ままごとです。-39-



 しんしんと雪が降っていた。防寒具を纏って、なお身が縮こまる。
 暖炉の火が粉弾かす。布切れを掻き合わせた中から手をそろりと伸ばした。火の傍はきっと、もっと暖かい。
陰から腕が現れ、手の甲を押された。腕にはナイフで切ったような細かな傷と、生乾きの絵の具が付着していた。
「駄目だ。燃えてしまうよ」
腕の次に胴体が闇から出た。青年は布巾で指の油を取り、茶色の髪を肩に垂らした少年の手もそれで拭った。
 隣室に姉が寝ている。夕飯を張り切りすぎて、早い時刻に目を擦っていた。恋人より先に寝付くのに、ばつが悪そうな顔をしていたが、青年は頬にキスをしてお休みを言った。
「今度は何を描いてるの、ハル」
少年は照りついた手の甲を見ながら訊いた。青年が持ってきた木箱には、あらゆる色の絵の具が入っていた。三原色があれば十分なんだよと青年は言うが、綺麗な色を使わないでいるのは惜しい。少年の住む国、地方では、四季を祝う習慣がない。鮮やかな桃色の花弁が舞う絵を青年に見せて貰った時には、東の国にはこんなにも美しい景色があるのかと驚いたものだ。桃色の花―桜が咲く季節は、青年の名にも含まれている。
あぁ、と彼は唇を奥に引っ込め、話す言語を変えた。少年の父親の母国語と同じだ。
「海を描いてみたんだ」
イーゼルは陰の中。青年の顔も台の前にあって見えない。
「この前はお城と言ってたね。砂の上の要塞、地上に降り立った神の島。あれはもう出来たの」
青年は呟いた。いいや、と。真っ暗な向こうにどんなに目を凝らしても、海の青は見えなかった。
 少年は床に散らばった絵の具を見下ろした。拾い集めようか少し迷ったが、持ち主が身を動かさないので膝を屈めた。事細かに分けた色の名前は、自分には分からない。せいぜいが、紫とか黄緑とか、それくらいだ。
背をそり上げたチューブの一つを、灯に透かすように取り上げた。チューブには黄色い紙が巻かれている。
(ひまわりの、いろ)
少年は顔を綻ばせた。ねぇ僕にも描かせて。そう言った。




 「太陽の時代」。T美術館が所有する縦約二メートル、横三メートル幅の油彩絵の名前だ。蜂の飛ぶ耕地に黄金の花が群生している。大人の背丈ほどもある太い茎、重なり合う葉、焦げ付くほどの空の蒼。煌めく花々は頭を高く掲げ、その冠を誇る。何人にも君臨する王のように。
 六年前、日本人画家がこの絵をル・サロンに出展し、名誉賞を受賞した。ル・サロン展は三百年以上の歴史を持つ。パリを本部とし、数々の芸術家達が自らの腕を試す機会であると同時、表舞台へ飛び立つ為の競技場でもある。多種多様なアートを公募しているが、絵画に限定するならば、ロマン派や風景画の美しい印象派、ダダの代表といった近代に輩出した著名人達が、その歴史を華やかに彩っている。
 ロシア南部の地に学んだ青年は、大学より副賞としてフランス留学を贈られた。鬼才、浦賀直治が七十年代に名誉賞と会員権を同時授与されているが、最高の栄誉を手に入れた青年画家は、ロシアと母国日本だけでなく、各国の芸術家達の羨望を浴びる事となる。
青年は留学先で、サロンの会員の一人娘と結婚した。その後の事は詳しくは知らない。ただ、青年が華々しく凍土を後にした翌々年、彼が日本に帰るというのを新聞の記事で読んだ。そこで彼にどんなスポットが用意されているのかになど興味はなかった。日本に帰る。その事実が少年を記事に釘付けた。
 少年は机の引き出しに指を伸ばした。霜が窓に張り付いて見えないが、夕刻からは吹雪くだろう。この二年は長かったのか、それとも短かったのか。
ナプキンに包んだのを開いて手に取った。パレットナイフ。赤く錆びついた道具を握り締め、分厚いカーテンを閉めた。


