどこか似た顔立ちの、近しい者。透にとっては、それが一段と腹ただしい。
「何かあるんだろう、話」
顔を膝の間に埋めても、その視線は正面に向けられている。
「…沙耶が目を覚ましたわ」
ざわりと、木々が幹ごと風に煽られたように透は思った。顎を起こして小夜子を見上げた先に、花が躍り散っている。
「一週間ほど前よ。一度働きを失った脳がもう一度活性を取り戻すのは奇跡だって。本当に私も驚いた」
「―っ何処にいる」
「知ってどうするの。会いに行くつもり?」
「謝らなきゃ、だって俺はっ!」
透は声を荒げたが、先を続けられなかった。小夜子の瞳に宿る光はとても暗い。奥に映る透の姿が一瞬揺らいだ。
「最後まで聞いて、それから決めて頂戴。私はあなたをもう傷つけたくないの」
「どういう意味―」
息を潜め隠れていた時分が再び動き始める季節になると、毎年同じ花がそこら中に咲き乱れる。制限された時間の中で、見る者を虜にして離さない。美しかったという記憶もやがて朧気になっていく人の意識に対し、それがせめてもの復讐だとでもいうように。花びらを掻き上げる無邪気な笑い声が、うだるい春風に乗ってエコーする。


―いつか、ここを出たいね。


小夜子は言った。
「沙耶は、あなたのこと覚えていないわ」



柔らかい髪を乱したくりぼうが、頭の上を飛び越えたボールを追った。絹雲がうっすらと流れる午後は、とても静かだ。草むらから球を拾い上げ土を叩いていると、階段にさっきの人が立っているのを見付けた。どうしよう。知らない人、特に女の人は苦手だ。ちゃんとしなきゃって思うのに、何を言ったらいいのか分からなくなる。かといって無視するのにも気が止めて、階段から中途半端な位置で固まった。だが、そのうちあちらの方から声をかけてきた。
「ええと…、くりぼう、ちゃん、だったかしら」
ちゃんづけで呼ばれるなんて初めてだ。首振り人形のように、くりぼうは小刻みに頷いた。
「あの人を呼んでくれないかしら。日向の色の髪をした、あなたの大切なお友達」
「ラズ…?褒めてくれてるの?」
にっこりと女性は笑った。
「ちょっと待っててね!今呼んでくるから!」
子供は弾んだ声で駆けていった。柔らかい芝生を降りた下から、背の高い男がやってくる。小夜子は彼のことを知っている。今さらその容姿について言うことはないが、この青年は都市でもない場所では目立ちすぎる。一緒にいる薄茶の髪をした青年も、陶磁の肌をしたきれいな面立ちだが、フレイと名乗る彼の方がまだ、国の血が濃いと見える。境界線の真上で両側を静観するような静かな凝灰の目を、小夜子は昔怖いと思った。今はそのように感じないまでも、彼の本心は今だ掴みきれないところがある。宙を漂うような、言ってしまえば空っぽのようだと感じることもあれば、他人の面倒を見る世話焼きな一面も垣間見られる。それが良いか悪いかは、小夜子にも判断しがたいものだった。
「透は」
小夜子の前でラズは歩を止めた。
「病院に向かったわ。沙耶はあの子の弟みたいなものだもの。私は行って欲しくなかったけれど―透はもう自由だから、私がそれを奪ってはいけない」
小夜子は道に並んだ桜の木々を振り返った。
「透は桜があまり好きじゃないの。知っていた?」
「―いえ」
「透が家を出て行ってから、彼の面倒を見てくれてること感謝しています。こうして見ると前より落ち着いている感じがする。でも、やっぱり私のこと嫌いみたい」
「透は別に、あなたを嫌っているわけではないと思いますが」
「そう言ってくれるのは救いだわね」
小夜子はまだどこか悲しげに微笑む。
「そう言えばあの子、ちゃんと学校に行っているのかしら」
「人から費用もらっている事に関しては、透は真面目です。家じゃ何も言わないですけど、化学とかが好きみたいです。頭がいいのは基礎が備わっているから―無駄ではないことも、沢山あります」
「沙耶に会うことも」
「そうであればいいと思います」
青年は髪を後ろに払った。
「…一つ聞いていいかしら」
「何です」
小夜子はキャッチボールしている北欧系の青年と跳ねっ返りの頭の子供を眺める。背丈のある方は何とか低く投げようと努力しているようだが、子供の方はあと少しが届いていない。
「どうして人の子供なんて引き受けたの」
「引き受けては駄目でしたか」
「そういう事ではなくて」
語としての意味は通じているはず。母親が日本人だと、いつだったか彼の口から直接聞いた。一緒に帰るつもりはないという透の気持ちはよく分かっていたし、居場所のないあの家に戻ることを強いるつもりはなかった。透が彼等と一緒にいたいのなら、その方がいい。けれど。
歯の裏まで掛かった言葉を唇ごと噛み殺す。それが今でないというのなら私が言う必要はないと、そう思う。石段の途中まで引き返し、小夜子はラズに振り返った。
「透に伝えて下さいな。沙耶は望んで透を忘れたのではないし、透も逃げたのではない。ただ必要だったのだと」
「その子はどうなるのですか」
「母親と一緒に山を降りて、何処か別の場所へ行くと聞いています。犯を起こした者の身内だと指さされるよりは、そちらの方が幸せなのかも知れない。父親のことを含めたらなおのこと―透のこと、どうかよろしく頼みます」
小夜子はそう言って並木道へと消えた。くりぼうがそれを見て、ちょこちょこ走り寄ってくる。
「あの人、誰だったの?」
「透の…血縁の人だ」
「僕より近いの?」
「あぁ―でも、そうじゃないかもしれない」
くりぼうは首を傾げ、マイペースに球を宙に投げながらやって来たフレイを見上げた。
「まぁ、難しいよね」
困った顔で、彼はそう言った。
空を横断した飛行機が、斜めに雲を走らせていく。高く高く、掴むことも叶わない広い世界。そこを突き抜ける翼は悠々と、しかし少しだけ寂しそうに見えた。