ままごとです。-6.3-


染みの一つも見かけられない床敷きはたいそう優雅であるが、靴の裏がふわふわ躍る感触がして、いささか心もとない。絵画が壁に飾られた廊下に上がり、さらに奥へ進んでいった。ウェインの足が止まった。
「奥様―香鳴様です」
ノックを済ませてから、ウェインは無言で身を退いた。返事する気配はない。咳払いを一つして、香鳴はノブに手をかけた。
「姉さん、入るよ」
部屋の中は暖かかった。右手側に大きなクローゼット・ルームが続いており、左手にカーテンがかかったベッド、正面の壁に埋め込め式の暖炉があった。ガラス細工のチューリップ頭を丸く並べたシャンデリアは、眠気をもよおす黄色い光を付けていた。一匹分の羊の皮を剥いだ絨毯が、ドアを開いた足下に敷いてある。床板の先に、揺り椅子が背を向けていた。固い靴音をさせて香鳴はその傍に立った。
「姉さん」
彼女は身を少し揺らしていた。肘掛けに両手をもたれて、目を閉じている。紅を塗った唇が、僅かに筋肉の伸縮を見せていた。途切れ途切れに繰り返されるフレーズを、香鳴は聞いたことがある。
揺り椅子が軋みを立てたのと同時に、歌は途切れた。彼女は目を開けた。燃えさかる暖炉の炎に注がれたまま、その視線が香鳴に渡ることはなかった。
「連れてきたの?私の子を」
「違います―残念ながら」
真梨江は唇の端を上げ、ふふっと声を漏らした。長い髪を右肩に寄せて、それを櫛の代わりに指で梳いている。
「今度の雪は長引くみたい。そちらはどうか知らないけど、いっとう冷えるこんな日は、膝が痛んで仕方ないわ。あなたは元気?聞かなくても分かるけど」
お陰様でと香鳴は答える。
「ラズはどうしているの」
「どうもしていません。あいつの場合、二重国籍がたたって面倒な目に遭うことが多い。英語の講師だとか、書類の点検だとか、契約が甘いところで働いていますよ。俺の仕事も手伝ってくれています」
「あなたがさせてるの」
「それも違います。あいつが望んだことです」
同じ事よ。真梨江は肩のショールを手で払い、髪を梳き続ける。言葉が途絶えた間、歯先から漏れる空気と一緒に、唇から歌が零れた落ちた。編曲のようなそれ。

―聖マリア、神はあなたを選び祝福し。

真梨江の白い指が炎の前に躍った。胸の前で、滑らかに指先が移動する。子供に童話を聞かせるように、歌の旋律は甘かった。
「私の傍にいれば何の苦労もさせないのに。あんな小さい子が遠い場所で独りぼっちなんて、私には耐えられない」
引き取りは一時的なものですと、弁護士は言っていた。
(母親が心身を回復することができましたら、お呼び出しすることもあると思います―。)
通知はまだ来ない。真梨江を芯から破壊した記憶は、いつになれば彼女から去るのだろうか。
「ちゃんと毎日見ているの?私から遠ざけておいて、知らないなどとは言わせない」
真梨江もウェインと同様、三人の存在を知らない。坊はもう一人ではないですと、喉元まで上がりかけた言葉を飲み込み、香鳴は沈痛な表情で姉を見た。