 一階大展示場入口正面―扉を開いた瞬間、誰もが金の彩色に目を奪われる。壁の一辺を贅沢に使用した絵画。花は項垂れる刻の頃を知らず、枠の中で永劫の時を生きる。絵の前に立つ彼が望んだように。
「…何の真似だ」
瑞恵を予想していた男は、入ってきた人間の姿を見るなり顔色を変えた。細い顎に気にくわなげな皺を浮かべ、黒髪を手で撫でつける。
「電話は松原君から受けたが、どうしてお前が来る。私にまだ用なのかね」
「ええ、折川さん。あなたにです」
フレイ、と男は憐れみの目を向けた。
「君はリーナの亡霊に取り憑かれたままなのだな。これは私が描いた、私のものだ。お前の姉では決して手が届かなかった賞を、私がこの絵に与えてやった。ただの落書きだったのに、だ。それともお前に出来たか?」
男はせせら笑った。金の偶像を背後にして。フレイはそれを見つめた。
胸に焼き付けて離さなかった。時を止め、永遠であることを願った。高い空。夕暮れに強い陰を浴びた父の顔。母の温かな腕。走ってくる子犬。閃光と共に連れ去られた、それら全て近しいものたち。
「…ハル、」
無人の大部屋に、透き通ったアルトが響く。かつて兄のように慕った人をそう呼ぶのはとても久しぶりだった。
「あなたは、浦賀画伯を尊敬していたね。刹那を魂に刻み込める画家は、日本ではあの人だけだと言って」
男は鼻を鳴らしてはねつけた。
「それは昔の話だ。誰からも忘れ去られた今となっては、あの老人より名の通るのはいくらでもいる。巨匠の名はしつこく廃れずに残っているがな、あれは駄目だ。廃人同然の暮らしぶり、最後は誰に看取られる事もなく、孤独にこの世を去った。折角サロンの会員権を手中に納めたというのに、利用せず仕舞いで死んだ。馬鹿な画家だったよ」
「『晩冬』が見付かってもですか」
折川は眉を潜めた。
「―何だと?」
「見付けました。でもあの家でではありません。瑞恵さんに場所を教える代わりに、あなたを呼び出してもらいました。彼女は今頃向かっているでしょう。『晩冬』―、いえ、『晩冬』だった絵のもとに」
「どういうことだ」
フレイは続けた。
「浦賀画伯の生まれた地を知っていますか。北海道南東部の山裾に存在していた、ダムに沈んだ村です。古くは鉱山帯として発展しましたが、発掘量が低下するにつれて開発は中断されました。過疎化した村は政府の貯水化計画に組み込まれ、止める事は出来なかった。絵を見付けてから、文献を読み直しました。画伯は出村する際に妻を連れていたそうです。上京してから数年の後先立たれ、以来、一人であの家に。彼の家の地下室には、百近くの絵が残されていました。何のと聞かれても形にして言えませんが、『晩冬』に描かれていたのと似た絵もありました。ですがどれも、僕があの家にいて、彼の近くで眺めていた絵ではなかった。あなたはご存じないでしょう。キャンバスの右側から左下にかけて、三分の二は山の深緑に塗り尽くされ、灰色の空が山の頂きを飲み込むように広がっていたあの絵を。切々として降りしきる雪。今にも押し潰されそうに傾いだ、底辺に点在する藁葺きの屋根。森林を映す湖も畑も凍り付き、村は文字通り水底に沈み込んだように、闇に閉ざされている」
「前口上などどうでもいい、早く在処を言いたまえ!」
折川は壁を手で叩き付けた。向日葵が男の背中から囁き声を上げている。ここに、ここにお前の全てがある。お前の願い、お前の帰るべき場所。裏切れるわけがない。忘れるなど許さない。

