ままごとです。-6.2-


 森へ森へと入っていく。小高い山に屋敷はあった。都市の軽い空気が、雪と木々の陰影に徐々に掻き消されていった。運転手は8年前の時と変わっていた。その時はヨハンソンという名の、人の良さそうな老人であったが、今目の前にいるのは見るからに堅物そうな中年男だ。バックミラーに映っている彼は、神経質に眉の間を縮めている。時折姉の状態について尋ねようとしたが、香鳴が二つ三つ言葉を発するのを待つ間もなく、「奥様にお尋ね下さい」と返ってきた。結局、車内にはラジオ放送するアナウンサーの声だけが重苦しく響いて半刻が経とうとしている。
(あなた、誰)
赤い部屋で、自分を見あげた子供。香鳴は瞼を歪める。


「着きました」
黒光りした格子の前で車が止まった。どうもと軽く礼をして降りると、リムジンは通行人の邪魔にならないよう、門の右手側に寄って止まった。運転手の男が出てくるのを待とうか迷ったが、あの沈黙とこれ以上付き合う気にもなれなかったので、先に入ることにした。格子を押して、中庭に足を踏み入れる。飾り木はどれも丁寧に雪が叩いてあった。本来なら通り道の両側には、赤や黄色のちまちました花が咲いており、来客の目を楽しませてくれるのだが、今は地の下で春を待っている。左右に広がる景観は、屋敷が建つ敷地と同じくらいの広さがある。見る者誰もが、当主を羨むだろう。
ポーチにたどり着くまでに、コートの肩はすっかり白くなってしまっていた。刻印が施されたノッカーを叩くと、体格の丸い初老の男が戸を開いた。
「ああ、お待ちしていました!」
鼻に引っかけた銀縁眼鏡を片手で押し上げて、男は香鳴の手をとった。
「久しぶりですね。ようこそいらっしゃいました、元気そうでなによりです」
「ウェイン。君も変わらないね」
彼はにこにこと笑いながら、香鳴を中に招き入れた。コートをお預かりしますよと言って後ろにまわったが、香鳴はやんわりと断った。彼は屋敷の執事を務めており、先代から主人に従事している。サンタクロースのような白髭を、自慢そうに撫でる様子に心が和む。ウェインが手を叩くと、隣室からエプロンをつけた赤毛の女性が出てきた。まだ若く、新入りのようだ。どこかおずおずとした印象で、ウェインに言われて台所に下がっていった。
通された居間には、弾力性が良さそうなサテン生地のソファーが据えてあった。漆喰で塗ったテーブルの中央は四角形にくり抜かれ、ガラスが貼ったその下に婦人の好みそうなブローチが均等な間隔で並んでいる。装飾品には疎いので高価なのかどうかは分からないが、客の目を退屈させない気配りが感じられた。調度品はバラをモチーフにしてまとめられている。中国磁器の傘立てに幾何学模様のアラビア絨毯以外は、どれもビクトリア朝時代を醸し出すアンティークだ。編み目の白いテーブルクロスをかけたサイドボードテーブル。入り口近い場所には鏡が付いたキャビネットがあり、中にガラスの器が飾られている。パールホワイトの壁の色はシンプルそのものだが、手の平サイズの絵を納めた銅製の額縁がちょっとしたアクセントになっている。
先ほどの赤毛の女性が、盆にポットを乗せて戻ってきた。出してくれたお茶のカップとソーサーには、クリーム色の下地にゴールドで葉を描いた模様が施されている。ウイリアム・モリスのデザインとよく似ていたので、尋ねたところやはりそうらしい。大量生産を可能とした産業革命時代、彼は商品の品質にこだわり、花と鳥と植物とをモチーフにした。貴重な物を拝見したと、香鳴りはふんふん眺めさせてもらった。添えてある焼き菓子は生クリームに浸すものではなく、麦芽を挽いた粉で生地を練っただけのプレーンなものだった。
「雪道ですが大丈夫でしたでしょうか」
ママレードの匂いがする紅茶を胃に流して、香鳴はやっと肩の力を抜いた。
「多少揺れたけど、運転手の腕が良かったよ。無愛想なのを除けば文句はないね」
「ジェインとエリクソンは去年の5月から働いています―数年の間に、出入りする人間が大分変わりました」
赤毛の女性が部屋の隅で頷いた。彼女がジェインだろう。するともう一つは運転手の名だなと、香鳴は勝手に推測した。
「ミミはまだいるか?」
「ええ、客室の掃除をしています。慌ただしくなってすみません」
「―いや、ぎりぎりまで連絡しなかった俺が悪い」
とは言えそれはわざとだった。何ヶ月も前から余裕を持って準備するなんて芸当は、仕事人にとなってからすっぱり忘れた。一週間の間があればましなほう。フランに一報入れたのは日本時間でつい三日前のことだ。怠惰なわけではなく、時間に追いやられた末の開き直りである。しかし、それとこれとは場合が違う。
