ままごとです。-6.4-



緑の海に押し流される。
頭を預けた白いシャツ。

陽光が降り注ぐ庭に
あなた、と呼ぶ声がする。


「―ズ、ラズ」
どこかで鳥が鳴いた気がしたのに、時は明け方にもなっていなかった。見開いた目の奥を探るように、陰が一つ覆い被さっていた。
季節が変わり始めたとはいえ、夜はまだ冷え込む。むにゃ、という下の子の寝言を聞いて、ここは違うのだと当たり前の事を思った。心臓の音が正常な間隔を取り戻し、体内から皮膚を打つ。
「…汗をかいてるね」
暗闇にひんやりとした温度を頬に感じた。物音を立てないよう起きあがった彼は、「こっちに」と小さく言った。

ザアアアッ。
蛇口から溢れる水の音は、台所の電気に慣れる間に途切れた。眠っている子を起こしたくはなく、遮光のためにカーテンを内側から引いた。物言わずテーブルの椅子に座ったラズの前に、濡れタオルとミネラルウォータの入ったコップが置かれた。喉に確かな乾きを感じているのに、それは客観的な欲求として認識されている。フレイに顎で促され、口を付けた。喉をつたい落ちていく。
「まだ、見るの」
夢の内容をフレイは知らない。心配ないとラズは言う。
「…会った時のことを覚えている?」
透とくりぼうが壊した丸椅子は、折ったところを接着剤で固めて怪我人のように包帯が巻いてある。流し台に背を付けたフレイの位置からは、それが一番初めに目にとまる。
「僕は人を一人殺そうとしていた」
「―」
「とても強く願いすぎていて、後の事なんて何も考えてなかった。今思うとけっこう凄いことだよね、これって」
身につけた武器はどこにでもある物だった。使い方など無尽蔵にあるというのに、安全と危険の境目はたった一本の線で区切られている。傷つける行為がどこまで確定された事実となり得るかは、第三者の裁断に推し量られる。その誰かでさえ、正確な秤になりはしない。
「実を言うと、まだ持ってるんだよ」
ばらしてしまうと、案の定ラズは顔をしかめた。
「お前、」
「そんなものって言うかも知れないけれど」
先手は許されなかった。
「ナイフを畳めと言ったのは君だ」

飲んだら洗っておいてと言い残し、フレイは部屋に消えた。ラズは一人、時間が刻まれる中にいる。
「―全ての」
掘り下げて突き当たらぬ底から、源の一部を引きずり出す。すがりつく母の腕。ノイズの向こうに始まりがあった。
「全ての悪い夢から」

" ―オマエヲマモルカラ。"



 夜が明けて、ひとしきり降り積もった雪も、今朝は小さな小川を作って坂道を流れていく。玄関から見上げた空は、よどんだ雲の塊を掃き出して、すっきりと澄み渡っていた。朝と昼食を頂いてから、香鳴は屋敷をあとにすることにした。真梨江が自ら階を下りてくる事はなく、進展する話もなかったが、姉の状態が病院に戻るほどではないことは確かめた。執事が言ったとおり、坊のことでない限り、発作というような発作は起きていない。
毎日朝と夕、一時間ばかりを真梨江の部屋で過ごした。真梨江はいつも椅子の上で目をつぶっている。言葉なく過ぎる時間は、とても静かだ。ここに来てから五日が経った。ドアに向かって歩き、揺れる椅子を振り返った。髪を掻いて少しだけ、肉親にかけるべき言葉を考えた。
「―お休み、姉さん」