 
 野原に立つ一人の少女。フレイ、フレイ、フレイ―。



 絵には、魂が込められているのよ。


「…どうしてですか?」
フレイには目の前の男が哀れだった。
「どうして、『晩冬』を見たいんですか。あなたにとって、あの家は邪魔なだけで、例え画伯の絵が見付からなくたって、あなたの経歴を傷つけはしない」
哀れだった。理想を追い、凍える国に貧しく暮らしていても、若かりし青年の心には紅く燃えさかる炎が宿っていた。
「あなたがフランスに発って日本に帰国し、代表に任命されるまでの作品を本で全て見てきました。リーナから盗んでまで手に入れたかった名誉です。しかしそれを、あなたはたった二年で手放して国に帰っている。僕は復讐だけを考えてきましたが、もっと早くに、あなたの絵を見るべきでした」
「ゆくゆくは会長職を勝ち取れるかもしれないのだぞ―逃す手はない」
「今のあなたならそうしたでしょう。でも僕等といた頃のあなただったなら、フランスに残ったはずです。渡仏したあなたに何があったのかは知りません。ですが、いくらサロンで栄冠に輝いた経歴があるからといって、それだけで代表の座が易々と渡されるはずがない。サロンの富豪で会員でもあるあなたの妻の父が、代表権をめぐって連合に強く打診したとネットで読みました。あなたの義父は、画家ではない道をあなたに用意したかったらしい」
 留学した男がコンペに発表したのは八枚。留学から一年の間に立て続けに発表し、瞬く間に絵画の世界に名を馳せた。『太陽の時代』を歓迎した者たちは、彼の仕事を初めこそ二倍、三倍にも評価した。それこそ、太陽に目が眩んだように。しかし逆光に目が慣れ始め、対象をまともに捉えられる段階になった時、評価者の中に首を捻る人間が出始めた。『太陽の時代』に感じた絶対的な何か、抗いようのない強い力が、彼の描く絵から消え失せていたからだ。
 図書室の電気スタンドの灯りに浮かび上がるそれらを見つめ、何を思えただろう。何も思いはしない。風が花を吹き払った野の景色以外には。
「あなたが不思議だったよ。苦学生であっても、筆を手にしているあなたはいつも幸福そうだった。だからこそ僕もリーナも、あなたが好きだった。でもリーナは言ってた、絵には魂が込められていると。どんなに美しい絵を描いても、どんなに難しい技法で描かれていたとしても、人に感情を呼び起こせるのは、描いた人の心だけだ。ハル、あなたの絵に、もう神は降りない」
「黙れ―黙れっ!」
男は両目を憎悪に血走らせた。
「私を侮辱するために現れたのか?昔話などに用はない。『晩冬』が何処にあるのか、それを言え!」
その絵を見れば、自らの神をもう一度取り戻せる。理性と狂気の狭間に見出された刹那を、魂に刻みつけさえすれば。
「―死は、明けの道標」
フレイは男の顔を真っ直ぐに捉えた。
「長き夜を静まり待とう、陽が私を照らすまで」


 パネルの後ろ側から、女性職員が顔を出した。ボブカットの、小柄な体格だった。歳はまだ三十にもなっていないように見える。
「すみません、間もなく閉館になります」
瑞恵は動かない。もう少し、とルージュを塗った唇を開いた。
「もう少しだけ、見させて下さい」
パネルと来館者を見比べた職員は、不思議そうに瑞恵の見ている絵を覗き込んだ。あ、と何かを思い出したふうに、あどけない声を出す。
「これ綺麗ですよね。普通、展示室って窓がないものですけど、ここは使い道がなくて、暫く空き部屋だったんですよ。何年か前に、年老いたお爺さんが来て、これを飾らしてもらいたいって、隣の男の子の絵と一緒に寄贈してくれたんです。飾るような部屋がないからって初めは断ったんですけれど、この部屋でいいからって。公園が好きで、よく絵を描かせて貰ったお礼だそうです。外の景色が見られるように置いてくれって言ってました。色が変わっちゃいませんかって私は確認したんですが、それでいいって。変わったお爺さんでした。私、この絵が好きで、昼休みに時々見に来るんです。何故か分からないけど、毎回違う絵を見ている感じがして。それからは他の方々も、ちょっとずつ作品を置いてくれるようになりました」
職員は微笑んで、あと少しだけ玄関を開いててもらえるように言ってきます、と細い体を翻した。ドアを出て行く時、点滅する蛍光灯を気にして、「変えなきゃ」と天井を見上げていった。
 
 瑞恵は木の幹になったように立っていた。
 山々の雪は溶けていた。頂点の藍錆色は、坂を下るにつれ萌葱色に移り変わり、淡黄色の葉を混ぜ返している。氷に閉ざされた湖は艶めき、白鷺のつがいが魚を嘴に、跳ね上がった雫を浴びて飛び立とうとしていた。野草を摘む女。編んだ藁を腰に巻き、屋根を修復しようとする男。子供達は着物の裾をたくし上げ、田畑へと走っていく。雪解けの道を。
 表面をX線透過すれば探し物を目にする事が出来るだろうと、あの子は言っていた。塗り重ねた上を見て、冬を思う人間はいない。むろん、少年の記憶を真実と位置づけ、それと決めつけるのは早計である。学会の参加者達の意見を聞かねばなるまい。これが『晩冬』であるか否か―。
(これを、ここから出して…?)
 絵は窓を向き、画伯の気に入りだった公園の風景をそこから見る事が出来る。右隅に文字があった。
瑞恵は顔が触れそうになる距離まで近づいた。厚い塗り跡に、画家の指が浮かび上がって見えそうだった。荒々しく、どこか優しい。学生の頃、セミナーで初めて目にし、むさぼるように作品を観賞してまわった。見間違う筈など無い。
「『―陽が私を照らすまで』」
朝と共に光を浴び、夜と共に眠りにつく。冬を越した最後の絵。一組の男女が村人に交じり、寄り添うように手を繋いでいる。瑞恵の頬を涙が伝った。
「ここにいらしたんですね、先生」