彼女は知らないのだ。宙を漂っていた少年が、ようやく我を取り戻しつつあることを。坊を日本に連れて来た時、あれはまるで魚の味を忘れた猫だった。娘を嫌った両親と同居させるわけにもいかず、かといって仕事場を兼じた自宅には客が常訪する。朝日のような髪の色一つだけで、物珍しげに見られるだろう。具合のいいように、香鳴は少年のためにアパートの一室を借りた。市電が走り出す音が等間隔で遠くに聞こえるが、空気が冷涼な落ち着いた場所だった。転居する道中も、少年は見知らぬ土地に何の反応も見せなかった。服のフードをすっぽり被り、電車の窓から外に面を傾げていた。引き受けたからには責任を持たなければならないと、心していたつもりだったが、手がまわりきらず一人にする時間は多かった。始めは鍵をかけたまま、明かりも付けずといった日が続き、いくらかすると、逆に香鳴が行っても部屋にいないという様になった。外で何をしているんだとは聞かなかった。
一人が二人に、二人が三人に増えて、今ではすっかり砦と化している。ただの箱と扱われていた空間に、突如として中身が増し加えられ始めた事に、香鳴は唖然として、そして胸の底に安堵を感じた。雑多に投げ出された本や、食事をして空になった皿。とりとめもなく流れる会話に耳を傾け、変なのを連れ込んだものだとあきれることも、なくはない。
「坊はもう大きい。あなたがいなくとも」
香鳴は語尾まで吐き出せなかった。夢うつつの物言いを繰り返していた真梨江が、突然身体を翻し、香鳴の腕を掴んだ。黒曜石を磨き上げたような瞳が、それでもってまっすぐに香鳴を見上げて刺した。年をとった、と思うのは失礼だろうか。白髪を数えなければ、卵形の整った容貌は少女のようだとも思う。しかし暗がりに振り下ろされたタクトは、彼女を休む間もなく追い立て、作業に圧した労働者が見せるような目の下の濃い隈は、化粧でも隠せない。
「返しなさい、私の子です」
細い指からは想像できない力が、香鳴の腕をぎりぎりと締めつけた。主治医は、本当に正しい診断をしたのだろうか。気狂いに縁取られた真梨江の目を、香鳴は見返した。
「そうだ、あなたの子供だ。それだけは誰にも変えられない」
「ならば返しなさい」
「そのために来たんだ。俺にはあなたに聞かなければならないことがある」
今度は香鳴が問う番だった。
「なぜ、自分の子供を殺そうとしたんです」
瞬間、真梨江は大きく目を見開いた。いびつに開いた口元は、奇妙な微笑みを凝固させた。束の間に発せられた怒りでさえ奥深く沈み込み、その瞳がやがて無心に返っていく。ラズ、私の子、と、子供の名を祈りのように繰り返す。香鳴を捕らえた腕から、激情を宿した熱が退いていった。
「答えてくれ、そうでなければ坊は渡せない」
するりと、真梨江の腕が離れた。彼女はその両手を、胸から喉元に這い上げた。
「私ほどに愛せるものなどいないのに」
「姉さん」
「私を愛すと言ったのに」
「姉さん、違う。クロフォードのことじゃない」
真梨江の肩が小刻みに震えだした。前後に揺れる動作が速くなっていく。華奢な手が彼女自身の首根を掴んだ。親指に圧迫されていく喉元が、ひゅうっと唸りを上げ、海岸に打ち上げられた貝殻を並べたように形良いその爪が、薄い肉に食い込んでいった。
「いけないっ!」
振り解こうとした手を叩かれ、手の甲に痛みが走った。
「―ウェイン!入れっっ!!」
慌ただしく開いたドアから、血相を変えた執事が飛び込んできた。主人の異常に素早く気づいて駆け寄り、腕を喉元から引き離した。なおも叫ぼうとする婦人の肩をさすり、子供を宥める声で彼は言った。
「奥様、息をして下さい。さあ、ゆっくり…そうです」
徐々に呼吸が安定していくと、真梨江は椅子に身を傾けて緩やかに力を抜いた。霞んだ歌声がその口元から再び紡がれる。―アヴェ・マリア。シューベルトやグノーが作曲者として名高いが、香鳴が知っているのはそれだけだった。
「姉さん」
呼びかけた香鳴に、ウェインが首を振った。真梨江は答えない。彼女はやがて飾られた人形のように虚ろになり、唇を閉じた。



