ままごとです。-38-



 過去を振り返ると、覚えているものはさざ波を立てて押し寄せ、潮のように退いていく。美しかった景色や黄昏に匂い立つ花々。金に揺らぐ残照に立つ、家族であった人達。
 フレーヤ。少女が呼ぶ。


 後背の画家の姿は常に岩のようだった。少年が傍らにいようがいまいが筆を無心に走らせていた彼の目に映っていた物は、未だ生み出されぬ未来の果てだ。
―何を描いてるの。
彼は答えた。永遠を、と。
少年には、それが緑の密集した、芋虫が体を丸めた図のようにしか見えなかった。降りしきる雪に凍え死ぬのだと思えた虫は、彼の故郷の山らしかった。炭鉱で栄え、エネルギーの移り変わりと共に衰退した村。彼はそこで生まれたのだという。
筆が止まった。
―何か描いてみるかね。
それを聞いた少年の眉が、途端、弓なりに反った。
―描かない。
反発心を露わにした瞳に、青い炎が揺らめく。
―リーナを、姉さんを殺したものなんて。
―復讐は手放さない、か。
眼光鋭く、少年は沈黙をもって肯定する。一人の人間を抹殺する、それこそが存在理由の全てだと、自らに課した誓いのために。
煌々と燃える暖炉の薪が、にわかに煤を弾けさせた。雪を被った林の木は、夜には黒々とした氷柱と化し、俗世を忍ぶように立つ小さな家を冷たく見下ろしている。部屋の壁には、火に映し出された老人と少年の陰。老人は、やがて低く声を漏らした。
―何でもいい―描きたくなったら描きなさい。
―描きたいものなんてないよ、絵なんて嫌い、大嫌いだ。
少年は声を荒げた。相手は本業画家だというのにだ。しかし叱責はなかった。
 老人は見ていた。少年ではなく、自身の描いた、深緑のキャンバスを。悪辣な品評会にあるような、これ見よがしな派手さは一切ない。椅子に座った状態で優に見渡せる、縦長の絵だ。横の長さは大人の腕一本分、縦はその二倍ある。

―だが―

煤の音が。

―君は思い出したいのではないのかね。


―君だけが知っている、君だけの場所を―。





 
 見付かった物がある。彼等が消え、消息を伝えられた日より、数週間経ってからの事だ。
ドアを開くと、スポーツマンのなりをした男が立っていた。肩の筋肉の盛り上がりが立派だが、彼が現職の国語教師であるのをフレイは知っている。確か、谷という名前だった。
「すいません、宮里さんからお話は伺ってはおりましたが」
これを、と差し出されたのは、ポリエステル地のナップサックだ。小さな段ボールの上に乗せて、谷はそれをフレイに渡した。
「…これは?」
「緋ノ原の持ち物です。学校に置きっぱなしになっていたので、届けた方がいいかと思いまして」
「そう、ですか」
ありがとうございます、と礼するフレイに、谷は両手を振った。
「いえっ。とんでもないです、大変な時にわざわざ失礼しました。戻ってきたら、緋ノ原に伝えて下さい。文系科目の特別強化カリキュラム用意して先生が待ってるぞって」
それから如何ほどの立ち話をしたが、香鳴の説明をどう受け取ったのか、谷の中で透はフレイの養子として引き取った事になっており、養子元とのいざこざから、半ば強制的に息子を奪われたという、曲解どころか全く事実にそぐわない話が出来上がっていた。国語教師として、この飛びようは如何な物か。
「不肖、谷保彦。私には何も出来ませんが…どうか、お気を落とさず。何かあったら遠慮なく言って下さい」
谷は分厚い胸板を拳で叩いた。