 フレイは後ろに組んでいた手を解いた。その手にある物を目にするや、男は唾を飲み下した。
「姉さんが使ってたナイフ。覚えているでしょう、壁に紙を貼って塗っていたのを」
男は後ずさったが、すぐに固い物にぶつかった。背後を見上げ「ひ」と声を絞る。

 黄金の太陽が覆い被さってくる ・・・・・・・・・・・・・・

 凶器を手にした人間が一歩ずつ近づいてくる。男は斜めに逃げようとした。空を切り裂いたナイフが、心臓を狙い―。
 カラランッ。
 ナイフの柄が折れ、持ち手の金属が葉の緑を刮ぎとった。フレイの腕は男の胴を挟み、左手を絵に、右腕を男の頬のすぐ傍に打っていた。前髪を垂らしたその表情は薄暗く、男は汗を浮かべた額を微動だに出来ずにいる。
「一度目は、殺すつもりだった」
姿を見かけた時に。リーナの描いた絵を、自分の物のように扱った裏切り者を。誓いを果たせと、それだけを胸にして。
 フレイはゆっくりと折川から離れ、今度は一歩ずつ遠のいた。
「私に、」
折川は叫んだ。
「私に復讐する気でいたんだろう!何故殺らない、ナイフが折れたからかっ?お前がリーナを忘れて生きていけるものか!」
「違うよ」
彼の声は懇願に聞こえた。だが、行くべき場所を知ったフレイは留まらない。
「リーナも、父さんも母さんも、僕の故郷の人々も、何一つ忘れない。僕は僕の絵に、描きたい物を増し加えていくだけ。そして、」
フレイは男の足下に、握っていたのを放った。
「あなたはリーナを忘れられない。この絵がある限り」
男は地に転がされたナイフの残骸を見る。その姿から目を引いて、フレイは身を返した。ホールを抜けようとした背中に、もう遠い声がつぶてを当てた。愛していた、と。
「彼女を愛していた、心から―」
 向日葵は囁きを止め、壁の装飾へと還っていった。永遠を渇望した元画家を根本に抱き、沈黙に身を沈め。死せる魂のように。





 その夜、フレイはただの一度も目覚めることなく眠った。川面に反射するような輝きを、夢のそこかしこに見た。
 たなびく雲の、そよと揺れる草の途中に老人が佇んでいた。賭が済むまで来るなと、訪問を拒んでいた彼は満足そうな光を目に湛えていた。
―私の勝ちかね?
 フレイは頷き、野原を駆け出す。道が途切れる事はないだろう。例え転んでも立ち上がり、諦めないで追い続けるなら。
 きっと、また、出会える。





 アパートの朝は今日も平和だ。荷物を詰め込んだバックの中身を確かめ、先に行った香鳴の滞在住所と電話番号を控えた手帳を、留守録を再生する傍らで捲った。
『一件の録音があります』
瑞恵の声だ。バイト代を口座に振り込んだというのと、恐ろしく長い沈黙の末に一言、メッセージが入っていた。「ありがとう」。
冷蔵庫の中身から腐る心配の物を捨て、皿の洗い残しがないか流し台を覗き込んだ。テーブルの本はそのままにしておいた。ラズの描いた絵をその横に並べようとしてひらめき、くりぼうのクレヨンを隣室から取ってきて描き込んでおく。これで良し。完成品の隣に、ポケットから取り出したのをもう一つ、開いて置いた。
「布団は片付けたし、洗濯物も畳んだ。掃除もオッケー。大家さんにも挨拶したし、と」
メモに書いたのを冷蔵庫にマグネットで張り付けた。
 カーテンを透かした日射しが、畳をやんわりと照り付けている。靴に足を挿し入れてドアを開いた。道端の猫が欠伸して何処へともなく尾を振って歩き出し、近所に配達する郵便バイクが道路を過ぎていく。そのうち通勤通学者らが忙しく坂を下るだろう。
 清とした空気を肺に吸い込み、フレイは温かな気配の残る中に顔を向けた。
―おかえり!あのね、今日ね。―聞いてくれよ、おい、こいつムカつくって何の。
 戻ったここには、誰もいないかもしれない。でも何もないということはない。描くべき物を、ここで見付けたのだから。
「行ってきます」
 坂道はなだらかに続き、街を作る物が次々に目を覚ます。何度も通ったアスファルト、坂の上にちょこんと突き出した赤い屋根、黄色いランドセルを背負った子供の列。昨日と同じようで、全く同じものは一つもない。
 横断歩道の赤が青に変わった。街路樹の葉がきらり濡れたように光り、歩行者に紛れるセピアの髪を見送った。