ままごとです。-6.1-


 何をするにも半端な時間というものは、余裕とも焦りともつかない不均衡を、サド的要素を交えながら仕掛けてくる。
 バスで目的地に着いたはいいが、劇場の開演時間までに1時間あるとしよう。見所マップを開くと評判のいい居酒屋がある。ただし歩いて15分。戻るのにも15分。注文がくるのを待つことまで考慮するなら、たいしてゆっくりできそうもない。仕方がないので劇場の前で掌を擦り合わせること数十分、「皆様、大変長らくお待たせいたしました。どうぞ心ゆくまでお楽しみ下さい」と、粋なご挨拶を受ける頃合いには、自分の心は素敵なほど滅入っている。今はシェークスピアの悲劇より、一杯の熱かんが必要だと。
 ヒースロー空港に到着した香鳴は、冬の雪にバイバイすると思われる旅行者が行き交っている中を、捜し物をして歩いていた。財布の中身には、一週間ほどの生存を目安にしたポンド、ペニーが詰まっている。あとはカードで、T/Cは用意していない。ぼったくりもいい加減にしやがれと噛みつきたくなるぐらい、時差九時間の島国は相場が高い。ここの奴らは霞でも食ってんのかと疑いたくなるが、見るからに高給取りなレストラン及びファッション街道は健在である。つまりはこちらの景気が悪いだけ。手持ちの荷物は大ぶりのトランクケースと手提げの鞄だけである。用を済ませるには十分だ。
―悲劇より熱かん。左様、現在の自分にとって、これほどお似合いの言葉はない。エコノミークラスで足を折り返しながら、何度「豪雪のため成田に引き返します」の一報を望んだか分からない。行かなければと思う反面、行きたくないと思う自分は、都合のよい理由付けを欲しがっていた。情けないが、それが事実である。
幸いなことに(?)フライトした日の天候は良好であり、予定より10分ばかり早く着くことができた。しかし待ち人がいつまでたっても来ない。こちとら入国審査も終え、ホールで馬鹿みたいにつっ立っているというのに。
(あの野郎!)
苦虫潰した顔で、靴音もあらわにターミナルを歩き回る香鳴は、上品な英国人にさぞ無骨に映ったことだろう。あちこち禁煙マークが貼られており、適当にうざを晴らすことさえできない。がらがらがらと、トランクの滑車を行く当てもなく回し続ける。エアバスが並ぶあたりで、なんとそいつは脳天気にホットドックを食っていやがった。
「フラン、てめえ」
罵るための造語も熟語も、めいいっぱい用意してあったが、通行口を抜けた瞬間に歯の根が凍り付いた。ヘッドライトを香鳴の顔面を照りつけて、ちょうどキングス・クロス行きのバスが発車したところだった。口の端にケチャップを付けた同業者は、雪だるまと見紛うほど、マフラーだジャンパーだなどと着こんでいる。鼻の頭を笑い物のトナカイのようにして、悪びれる様子もなく「やあ」と近づいてきた。
「"やあ"じゃねえ!四番ターミナルで待ってろって言ったのはどこのどいつだ!」
「あれ、三番て言わなかったっけ」
「…!」
ぶるぶると、こめかみに力が入る。アポイントの時間と場所は正確に。物産を生業とする香鳴にとって、フランの適当さは粗品の一つや二つで収められるものではない。自然と殴りやすい形に丸めた拳を解き、香鳴は自分に(抑えろ)と言い聞かせた。お腹の出たこの大将は、モデルハウスを客に提示するのに、ひどく世話になっている。おまけに彼は、英国に来た際の貴重な「ヤドカリ」でもある。ここで敵にまわすのは得策ではない。
「俺の方も随分探したよ。まぁ、ここで会えたからよしとしようじゃない。ええと、車はあっちだ」