 クロフォード様は、とウェインは一人ごちた。
「私が知る限りでは、とても実直な方でした。勤勉すぎる性格でもありましたが、奥様にはたいそう優しく接しておられました」
消毒をと、ウェインは申し出たが、香鳴は断った。左の中指から下の辺りが、酸を振りかけたようにピリピリした。爪で斜めに切られた筋に沿って、透明な液体が僅かな血液と共に皮膚にこびり付いている。舐め取って片方で拭い去る。
「そいつが、姉をあんなふうにした」
ある日を境に、真梨江の夫であるクロフォード・ベル・ハザーは姿を消した。書き置きも伝言もなく、ロンドンの濃霧に攫われたのだと、オカルトかぶれの親戚は言ったという。
不安とストレスの波は、彼女の精神に対し徐々に距離を詰めていき、覆い被さった。香鳴が会うより以前から徘徊癖がつくようになった真梨江を、掃除扶が目撃していた。
「ウェイン、俺は分からない」
真梨江のことだと思ったのか、ウェインは承知済みだというように頷き返した。それとは違うと、香鳴は言わなかった。精神重圧の末の衝動、真梨江は―そうなのだろう。真梨江が答えることができたなら、病は薄れていると判断した。だが、彼女を癒すのに時は十分でなかったようだ。息子を絞殺しようとした場面を、香鳴は冷静に分析しようと努める。分からない?いや嘘だ。本当は薄々感じ取っている。もしそうならば、真梨江の発作以上にやっかいだということも。
居間の飾り棚の中に、夫が在中だった頃の写真がある。幸福な残像。よちよち歩きの男児を両腕で抱きしめて、微笑む真梨江がいた。
香鳴が紅茶のお代わりをもらっていると、癖毛で小太りの女中が入ってきた。血色の良い頬を揺らして言った。
「ミスター、お部屋の準備ができただよ」
ミミは、香鳴に近寄って握手を求めた。
「辞めていないと聞いた。良かったよ、知っている顔があるのはうれしい」
「おらもです。馴染みの仲間は殆ど出てってしまって―仕方のないことだけんども」
おらだって落ちこんだだよ。ぶたれた子犬のように、ミミはうなだれた。
「子息様はお元気ですか」
「ああ、元気にしているよ」
「本当に」
「本当だ」
香鳴の顔を凝視して、事が真実だと納得すると、ミミは顔色を変えた。
「よかったなぁ、子息様。奥様はお可哀想だけど、子息様はもっと可哀想だったから。幸せになるといいなぁ。な、ミスター」
ミミはさらに続けようとしたが、ウェインに咳払いされて肩を縮めた。滑らかに舌は動くだろうが、使用人の立場で口にできることは限られている。何があっても、真梨江が主であることに変わりはない。
「ではご案内して差し上げなさい。ヒーターを取り付けておりますので、薪をくべる必要はありません。これも改装した一部なんですよ―暖炉がある客室も残っていますが、香鳴様は合理的な物の方がお好きだと窺いますので」
それはどうも、と香鳴は言って、蜜色の髪を撫でながら歩くミミの後ろに従った。階段を横切る時、香鳴はそれの向こうを見上げたが、客室が連立する通路に通されて顔を戻した。一室の前で止まり、ミミは細長い鍵を香鳴に渡した。
「夕食の刻にお呼びしますから、ゆっくりしてくだせえ」
去ろうとするミミをとらえて、小声で尋ねた。「あの部屋はどうなっている」
びくりとミミは爪先を跳ねたが、ぼそぼそした声で静かに返した。
「いつも鍵をかけていますだ…今の時間は、風通しのために開いてあります。あんなとこでも、大切なお屋敷の一部だから、放っておく訳にもいかねぇ」
「そうか―ありがとう」
見に行くにしても、人目は避けた方がいいと言って、ミミは立ち去った。一人になると、急速に力が抜けていくのを感じた。体中に張り巡らしていた糸が切れたようだった。部屋に入って、ベッドの脇に鞄を置いた。清潔なシーツの上に腰を下ろして、瞼の上を押さえながら何事かを考え込んでいたが、部屋に詰め込まれた一時の安心を手放して外に出た。誰にも気づかれないよう廊下を抜けて、屋敷の東方を目指す。物音しないその一角には、人一人が通れる幅の螺旋階段が、地下にとぐろを巻いていた。周囲を確かめて香鳴は降りていく。余計な事を思いつかないうちに段は途切れた。高さ1.5メートルほどの口が開いている。
元は何に使用されていたのだろう。中世のように、追いつめられた主が逃げ込み、自害を邪魔されないように―そんな古い建築物ではないはずだ。天井の高いところから、雪明かりに反射した光が筋を作って部屋に弱く差し込んでいた。天使が現れる予感はすぐに消え失せた。
眼前に一色が広がっている。壁も天窓の枠も、もう誰かが眠ることもないであろうベッドの脚でさえ赤い。初めて目にした時、それしか絵の具を与えられなかった子供が手が動くままに塗りたくった、遊びの跡のようにも思った。赤ん坊が乗るぐらいの、小さめの木馬があった。単語を描いたカードが、トランプと混ぜこぜになって、床にばらまかれていた。表になっていた何枚かはキングや女王で、じっとりした目でこちらを見上げていた。豪奢な天蓋付きのベッドに女がいた。昼間まで喜びを分かち合っていたはずの。真梨江の指が、柔らかい皮膚にめり込んでいた。
香鳴は自分の首を緩く絞めた。あの時真梨江がもう少し力を加えていたら、あいつは死んでいた。
(あなた、誰)
不幸な事故だと誰もが囁く。
玩具が片づけられ、空虚となったその場所から、長い間去れずにいた。