ままごとです。-37-



 いつから待ち始めたのか、どれくらい待ったのか、もうそんなに覚えていない。白い指が髪を絡み取り、「帰ってくるわ」と耳元で囁いてくれる。あの人以外に自分を守ってくれる人を知らない僕に、他に何が必要だったろう。



 あの人は、きれいな人だった。自分と同じくらいの歳の子は、みんな競うようにして、「私のママの方がきれいよ」「違うわ、私のママの方がもっときれい」と、小鳥みたいにさえずるけれど、僕にとって一番きれいなのは、やっぱり自分のママだった。ママは長めの髪を片方で束ねていて、帽子が好き。電車に乗って行った時も、気に入りのつばの広い帽子を被ってた。僕の茶色い髪は、ママのふわふわしたのとおんなじだ。「何度押さえつけても浮くのよねぇ」と、僕等は顔を見合わせて笑った。
僕はずっとあの部屋で待つつもりでいたけれど、段々と眠くなり、お腹がすいてしまったので、出なければならなくなった。僕をママと一緒に住んでいた部屋から連れ出したのは、女の人と男の人だった。男の人は怒っているようで、女の人は青ざめた顔で、「大丈夫、もう大丈夫」と、僕を抱きしめて何度も言った。何が大丈夫なのか、僕にはちっとも分からなかった。ただちょっと眠くなって、目をつむっていたようにしか思っていなかったから。その日はごはんをもらって、―シチューだったかな?―、何もしないで暖房のかかった余所の部屋で眠った。明日も迎えに行かなくちゃ。ママのよそ行きの洋服が、閉じた目の裏で揺れた。

 そこにいたのは二日だけだった。僕をここに連れてきた女の人が、僕を乗せて一時間ほど車で走る。窓ガラスに、もうよく知った駅の後ろ姿が映った。助手席の僕は声をあげたけど、女の人はどう反応して良いのか分からないような、あいまいな笑顔をして、前方に集中するばかりだった。
車が止まった。女の人に手を引かれて、屋根が横長の建物に入っていく。よく見ると、窓のある壁がチューリップのお花の形にくり抜かれていて、僕から見ると、ちょっと子供っぽい。廊下には僕と同じか、僕より歳が下か、かとおもうと、大人みたいに難しそうな本を座って読んでいる、前髪を横にそろえた眼鏡の男の子がいた。青と白のチェック柄のシャツを着ていたその子は、僕等が素通りするのをちらっと見たけれど、興味をなくしたふうに、本のページをめくった。
一つの部屋に入ると、ひょろりと背の長い男の人が僕等を迎えた。
女の人は、男の人としばらく喋り、どことなくほっとしたような感じの笑顔を浮かべ、「それじゃあお願いします」と言って部屋を出ていった。
小さい木組みのイスを勧められて、僕はそれに座る。男の人の胸につけてあるプレートが目に入った。ここの「せんせい」なのらしい。
「えぇと、お名前は」
僕は僕の名前を言う。
「うん、そうだった。はっきり言えて偉いね」
男の人は僕を褒めてから、ここには色んな事情がある色んな子供がいること、みんなで生活してること、僕も今日からここで暮らす事になった、というのを説明した。
みんなで?
どうして?
さっぱり分からない。僕にはママがいるのに。
「―くん、聞いてくれるかい」
男の人は細いけどよく通る声で言った。
「君のママは、ご用があって、ちょっと君の傍にいられないんだ。その間僕達に、ご飯やお昼寝の時間をよろしくお願いしますとお願いされててね。だから、どうか任せて貰えないだろうか」
「ママがそう言ったの?」
名札の漢字は読めなかったけれど、せんせいはゆっくり頷いた。

 大勢の子と一緒に暮らす事になった僕は、だけど、ことあるごとに建物を飛び出した。まだ年齢の低い子には制限があって、一人で勝手に出掛けるのは許してもらえない。出掛ける時には、せんせいと一緒でなければならない。でも、せんせいがいつも自由で時間があるとは限らない。そんなの待ってられない。今日か明日か明後日か、そのまた明後日か。ママが帰ってきた時に、一番に僕を見付けられるように、僕はホームに立っていなきゃいけないんだから。
隣の教室の女の子、僕より一つ下なんだけど、来週出てくんだって。新しいママが出来たって喜んでた。物じゃないのに、新しいとか古いとかって、何なのかな。いつだってママは一人だけだ。