食べ終わった紙をゴミ箱に捨てて、フランは弾みをつけて歩き出した。過去に南仏とドイツに旅行してから一変、味覚が変わったらしい。彼が名物のフィッシュアンドチップスを口にしているのはあまり見たことがない。荷物を押し込んで、後部座席に乗り込んだ。エンジンをかけた車はロンドンに向かっていく。
空港あたりの上空は晴れ間が広がっていたが、市に近づくにつれて濁った色合いの雲が混じった。この国は一日に四季がある。それが一番顕著に感じられたのは、家具の調達に訪れた数年前。その時はまだ夏の真っ盛りで、晴れと曇りによる展開の速さに、あっけなく体調を崩した。お札に刷られた偉人の気持ちが、少しだけ理解できた。道を行く自動車の量が増えてきたようだ。車内の暖房に眠気を覚えながら、香鳴は口を開く。
「アニーは元気にしているか」
「彼女?ああ、いつもどおりやってるよ。今、何かの取材をやってるんだって。この前なんか、テクノ銀行に政治家の賄賂疑惑がかかった事件で大手柄をたてたって、本人はしゃいでいたよ」
「ふん」
それなら知っている。ネットで読んだのでは、その政治家はカーナース・何とかという名前だった。舗装された国道を走行するうちに、両側を落葉樹で覆われた路地に合流した。いつかの夏には見られなかった近代的なデザインの看板が、かしこに出ている。
「せっかくだから、街で遊んでいけばいいのに。いつもいつも仕事なんてもったいない。恋人にニューポンド・ストリートで何か買っていくとかしていきなよ」
冗談よせ。
「そういうことは今の俺の全財産見てから言え。そりゃロンドンはいい街さ。ソーホーだのスローンだのがなければね。俺はそこを通りかかるたび、何かしら特権階級の匂いが感じられて嫌になる。そこらに建ってる公共の古びた教会とか庭を見ている方が、よほど落ち着くよ」
「じじむさいなぁ」
「放っておけ」
サウスケンジントンの一角で車は止まった。三階建てのアパートの一室が、フランの住まいになっている。寝泊まりに慣れたものだから、香鳴は「お邪魔します」なぞ言わない。フランの方もそれが当たり前になっているから、適当に荷物を置けと言う。部屋の中は書類が山積みになっており、台所は怖くて見ないようにした。寝るソファーがあるならそれでいい。
「明日、夕方にアニーが来るけど」
香鳴は「パス」と手を振って、首元まで閉じていたコートを脱いだ。
「今回のは仕事じゃねぇんだ」
「"私"事?」
なかなか洒落のきく奴だ。香鳴は息を吐いて笑った。窓から外の様子を伺うと、碧がかった市の空は細かな雪を散らしている。明日は積もるかもしれない。機内で散々寝たが、無理矢理体を折り曲げる体勢に慣れることはない。今更のように本来の目的を思い出し、肩に漬け物石をのせたようなだるさを感じる。腕時計は母国の時刻を指していた。冷蔵庫の上のデジタル時計に針を合わせ直し、8時27分になるようつまみをひねった。
「ちょっと眠ったらどうだ」
「そうさせてもらう」
普段着のセーターを着こんだまま、用意されていた毛布をありがたく肩に掛け、客用の羽毛布団が敷いてあるソファーベッドに倒れ込んだ。腹は機内食で満たされている。今は何もしたくない。目を閉じると、瞼の裏に靄が旋回し始めた。フランがスイッチをオンにしたラジオから甘ったるい歌声が吐きだされ、香鳴を夢と現実の狭間に誘い込む。聞き覚えがあるそれが『MoonRiver』だと思い当たったのを最後に、意識を手放した。

 翌朝目覚めると、フランはすでに外出していた。合い鍵がメモと一緒に残されていた。洗面所で髭を剃り、電話を拝借する。コール数は少なかった。
「俺です…ええ、一時に。ハイドパーク沿いの"オ・レゴン"で待ちます。それじゃ」