リムジンの用意が出来るのを待っていると、屋内からウェインが現れた。
「何のおもてなしもできませんで」
「いや、入れてもらえただけでも有り難かった。住んでいるのが姉さんだけだったら、俺なんかきっと門前払いだろうから」
「奥様のことはまた日を追ってお知らせします。今はまだ時間が必要でしょうが、いつか解決すると信じています」
「―ああ、だといい」
誠実な執事を目の前にして、香鳴はそう返した。二階の上部を見上げて、息をつく。
「機会があればまた来るよ。英国がもっと近くならいいんだがな、せめて沖縄ぐらい」
「私も時々思いますよ。地表から浮いて好きなところに飛んでいければ、さぞ愉快に違いないと」
「ミスター!」
足音を響かせて、ミミが中から出てきた。
「晩に作ったんだよ。特性のオレンジクッキーと、庭で育てた薔薇の葉を潰したやつ。紅茶にして飲んでくだせぇ」
コルクで蓋をしたガラスの箱と小さなアルミ缶だ。ガラスの方には色々に型どりされた焼き菓子がいっぱい詰まっている。家のあいつらが喜ぶだろう。争奪戦になるのを予感しながら、香鳴は有り難く頂戴した。
「執事さん、電話がきておりますよ。土地の台帳についてだとか」
「そうかね、それじゃちょっと失礼するよ」
また戻りますからと一言添えて、ウェインが中に戻っていくと、ミミは香鳴の服をずずっと引いた。血色の良い大柄な体を前のめりにするものだから、香鳴は雪の中に倒れそうなぐらいに腰を反らせなければならない。
「なんだミミ」
「子供部屋を見ただか」
「ああ、見たが」
ウェインに小言でも言われたのだろうか。ミミはやたら玄関の方を気にしている。
「奥様、もう子息様のことあきらめてるのかもしれねえだ」
「―どういうことだ」
ミミのもごもごした声は、鳴り響いたクラクションに掻き消されてしまう。サイドガラスが下りて、相変わらず愛想のない表情の運転手が顔を出した。早く来い、と言いたげだ。
「なんだ、切れていたぞ」
奥からウェインが帰ってきた。
「へ、へえ。おかしいな」
ミミは身を縮ませて、そりゃすみませんと謝った。挙動不審気味にちらりと香鳴の方を盗み見るが、小さく開きかけた厚めの唇は幾度となく噛みしめられている。変に思う一方で、待機する車が続け様にやかましい催促音を発した。
「分かった、分かった、わかーーった」
これでも一応客だと腹の中で毒づきながら、香鳴は早足で門に向かった。後部に乗り込んでから窓を下ろし、見送りに並んだ二人と握手する。
「色々すまない。何かあったら連絡をくれ」
「子息様をよろしくお願いします」
走り出した車の後方で、老執事とミミは手を振った。

坂はなだらかだが、雪のためにスピードはゆったりしている。運転手はそつなくギアチェンジを行った。
「安全に送ってくれ、エリクソン君」
ミラーに映る表情に少しだけ変化があった。顎に皺が寄っている。してやったりだ。
顔の緩みを運転手から見えない角度で抑えつつ、上着のポケットから煙草の箱を取り出した。中には一本だけ、よじれたのが入っていた。
「何かかけてくれないか」
多すぎるボタンの中から、エリクソンは一つを押した。放送を終えたテレビのように、砂嵐が鳴っている。ざざ、ざざっと続く間に、少しずつ音楽の符号が現れてきた。名前も知らないバンドがギターを掻き鳴らし、ドラムを叩き上げている。雑音に踏み荒らされながらそいつは歌っている。…死神、ざっ、は…ざざっ通行人を装ってやってくる、ざざ、ざ、ざざざ。
「調子が悪いようです」
エリクソンがラジオを停止すると、車内に再び沈黙が降りた。
「おい」
「何ですか」
「君は何の歌が好きだ」
男は暫く黙った。無視されたかと思ったが、意外にも答えが返ってきた。
「J.ガイルズ―、ローリングストーンよりも、彼等がいい」
ピーター・ウルフ率いる70年代のバンドだ。
「へえ、それは粋なこった」
香鳴がにやりとすると、男はますます顎に皺を寄せた。

"オ・レゴン"の店先で車は止まった。香鳴が座席から降りると、用は済んだとばかり直ちに走り去っていく。
「―さて」
窓ガラスの向こうに新聞を読む中年男がいた。灰皿をよせてうまそうに一服している。潰れた紙箱から最後の一本を取り出して噛みくわえ、香鳴は店の中に入っていった。
「いらっしゃいませー」
ポニーテールのバイト店員がトレイを片付けている。いつものようにコーヒーを一杯頼み、人混みから離れたテーブルについた。腹は減っていないが、ちょうどいいお茶菓子を土産にもらった。鞄から瓶を取り出し、蓋を開けて星形のクッキーを一つ口に放り込む。暴力的な味のベーグルパンより格段にうまい。乾燥させたローズティーの茶葉の匂いもいい具合だろう。期待を寄せてもう一つの方も蓋を開けてみた。
(―?)
えんじ色に白い物が交じっている。小さく折り畳まれた紙だった。粉を払って取り出し、開く。雑に書き込まれたその内容に、香鳴は呻いた。
焼き菓子の甘さが、急激に苦く感じられた。