 冬。一年が終わろうとしている。雪が今にも降りそうな、濁った空を窓に見つめていると、何だかとても冷たい物が、服の隙間から胸に滑り落ちるみたい。暖房の入った遊具室は暖かいけれど、太陽が照る日みたいにはみんな遊ばない。隅っこで絵本を開いていたり、こそこそ内緒話をしていたり。そうやってくすくす笑う声も、どこか控えめに聞こえる。
僕は遊具室の入口の所で絵を描いていた。頭のチビになったクレヨン。小さくて描きにくいけど、十二色全部あるから塗るのは困らない。小さい顔と、それより一回り大きい顔。大きな方の目は、ぱっちりとした黒。頭にはリボンのついた白い帽子。僕と同じ茶色の髪はさらさらしてて、緩くカールして肩にかかる。
「何やってんだ」
薄い影が紙の上に重なった。眼鏡の男の子が、険しい顔で立っていた。角がしわしわになった本を右手に持っていて、漢字とひらがなの題名がついている。見覚えのシャツを着たその男の子は、僕がここに来た時、廊下に座り込んでいたあの子だ。無口だけど、僕より二つ年上なのだと、同じ教室の子が教えてくれていた。
「入口に座んな、邪魔だ」
「あ、」
僕はすぐクレヨンと紙をどけようと、折っていた体を伸ばした。ごめんね、これで通れるよ。そう言おうと顔を上げた瞬間、何か強い物がぶつかって、僕の体は後ろにはじき飛ばされた。笑い合っていた女の子達の声がぴたりと止んだ直後、ピアノの一番高い音よりもっと高い声が遊具室中に響き渡った。何が起きたかも分からない僕は、のろのろ体を起きあがらせ、さっきまでいた場所にぼうっと目をやった。絵が、踏まれてる。ひどくつり上がった目の顔で、その子は僕の絵を、床板が割れてしまうんじゃないかってぐらい、何度も何度も、力一杯踏みつけた。
「―何、すんだっ!!!」
僕は男の子に飛びかかった。上背は僕の二倍くらいあって、大人じゃないけれど僕より大きい。腕と足をめ一杯殴りつけてやると、男の子は苦い物を口の中に詰め込んだみたいな顔をして、絵をさっと床から取り上げた。
ビリッ!!
僕の見ている前で、それはバラバラに破り捨てられた。
「やめて、やめてよ!」
女の子の誰かが泣き出し、泣き声に驚いた小さい子がまた大声を上げて泣き始める。
「黙れ!」
男の子は顔中真っ赤にして怒鳴った。
「お前がこんなもん描いてるからだ、親なんて来るもんか、お前の事なんてとっくの昔に忘れてるに決まって―!」
言い終わるか終わらないかに悲鳴が上がった。手加減無しに、腕にがむしゃらに噛みついたからだ。「放せこの野郎!」頬と頭をぶたれたけど、僕は決して放さない。放すつもりなんて、髪の毛の先ほどもない。
悲鳴に気付いたせんせいが二人、遊具室に猛ダッシュしてきた。
「何してるのあなた達!こら、やめなさいっ」
「返せっ!僕の絵返せよ!」
引き剥がされそうになるその時、僕は涙で目の前をぐしゃぐしゃにしながら、それでも目の前の敵を睨み付けようとした―だから見えてしまった。難しそうな本の裏表紙。角がきびきびした大人っぽい字で『たかお君へ』と書かれたのを。僕の金切り声は、それを見た途端、崖の下に突き落とされたように行き場を失った。男の子の目がが、薄い透明な膜を張ったみたいに揺れている。こぼれる、と思った次には、床に叩き付けられた物が跳ね返って、ページをくしゃくしゃに広げて地べたに横たわった。
「畜生―畜生っ!」、
せんせいの肩を乱暴に押し退けて、男の子は廊下の角を走っていった。誰もが声を出せず、追う事も出来ない。やっと我に返ったせんせいの片方が、男の子の名前を呼んで遊具室を抜けた。それにつられるように「しょくむ」を思い出したまだ若いお姉さん風のせんせいが、泣き出した女の子をあやしにかかった。天井の隅に掲げられたスピーカーから、シャンシャンというソリの音が、何故だか分からないけどとにかくめでたいっていう日を祝う歌と一緒に、空気を読まない陽気さをいっぱいにして流れ出した。
地面に本がぶつかった勢いで、千切られた絵の紙くずは無惨に散り、飛ばされた後の紙吹雪みたいに、用無しのただのゴミになった。ぶつけずに飲み下した言葉が、重りになってお腹の底に沈んでいった。