 引き受けたものを、台所のテーブルに置いた。段ボールの中身は、透の使っていた教科書の類だった。理数系が好きな子だったから、理科や数学のノートは書き込みも丁寧だ。対して英語・国語は、なるほど、文章問題の解答を見れば、ラズが反省文に英語をテーマにしたのも頷ける。
「…」
丸く膨らんだナップサックを前に、躊躇う事少し。不在とはいえ、勝手に持ち物を開くのは気が引ける。学校に常駐させるぐらいだから、このまま保存しておいても差し障りないと思うが。
透視能力はないので見ないと中身が分からない。紐を手に取って振ってみた。からん、からから。どこか聞き覚えのある音。まるで、空洞で固い物が跳ね返るような。
「…あ、」
思わず荷物の口を解いてしまった。コンパスやら問題集やらに交じっている「それ」に手を伸ばした。表面には、日本語に困ったら開きましょうを示唆する漢字が四つ。鍵はなくしてしまったから、プラスチックの隙間に爪を入れてやれば開くが、少々力がいる。
 あの、言語発揮能力に反比例した図体を持つ主から、これの在処を聞かされた時には心底殴ってやりたい衝動に駆られたが、託された方にしてみれば降って湧いた災難だったかも知れない。
自分と二人になるのを避けているような、そうかと思えば何か言いたそうな顔をして、結局、一人百面相した挙げ句「寝る」の一言を、数えるぐらいに聞いた気がする。なりたいものの有無を尋ねられ、あると答えた。他では駄目かと聞かれ、小さく謝ると、あの子は口を噤み、目を伏して寝ころんだ。
 箱に指を入れ、鈍色に朽ちた柄を取った。刺し切りするには例え出来たとしても不出来であろう切っ先に付着する銅色。鮮血にまみれたのを拭きもせず、削ぎ落とすのも不可能になるまで放置しておいた。刃は既に腐食しかけている。少女の呼び声。"フレーヤ"。
野のざわめきに飲み込まれかけた直前、テーブルの上に残された一枚の紙がフレイの視界に入る。何のつもりなんだか、と口にした嫌味に反応する声はなく、五つある席に座るのは自分一人だ。
「下手…」
聞こえてたら、むっとするだろう。蛍光灯に照らされた似顔絵は、だってどれも同じ丸顔で、初めて見る人には髪の特長から区別するしかない。でも自分には分かる。誰が誰であるのか、何でもない事のように当てられる。
ナイフを握り返したフレイは暫くして手を弱め、鍵を取って部屋を出た。

 人が周りにいるのが当たり前だった頃、他人というのをそれほど意識していなかった。隣の家に住む老人は顔見知りで、その老人と誰かが話している所へリンゴを持って訪れると、その誰かはフレイの知人となってくれた。語らうのに必要なのは名前だけだった。
―フレイ、また友達を増やしたの?
迎えに来たリーナは半分呆れた顔をしていた。
―明日はイルパに会いに行くよ。
―それって誰?
―犬だよ。

 車内は混雑している。誰も、誰の目とも合わせようとしない。窓際に立ち、ビルの景色を無表情に視界に流すだけ。何の感慨もなく。

 電車を降りる。特別目的があった訳ではない。あの死に満ちたログハウスに戻って、精を出して働こうなんて思い立ったのではない。雑踏は気休めにもならないが、それでも家にいるよりはマシだった。元に戻っただけだと、平静を装う自分は何処に行ったのだろう。