鼈甲色の液体の底を見つめながら、香鳴は人も羨むこの屋敷に、冷え冷えとした空気を感じていた。暖かい印象を与えるはずのカーテンは、昼間であるというのにぴったり閉め切られている。暖炉に薪はくべられているものの、飾り物になって長いという様子がありありと見てとれる。客を招くのは久しぶり、といった感じだった。
「姉さんは二階かい」
弟が来ると知っているのに、彼女は現れない。理由を存分に承知している上で、直球を投げると、ウェインは赤みがかった頬の色を少し落とした。
「お医者様のお話では、躁鬱症が見られるものの、家で療養されても問題ないとのことでした。今の奥様は旦那様とご結婚した当時のようにとまではいきませんが、私どもから見れば、お体については健康だと言えるでしょう。ただ、ラズリエル様のことになると―」
赤茶塗りの天井の向こうを見つめて、ウェインは言う。
「奥様は大変な苦労をなされました。東への侮蔑がまだ残る時代にお嫁ぎ召され、異国の地でお暮らし遊ばせたのです。結婚に反対した先代様方と奥様は、決して折り合いがよいとは言えませんでした。しかし奥様は旦那様との生活に希望を持っていらっしゃった。この家に認められるふさわしい婦人となれるよう、神経をすりへらしてしまうほどに努力をなさっていた。それを思うと、私は奥様を責めることができません。旦那様があのような事にならなければ、奥様も、そしてラズリエル様も苦しむことはなかった」
彼女が壊れた理由を、香鳴はウェインから聞いていた。真梨江は香鳴が物心つく頃に、英国人と駆け落ち同然で海を渡った。姉弟の曾祖父は急襲で亡くなっており、父も安保理党争に身を投じた右派であった。俗国に身を売った娘など顔も見たくないと、祖母は激高して言った。幼かった香鳴は、彼等が何故怒るのか理解できなかった。ただ幾日経っても空のままの姉の部屋を見て、姉がどこかに行ってしまったのだということを、ぼんやりと理解した。姉の居場所を尋ねる香鳴に、母は困った顔をして言った。とても遠い島国に行ったのだと。
姉の居所を探したがらない身内に代わって、自立を始めた香鳴は輸入品を取り扱う仕事がてら、渡英するごとにぽつぽつと知人を訪ね歩いた。しかし手がかりと言えば姉の名前と、まだ若い時に玄関先で家族で撮った一枚の写真のみ。数十年前に移入した日本人女性のことを知っていると言う人間など、誰もいなかった。だから八年前、香鳴が真梨江を見付けることができたのは奇跡と言っていい。
ロンドンに滞在中だった香鳴は、取引先と食い違った伝票を読み直すため、市中のホテルで一夜を明かしていた。週末までに処理しなければならなかったが、いい加減飽きがきていた香鳴は途中で眠り込み、翌日早くに、朝食をとろうと一階のロビーに降りた。エレベーターの脇に据えた書棚から英字の新聞を取り、フロントから見て正面にあるレストランへ向かった。モーニングサービスをとるよりも、そこのコーヒーはおいしいと評判だった。注文したハムサンドにかじり付きながら、香鳴は表題だけを何とはなしに読み進めた。政治経済から始まり、国際、スポーツとなっている。真中ほどに『GOOD ANSWER』と見出しが付いた一面があった。いわゆる掲示広告というやつで、内容のジャンルを問わないので、市民や団体からそれこそ思い思いの書面が集められる。ユージン社が発行するフリーダム・アイランド新聞などは、現政権打倒を誓った党広告を掲載するだけならまだしも、アイルランドを刺激しかねないどぎつい宗教論評や、王室批判する一部の過激派の挑発文までも、修正無しに一字一句刷り出したために、該当箇所の削除を申し渡されたという。たった数行の文字の羅列が、ひとたび世間に晒されれば数倍もの威力を持つ。有効さゆえに使い方を間違えれば凶器にもなりえることは、プロパガンダが絡んだ負の歴史が十分に証明していた。
 『GOOD ANSWER』は、その意味ではかなり善良な部類だと言えた。政治がらみの誹謗中傷がないとは言わないが、その多くは市民権の在処を強く意識したもので、草の根運動を展開しようとする意気込みがあった。その他は、愛犬をさがしていますだとか、空き家を探しているだとか、同居を始めたい方は下記のアドレスにご連絡下さいだとか、平和そのものの内容だった。香鳴の目はその中の一つに止まった。他とは違う字体でタイトル書きされたものだった。
『息子を捜して下さい』
男の経歴と年齢、そして容貌を示した写真が掲載されていた。血統の良さを示すかのように、記事の最後には薔薇の紋様まで押されていた。細かな字をたどってその依頼主のサインを見た香鳴は、思わず声を上げた。一つはサリサ・ドロウ・ハザー。もう一つは、マリエ・ハザーだった。