 次の年の秋、たかお君は、育ててくれる人が決まり、ここを出ていった。僕は別々の教室だったたかお君の名前を、とうとう一度も呼ばないままになった。園で暮らす子の荷物は少ない。たかお君もそうだった。
『読み物室』には、よそからお金をもらって買った本や、施設に関わりのある人がくれた本が並んでいる。小さい子たちはアンデルセン童話とかの絵のついた本をよく読んでいた。そう何人もいないけれど、僕達よりずっと体も大きくて、時にはせんせいみたいに身の回りの世話をしてくれるお兄さんお姉さんもいて、そういう人達は細かな文字のびっしり埋まった手の平サイズの本をよく借りていた。たかお君の本は、部屋に入った左手の下段に目立たずおいてあった。ぱらぱらめくると、僕には難しすぎる漢字が沢山あった。地面に生えた花と黄色い髪した男の子。いつかになったら、僕にも読めるようなる時が来るかしら。埃っぽい表紙を手でぱっと払い、読み物室から出た。
スリッパを入れた下足箱で片方の壁を埋められた玄関の外に、お婆さんとお爺さんがいて、うつむいたたかお君に何か話しかけていた。たかお君は歯を食いしばるようにしていて、四角い顔にぎゅっと力を入れているみたく見えた。白地に青の外ポケットがついたナップサック鞄が、入口の段を踏んだところに置いてある。そっと近づいてチャックを開き、本を中に入れて閉め、三人が中にやって来る前に教室に戻った。
 教室の黒板を前とするなら、後ろの方にロッカーの巣がある。用具とか服とか、それぞれの持ち物が鍵付きのボックスに仕舞ってある。小銭などのお金は、少しなら持っていてもいいけれど、ゼロが増えるとせんせいに管理をお願いする。信じられないけれど、時々本当に、持ち物が行方をくらます事件が起こる。僕等の間じゃ、それはもっぱらお菓子である事が多い。プラスチックケースの鍵穴に、首に紐で吊したのをはめると、カチリと小さい音が鳴って蓋が開いた。中のリュックサックから、僕はそれを取り出してつまみをひねった。人形が台の上でゆっくり回り出す。名前を知らない、よく知った曲。
アパートに帰りたいと言った僕に、せんせいが言った。もうあすこには戻れないって。オルゴールは部屋から持ってこれた少ない物の一つだ。正確に言えば僕のじゃなくママの持ち物で、よく見ると、台のところに金具がついている。どう使うのかは知らない。ふわりとした服の人形は目を閉じて笑った表情で、ゆったりした音楽に合わせて踊り、二周するというところで止まった。

 あれからまた、二度目の冬が来る。ここのメンバーは、去年よりいくらか顔ぶれが変わった。でも、一度出ていなくなったと思った子でも、ある日教室にぽつんと一人座っていたりする。僕の教室の子では、この夏と秋に、男の子と女の子が一人ずつ引き取られていった。
けほん、と咳が出た。初めに僕を迎えてくれた男のせんせいは「心配ないよ」と言ってくれた。どこか痛いところはない、と聞かれ、天井がぐるぐる回って気持ち悪いと答えると、暫く僕の顔を見つめ、熱を計り、二日後には白い大きな建物に連れて行かれた。中で忙しく動き回っている人の着ている服も、やっぱり白くて、僕は縮こまって廊下の椅子に座って待った。せんせいと白い服の人のする話は長くて、途中でうつらうつらしてしまう。
「僕、風邪をひいたの?」
薬をもらって帰る道で、僕は聞いた。
「そうだよ。暖かくして休まなくちゃね」
時々、頭に靄がかかって、見ていた景色が変わってしまうように思うのも、きっと風邪のせいなのだ。ふあっと遠ざかり、ものすごい勢いで目の前に帰ってくる。「それ」がやってくると、空中に放り出されたみたいな感覚がする。
「早く治すからね」
せんせいは、「こんにちは」と僕に言った時と全然変わらない顔で、そうだね、と言った。

布団にすっぽり納まって、目を閉じた。早く治さなきゃというのは本当だ。前の週から数えて、まだ一度も駅に行けていない。ホームはとても寒くて、じっとしていたら熱を出すのも不思議じゃない。でも。
真っ暗な中に、たかお君の姿が浮かび上がる。口を横に結んで、両目の間に皺が溜まっている。僕の絵が気にくわなかった。迎えになんて来ないと言って。
たかお君の本を探しに行った時、そしてそれを見付けた時、僕は気が付いた。中の紙は何度も右左を行ったり来たりして、すっかりボロボロになっていた。新しい本が、読み物室にはいっぱいとは言えなくても、暇潰しになるぐらいには置いてあるのに、いつも廊下でそれだけを、僕が来た日にだって読んでいた。
待つのは、余計な事を考えてしまうから。どうして待つのか、自分で自分に尋ねてしまいそうになるから。大好きだって、たったそれだけの事を忘れてしまいそうになる。
 吹き返した咳が胸に迫った。膝を丸めてやり過ごした目から、意識しなかったものが耳を伝ってシーツに染みこんだ。すい、と髪を梳かれる感覚。口元が自然やわらかくなる。絡めた指を髪から解き、もう一度梳くまでの、覚えのあるテンポ。
「―」
音は声になりきらず、半分開いた口の隙間から、静かな息になって消えた。離れた景色が、緩やかにさざ波を立てて帰ってくる。さらさら泳ぐ野原にいるのは、ずっと待っていたあの人。