―いつだって、引き離せたんだよ。

気付かない彼がとても歯痒かった。


 一度目を失敗して数日したある日、絵描きは胸を鷲づかみにして倒れた。―心臓病に冒されていたという。束の間戻った意識で言った言葉は、こちらが待つだけの賭だった。勝敗が予約済みの賭に、負けるはずがない。老人は承諾を待たず、深く目を閉じた。
林の家を出て行き場を無くしたフレイに、ラズが言った。「心当たりならある」。
電車を乗り継いで降りた場所は閑静な住宅街で、商店のアーケードを潜り抜けてもっと歩いていく。前を行く少年―フレイより年上だ―は、道案内する気があるのかないのか、歩幅を全く考慮しない。あんまり速いんで、小走りに追いかけ始めたフレイが、「あのさあ!」と声を上げたそこで、ラズがぴたり止まった。
右手前方に、二階建ての建造物。赤い屋根と白っぽいベージュの壁の外装はまだ新しい。ざっと見たところ部屋数はそれほど多くなく、上と下を合わせて六つのドアが確認出来た。
ラズが鉄階段を登る。
「ここ君んち?」
カン、カン、カン、と一人分の足音が、暮れの蒸した空気に響いた。
「俺の家じゃない」
貸しアパートのようだし、厳密にはそうなのだろうが。
「でも住んでるんでしょう」
「―」
後ろ背が通路に消え、鍵音がそれに続く。フレイは肩を竦め、両手をパーカーのポケットに突っ込んで階段を登った。
 物がない。とにかくない。上記が入った時の第一印象。画家宅で養った、ゴミ溜めに慣れた目を差し引いても、スペースが有り余るこの広さはどうなのだ。和室と押入、和室に続くフローリングの納戸、台所、手荒いと風呂場は一緒だ。だが、どの部屋にも共通して、生活の匂いが全くと言っていいほど感じられない。綺麗すぎるという意味とは別だ。
「中の物は勝手に使っていい。眠りたければ毛布がそこに入ってる」
「使って良いの?やったー…て、ちょっと」
無いに等しい説明をするなり、ラズは出て行ってしまった。無愛想を通り越して不用心にも程がある。和室に立ちつくすしかなかった。
 
 中をあれこれ覗いている内に、少しずつ物の位置(生活必需品だけだが)が分かってきた。勝手に使えと言われて遠慮するなら可愛気があるというものだが、そんなものは持ち合わせていない。家人の不在の間、使い倒す事にした。
 知らない街を出歩くのは面白かった。昔ながらの商店街は、店にチラシの裏を使った広告が貼ってあったりして、お買い得品が一目で分かるようになっていた。フレイが通ると、初めこそ物珍しげな顔をされたが、外国人が全く存在しないという風ではなく、「おまけに一品つけとくよ」と、気さくに接してくれる主人もいた。大通りには目印となるような大きなビルがあり、狸腹のマスコットキャラの名前が「とうぞう君」であるのを知った。ラズが出て行った時、台所のテーブルに鍵と紙幣が置かれていたので、夕飯を作るつもりで拝借し、ビルの食品売り場で買い物をした。
 帰宅して、とりあえず掃除機をかけ、調理道具の無さに苦闘しながら夕飯の用意をする。ラズが帰ってきたら、二、三点の道具の追加を依頼するつもりだ。包丁が一つなのはともかく、フライパンは鍋の代わりにはなりにくい。逆は出来るかもだが。伊達に生活無能者の元で暮らしてなかっただけあって、家事にはそつがない。
―ぴーんぽーん。
「君さあ、出てくのは構わないけどおたまがみ」
おたまが見付からない、と言いたかったのだけれど、勢いよく開いたドアには、首にネクタイをしっかり締めた男が、くたくたな顔をして「帰ったぞー」と、右手の荷物から目線を上げるところで。百円のエプロンをした国籍不明の少年と、純日本人の男性が向かい合って一同沈黙。タイミングの良い事に、足音まで近づいてくる。
「―香鳴」
男はラズを恐る恐る振り返り、言った。
「…嫁?」