要件だけを伝えてから見苦しくない程度に着替え髭を剃ると、香鳴は部屋を出た。階段で品のいい老女と鉢合わせ、『Sorry』と言って壁に寄る。時限爆弾のタイムアウトまでぐらい、陽気でいさせてほしい。
朝食代わりに向かった先は、俗に言うファーストフードの店だった。油まみれの魚や芋はメニューにないが、オレンジジュースのあまりの味の薄さに参った。バーガー用のパンは粘土を練っただろうといちゃもん付けられてもおかしくないほどで、申し訳程度に真ん中に挟まれたベーコンの焦げた固まりが、ひどく切なくなる。まぁ「期待通り」の味だった。マイナス要素を差し引いてまでわざわざここを選んだのは、付近にある中でも数少ない、喫煙可能な飲食店だったからだ。店内には若者が多く、膝を破いたパンツ姿の青年ら(香鳴にしてみれば、まだまだ若造である)が、早口で何かまくし立てては笑っている。彼らにしてみれば、ここは肩の力を抜ける溜まり場なのかもしれない。
窓際の席から見える格調高い公園の植物は、どれも粉砂糖を吹きかけられたように白かった。春に近づけばちんまりしたスノードロップが見かけられるが、現在視界におさまる限りでは、一角に植え込まれた椿だけが花をつけている。それでも深緑のモミの木などの一部はリースなどで飾り付けられたままなので、見た目に寂しくはないのだが。
売店で買ったシガーの味は悪くなかった。
「おじさん、日本人かい」
幾分訛りの入った英語で話しかけられた。バーガーとサラダをトレーに乗せた、17,8歳くらいの少年だった。腰にはチェーンベルト、耳にピアスをした現代風の若者だが、人なつこそうな感じの目が馴染みの末っ子を彷彿させる。
「英語はできる?ここ座ってもいい?」
返事をする前に座ったら、質問の意味がないだろう。
「問題ない。何か用か少年」
追い払うのも億劫で、喧嘩にならない程度の応対をして済ます。
「わあ、本物だ!」
…ニューヨークに次ぐビジネス街に、ジャパニーズなんてうようよしているだろうに。もしかすると上京ってやつか?少年の素性はさっぱりだが、害になる風でもない。ただの日本ファンと言ったところか。
「俺最近専門学校に入ったばっかりでさ、建築様式について勉強してんだ。何だっけ…ホーオードウ? すごいね、スライド見たとき俺すっごい感動した。おじさん行ったことあんの」
「二回ほど」
一度目は修学旅行。二度目は接客がてらの成り行きだ。一般市民がそう何度も訪れる場所ではない。ミュンヘン在住のドイツ人が白鳥城を山の裾で眺めるのと同様に。しかし香鳴りの受け答えをそのままの意味でしかとらえなかった少年の方は、羨ましいだの俺も日本人に生まれたかっただの、しこたま変に悔しがっている。
「そんなに好きか」
「うん、東は不思議な場所だから。中国にも行ってみたいんだ」
「英国(ここ)だって、俺には不思議だよ」
「そうかい。俺は西の方が好きだよ、のんびりしてて。巨石の跡とか巡るといい。小さい頃に行ったんだ…あぁごめん俺ばっかり喋って。おじさんは旅行かい」
そうであればどんなにいいか。香鳴りは煙草の灰を皿に落として、苦く笑った。
「いや…、家族訪問てやつさ」
最初は八年前だ。散々探し回り、やっと見付けた。

黒のリムジンが外に止まった。
「あれ、もう行くの」
「用事がある。少年、お前はそのままでいくといい。行儀がいいだけの子供なんて、このパンみたいに味気ねぇからな」
結局最後まで食べきれなかったメニューを置いたまま、香鳴は店を出た。かわいげというものを寄せ付けないそれは、死者を運ぶために待機しているように見えた。だとすると、棺に入るのは俺か。
「まっぴらごめんだ」
香鳴が座席に乗り込んだと同時に車が走り去ると、散歩がてらの通行人が何事もなかったように、タイヤの跡が残った雪の上を歩いていった。