お帰りなさい。待ってたよ。

僕は幸せに眠る。


   *  *  *

 子供は目を刺すような水色の真下にいた。地面に半分を飲み込まれたタイヤに座り、何メートルも先の一点を見て動かない。その視野に収まりそうな物と言えば、バネ式の木馬か、球状の回転遊具だが、風もなく人もない今、それらに特に目立った箇所はない。彼が見ているのは、運動場にある遊具のどれでもないようだった。
子供を『彼』と言うのは適当でないかもしれない。少年と呼ぶに満たない体格と、「あなた」と指すには迷いの生じる年齢。分別を弁えない例えではなく身体的精神的特長において、また、主観的狭義の意味においても、彼は子供と呼ばれてよい存在だった。
白く乾いた砂を踏むと、音に気付いた顔が片側に傾げられた。窺うように目線を上げる、猫がするような仕草は変わらない。
「何かご用、ですか?」
ワイシャツにネクタイの通勤姿。片腕には暑さに脱ぎ捨てたと思わしき紺色のスーツが、折り目も気にせず引っかかっている。子供は砂利に爪先が引っかからない足を揃え、垂れ下がった袖を眺めた。
いんや、と男は頭を振った。
「少々間が悪かった。隣いいか」
かまぼこ状のタイヤは空きがまだ五つもあるが、小さくとも遊び場の主君である彼等には許可を取っておかなければならない。認可はすぐ下りた。
男は我が子の一人二人持っていても良さそうな風采だったが、腰をおろすのにわざわざ「よっこらせ」と口に出すのが、見た目の年齢を二つも三つも老けて見えさせた。
建物の窓から子供と男のいる場所は拓けて見え、通りかかった職員は目を凝らして男の容貌を確かめたが、頭を下げる仕草で面識の有を認めた。それはつまり、子供と一緒にいても安全な人間だという事だ。実際、男は子供に何かするどころか会話一つ成立させず、遠慮したのか火も点けない煙草を甘噛みし、子供の見る方角とは視線も平行している。一つベンチに腰掛けた他人の雰囲気そのものだ。
「―あの」
先に口を開いたのは子供の方だった。乱入者は男の方であろうに、居心地の悪い思いをさせてしまったらしい。
「誰か迎えに来たんですか」
馴れ馴れしくない言い方は失礼にはなっていないはず。だが内容が正しく伝わらなかったのか、男は端の潰れた煙草を右手にし、(?)というような顔をする。子供はバツが悪そうな顔をして下を向いた。
「ごめんなさい」
「どうして謝る」
「違ったみたいだから」
大人の誰もが子供を欲しがっているわけでない。時間をかけた観察で得られた事実だ。
(知らない人と話すのは苦手だ…)
萎縮すると頭の中がこんがらがって、引き出せる言葉も逃げてしまう。縺れる糸に絡み取られ、身動ぎ一つ出来なくなっていく―その糸は、はっきりした声によってぷつりと切られた。
「誰か待ってるのかい」
「!」
目を丸くした子供に、「そんな顔してら」と男は白い歯を見せた。
「そんな行儀良く喋られると、いつか舌を噛むんじゃないかって、ヒヤヒヤしちまう。まぁそっちが話しやすいってんなら止めないが」
男が気にしたのは話し方の方らしい。
「…あ、えぇっと。初めて会う人には失礼のないようにってママが」
「お前にそう教えたのか?」
こくこく激しく頷く。
「いい母親だ」
その一言で、子供は破顔した。