 次に思い出すのは雨。眠くなるような小雨の音。足下にはラズの所蔵本が二、三冊。朝から読み始めて、夜にはもう読破してしまった。仰向けになっていると、和室の電球が閉じた目の裏に突き刺さってくる。開くと丸い輪が左右に分裂し、消えたと思ったら光の中心に戻る。
ドアが開いて金の髪が現れた。オーバーシャツの裾が少し濡れている。
「おかえり」
フレイは身を起こし、久しぶりに家人の姿を見た。部屋の主と香鳴は甥と叔父の関係に当たり、仕事の手伝いで宅を留守にするのも頻繁だった。
(しまった。何にも作ってない)
帰るとは知らなかったので、夕飯はレトルトで済ませてしまった。
「えーと、何か作ろうか。昨日の残りのあり合わせになるけど」
「二時間経ったら起こせ」
「は?」
ラズがフレイの腕を掠めて通り過ぎた。後ろを振り返ると、フレイが敷いて寝ていたジャンボタオルの上に、到底収まり切らない体が横に倒れていた。
「…ラズ…?」
肩越しに呼びかけてみる。返事はない。疲れたのだろうか。
フレイは同じサイズのタオルを上に掛け、欠伸をしてその隣に寝ころんだ。長い髪がタオルからはみ出でている。この前切ってあげたのはいつだったっけ。指に絡めて遊んでいても、応答する気はまるでないようだ。こちらの瞼も段々重くなってきた。九時。ごめんラズ無理。次に目覚めたら朝になる。朝食は頑張るから。


―サアアアアア。

 水の音がした。多分、雨音だ。昼間から降り始めて、夜中にも上がらずにいる。体が固い気がして、目を細く開いた。ああ布団を出していなかったからだ。寝っ転がって本を読んでいて、ラズが帰ってきて―。
寝違いそうになる首の角度を変えるつもりで横を向いた。ラズの髪が真っ先に目に入り、寝ぼけた頭が光を感知した。電気がつけっぱなしだった。
上半を起こし、何とはなしに隣の様子を伺った。蹲るように弧を描いた背中。掻き別れた髪の首筋に指が見えた。ゆ、び?
「ラ―」
氷が滑り落ちたように背中が冷たくなった。この部屋に一歩を踏み入れた時の、あの、形容し難い思い。ここには最低限の物しか存在しなかった。人間は箱の中でも生きていける。生に興味が無ければ。
「ラズッ!ラズ!!」
フレイはラズの肩を揺さぶった。勢い正面になった体の、二本の腕が目に飛び込んでくる。喉元に食い込んだ指を、必死に剥がそうと手に力を込めるがぴくりともしない。
「こ、の、馬鹿」
肩で息をし、手っ取り早い代替案を即座に脳にチャージした。
「起きろっ!!」
渾身の一撃が、バシイイインと逢魔が時に鳴り響く。思い切り頬を叩いても駄目なら、香鳴を呼びつけるしかない。
「―」
手首が取られた。掴んでいるのはラズ。額に汗を浮かした顔がフレイを見上げていた。目があったのは束の間一瞬。灰色の瞳は、ゆるりと瞼を閉じていく。雨音が止まない。


「あの子、一緒に暮らす事にしたから」
顔も見ずにそう言った。
「後見人の小夜子さんて人にも会った。香鳴さんがいてくれて助かった。僕達じゃ弱いからね」
ラズが連れ帰ってきた少年は、何とかという喫茶店で、和服の女性と香鳴とで話し合っている。透という名前だった。叔母だという人が、やっとという風に現れてからも、「帰らない」の一点張りだったが、意志を伝えられるぐらいには回復したようだ。
「駄目だと言っても聞かないよ」
ペペロンチーノを平らげて、テーブルを挟んだ向こう側の人物が何を言ってくるか待ち受けた。
「そうか」
たったそれだけ。家電の購入を検討してるんじゃないよ、とフレイは心の内で一人つっこんだ。
「じゃあ、決まり」
皿を片付けにテーブルを立った。