「ラズリエル様はいかがなさっていますか」
ウェインが尋ねた。
「坊は元気にしているよ。時々俺の仕事を手伝ってくれる。書類の整理だとかは、あいつの方がうまくやるよ」
実は他に三人いるのだが、ラズがそれと同居していることは伏せておいた。言うと説明が長くなる。
「そうですか―今はもう成人なさっていますね。国籍はどうなさるのでしょう」
「それはあいつに任せている。好きな方を選べばいい」
「香鳴様は見かけによらず頓着なさらない。よろしいのですか、ラズリエル様がここを選べば、あなたは手放さなければならなくなる」
「俺は坊の親でない」
「でも、あなたが連れて行った」
顔を苦くした香鳴に、ウェインが悲しそうに微笑んだ。
「私はあの方を幼少の時までしか知らない。奥様が『赤の間』に閉じこめるようにして育てていたのを、私どもの誰もが見て見ぬ振りをした。奥様が正常でないことを薄々感じ取っていたというのに、あまりに申し訳がない。使用人が大分入れ替わったのは、そういうわけです。先に辞めた一人が言っていました。もっと早くに、誰かに事実を告げるべきだったと。本当に、そう思います」

(あなた、誰)

紅茶はもうぬるくなりかけていた。ウェインは後悔している。残されたもう片方の主である真梨江への同情から、坊を守れなかったと。しかし、と香鳴は思う。周りの心中がどうであれ―例え誰かが真梨江の行為を知ったとしても、どうにもならなかった可能性がある。周囲が彼を可哀想だと言うのを聞くごとに、香鳴はあの場面に違和感を感じるのだ。

(あなた、誰)

「…お前が気にすることはないよ。あいつはふてぶてしいぐらい、ちゃんと生きてるから」
左様でございますかと、ウェインは安心したように息を吐いた。
「奥様は二階の突き当たりの寝室で休んでおられます。香鳴様が来られることはお知らせしてあります。会いに行かれますか」
ああ、と答えかけたその時、カーテンの向こうに陰が揺れるのを見た。木立が雪を落としたのだろうか。その割には地面と衝突する音がなく、不可解な気分になる。ウェインの方はそれに気付かなかったらしく、それではと言ってドアを引き、奥に立った。
「どうかなされましたか」
「いや、後で熱い紅茶をもう一杯くれるかい。ここの給仕が入れるやつは、ほんとにうまい」
かしこまりましたと一礼した彼の後に続いて、香鳴はレッド・カーペットが敷き詰められた階段へと歩き出した。