 くりぼうというあだ名は透が付けた。本名が発音しにくいと言って、その時見ていたゲーム雑誌の中にたまたまカット絵が載せてあり、外見の特長がそれと酷似しているというのが発端だった。くしくもミルクティー色の服を着ていなかったら、別の案が浮上していたかも知れない。
「おーっし、投げるぞー」
ゴムボールを右手にした透が投げる真似をして、くりぼうは手を振って構えの態勢に入る。グローブのサイズが多少合ってない。
「ほーらよっと」
マイナスの二次関数グラフを描いたボールは、落下速度をぐんぐん上げて、くりぼうの額にヒットした。ぼてっと地面に跳ね、フレイの足下に転がってくる。
「いっ、たぁぁっ!!」
小さなおでこに、見事な丸いゴム跡。
「あ、悪ぃ」
透は全然悪い顔をしていない。
フレイは玉を投げ返し、侵入防止の逆U字型をした柵に座り直した。一つ向こうの柵に、ラズも座っていた。
「ほら、もっかいいくぞ」
さっきより頂点座標高めのグラフが描かれる。真っ直ぐ投げない意地の悪さに気が付かず、くりぼうはちょこまかと動き回る。
午後の半端な時間の公園には、忘れ物のスコップが砂場に刺さっているぐらいで、子供の姿は他にない。
相変わらずの飄々ぶりかと盗み見てみると、ラズはボールの流れを追っていた。
(…あ、)

ぼてっ。

鼻の間を撃墜され、くりぼうは発音不明の悲鳴を挙げた。今度はラズの足下近くにボールが転がってきた。
「―…何、」
拾い上げた彼は、フレイの視線に眉を寄せる。
「ラズー、こっちこっち」
「に、二回目…」
くりぼうは涙目で透を睨み付け、「アホ!ノーコン!」と肩をいからした。
「何でもない」
フレイは腰を上げて二人の方に走った。振り返り、
「ほら、投げて投げて」
ラズはゴムボールを暫く見つめ、腕を逸らす。青空に投げられた玉が、一番高い場所で表面を輝かした。

 ―まだ分からないの?

 気付かないなんて嘘だ。そうでなければ、あんな風に穏やかに笑えない。

 ―いつも、いつだって突き放せたんだよ。

 問いつめるように言った一方で、自身はその言葉から一目散に逃げた。望めば誓いは反故になる。感情を取り戻し、平和の旗を携えて家に帰るのは彼一人でいい。
 偉そうな事を言っておいて何と言う事はない。臆病だったのだ。



*  *  *

 足が選んだのは白い塔の真下、ニス塗りの長椅子だった。座らずに、一歩離れた正面に立つ。流れ画家のようだった画伯と初めて出会った場所。この公園で、ラズとも会った。
絵を描くなんてもう御免だと、そっぽを向いた自分に浦賀は髪と筆を手渡した。『描きたい物があったら描きなさい』。アドバイスにもならない事をそう言い付けて。
 初めは落書きしかしなかった。画家の家では家事以外する事もなく、特に指示もなかったので(彼は時折フレイの存在を忘れた)、仕方なく画材を持って外に出るのが度々になった。スケッチブックの中身は、デッサン途中の物が多く、最後まで描き終えたのは僅かだった。
一面を膝に開き、やる気のない目でベンチに座った。村は、鉛筆で書き殴った、こんな黒っぽい風景ではなかった。地平線まで続く色を忘れたわけではないのに、描こうとすると、どうしてか指が止まる。
すい、と一人の少年が通り過ぎた。伏した瞼に、グレーの瞳。
何より印象的なその髪に意識を奪われた。
(きん、いろ)
さざめく風。沈もうとする太陽を背に、穂の海で少女が笑う。肩に持った花は背丈より大きく、深緑の葉の筋は金に輝いて絶えない。
「ま、待って!」
フレイは少年を英語で呼び止めた。止まれ、動くな、と、先走って犯罪者のようになった台詞に、不愉快の三文字を顔に浮かべるだろうと思った。しかし自分より数センチ背の高そうな彼は、ゆっくり体を反転させ、静止してなお無表情を保っている。まずい。何か、何か言わなければ。
「君の身柄を僕に任せてください」
無表情が一気に拒否に変わった。

 椅子に座ってみる。薄ぼんやりとした空と、えんじ色の散歩道。何人かの人の姿。平たい屋根の建物の一角が遠くに見えた。あの画家はここで何を見ていたのだろう。
 薄い影が椅子を通り過ぎようとしていた。くりぼうほどの背だろうか。陰の丈はとても低い。それが足を揃えて椅子の前で止まった。下を向いていた目を地面に水平に戻すと、やはりくりぼうと似た背格好の男の子が立っていた。
「おにいちゃん、絵の人?」
「―え、」
「こら、先に行っちゃ駄目だって言ったでしょう」
散歩道を、ワンピースの女性が小走りしてくる。子供は「お母さん」と笑みを浮かべ、追いついた母親の懐に飛び込んだ。
「お母さん、絵の人がいたよ」
「すみません、この子が失礼を―」
女性は頭を下げようとしたが、「あら」と言ってフレイの顔をまじまじと見つめる。「ね」と子供に揺さぶられ、「本当だわ」と口に手を当てた。フレイには何の事だか分からない。
「あの、絵って」
「あ、すみません」
女性は英語で語りかけられなかったのに、ほっとした表情をした。
「そこの建物の中で絵を見ていたのですけれど、その一つがあなたにそっくりなんですの。絵の方がもう少し幼かったかしら」
女性が指さしたのは、屋根が平らなあの建物だ。
「お暇だったら見てみるといいかも知れませんね」
母子は手を繋いで去った。フレイの目は二人の背中から、植物の葉に隠れた建物へと移動する。子供の言葉が耳を離れない。

 中は一階だけの簡素な造りだった。パンフレットを取ってみると、ヒストリーから建四年目に差し掛かるというような事が分かった。公園は市の運営で保たれているので、何十年目かの記念に、監視と休憩所の役割を兼ねて造ったのだということだ。
自動ドア出入り口のカウンターに、灰色の制服を着た年輩の女性が座っていたので聞いてみた。
「こちらに絵が展示されていると聞いて伺ったのですが」
「絵?あぁ、あれの事かしら」
暇をしていたらしい顔をぱっと上げ、
「来館される皆さんから寄贈して頂いた作品を展示する、小さいスペースがあるんです。そんなに多くはないんですけど、ご覧になるのなら通路をこのまま進んでください」
「この建物は前にはありませんでしたよね」
そうなんですか、と職員は逆に聞き返してきた。
「申し訳ありません、私は最近赴任したばかりなんです。もう一人の子が当初からいるみたいなので知ってるかもしれませんが、今ちょうど出払っていまして」
僕に似た絵があるか知りませんか、と尋ねるより、見に行った方が早いだろう。館内は無人で、さっきの親子が今日初めての来訪者だったのではと思うぐらいの静けさだ。頭上の矢印を頼りに、うろんな足取りで歩いた。
 職員の示した通路は一続きとなっていた為、迷う心配はなかった。白の色上質紙がドアの片方に貼られたホールが見えた。紙には筆ペンで『展示室』と書かれていた。
中に入ると、壁を等間隔で埋める額絵と室内を三等分するパネル台があり、中央の台の上には、市街地中心部の模型がアクリル箱に収まっている。壁の絵は油絵であったり毛筆画であったり様々だ。全てに作品名を標したタグが付いている訳でなく、作名はおろか作者の名前すらない物もある。無名の集う部屋は、いつかの展示会を思わせた。
 ブラインドが下ろされた隙間から、光が零れ入っている。窓を向いたパネルにも額が掛けられており、通常なら変色を恐れるところだが、作者は文句を言わなかったのだろうか。フレイはパネルで挟まれた通路を折り返し、窓を背に立った。
 それは、そこにあった。

 パネルに二枚の絵が掛けられていた。
一枚はうっすらとベージュに日焼けしていた。少年はズボンの膝と手を土に汚し、ひねくれた目で立っている。背景に描かれた点の集合は葉を密集させ、威風堂々として空を仰ぎ、彼方の地を埋め尽くしていた。画用紙を白と黒に二分したに過ぎない世界。だのに、目にした瞬間、戻ってくる。あの風景が、あの広大な野の花が。
フレイは見る。左に掛かったもう一つの絵を、脈打つ鼓動に耳を打たれ、呼吸すら忘れ。
 ブラインドを揺らした風が頬を掠め、その淡い緑にも吹きかかった。