 空の色を見ていると、ここが地面なのか水の中なのか分からなくなる。ひょっとすると人が住まうべきは空にあり、無意識的な回帰願望が人類を宇宙開発に没頭させているのかも知れない。だとしたら地球の引力は、寂しさ故の足枷か。留まるのは、生きるに必要な酸素と食物を育む土壌が他に見付かっていないから。そんな星が見付かれば、人は自由に飛ぶ事を求め、二度と帰る事はない。メランコリックでペシミズムの塊のような思考。―高校二年、一枚の地球の映像写真を補習で目にし、思った事だ。
目の前で「けんけんぱー」をして遊ぶ子供を前に、男はその様子を見ていた。
「見て!」
彼が指した方角に顎を反らすと、真っ白な直線が。
「ひこうき雲だよ」
頷いてやると、満足そうに笑む。男が聞き手に徹していた事もあり、ほどなくして子供は気を許してくれた。彼の話す内容はここでの生活や遊び仲間の事で、物事の順序を立てない話し方ではあったが、男は意地悪く突っ込みもせず、歯に煙草を噛みしめながら聞いていた。だが年齢通りの表情が引っかかりなく顔の上を浮き沈みするようになると、それまで嬉しそうにしていたのがすっと奥に引っ込んだ。
「本当を言うとね、今日僕に会いに来るのはママじゃないんだ」
不安げな声だ。
「僕とママの事知ってる人なんだって」
「ママでなくてがっかりか?」
八の字に眉を作って、待ち人以外自分に触るなと言うようだったのが最初の日。だから子供が寂しさを讃えながらも笑うのに、少し驚いた。彼の物の言い方は、男が知っているのよりずっと大人だ。
「ちゃんと話を聞いてくる」
そう言った。
 運動場の出入り口の門から、職員の女性が小走りで駆け寄ってきた。
「宮里さん、園長が」
彼女の目に入ったのは、一人の成人男性と一人の子供。それしか映っていないのに、はっと声を切る。
男は煙草を口から吐き出し、「火は点けてませんから」と一言添えた。職員の表情の変化は、そのせいではなかったが。
「電話は終わりましたか」
「え、―えぇ。お部屋に来て頂くようにと」
「分かりました」
先方とはこの間会った。頭のはっきりした老人だった。ただ、母親については、彼自身に最初に話がしたいと頭を下げられた。男にとっての責任とは、我を張って権利を主張する事ではない。
「申し訳ありません。すぐ行きますから、先に戻っていて頂けますか」
「はい、それは、もう」
職員は物言いたげなのを我慢し、男に一礼して帰っていった。
腰を上げかけた男に、子供はててっと短い足で近づいてくる。
「もう行っちゃうの?」
短い時間だったが、遊び相手としての評価を得られたようだ。男は目の光を和らげた。瞼の力を緩めると、両の脇に三本皺が入る。子供の手を丸ごと包んでしまえるような大きな手で、ふんわりした頭をぽんと叩く。それはとても自然な流れだった。もうプリンはないのだし、飛びつく手を期待したわけでない。これはあの家に通ううち、そう長くもない時間の中で染みついた癖なのだ。しゃらんと鳴ったのが何なのか、身長差でよく見えなかったが、男はそれにも気付き、あぁお前がもらったのか、と決して口には出さず一人ごちた。それはと指して、訊かれた方は、首に掛かったのを誇らしげに目の前にかざして見せてくれた。
「時計、か」
そうなんだよ、と向日葵みたく笑い、
「ぼく人に威張れる物持ってないのだけど、これ、ちょっと格好いいでしょう?でも、おじさんにはあげられないよ。僕のお気に入りなんだから」
誰も取りやしないのに、必死に所有権を主張する。いい、いい、どうせ、あの、すっかり育っちまった坊にゃ首周りがきつすぎる。
男はそれを買った日を思い出す。あいつがこっちに来てから初めての誕生日に、何をやったらいいのか見当もつかず、通り過ぎる親子の不審な一瞥を食らいながら、殆どガンをたれるようにして、しまいに時計屋に立ち寄ったのを。子供にゃ子供のがいいだろうと、肩を緩くして、買った後になって、やっぱりもう少し大人っぽい細工の方が、あいつには似合ってたかも知れないと、そんな風な事のあった代物が、今また目の前に現れるとは思いもしなかった。
少年が小さかった時、あれはよく耳にそれを当てて、一人で聴いていた。針が動くのを、心音を確かめるでもするように。
「そうだな」
お前がそう言うんだったら、あん時の坊だって、ちったぁ気に入ってくれていたのかも知れない。
親指で撫でたのを子供に返した。
「じゃあな」
「さようなら」
背を向けた男の胴体が少し反る。
「そういや名前は何だった」
子供は目をぱちりとさせて、次にはにこりと笑った。
「みやた、みのり、っていうんだよ」
それが、彼の名前。
ああそうだ。そうだった。届かない声で呟き、門を出た。


 施設の両開きの玄関をくぐると、靴を履く人と入れ違いになった。銀を帯びた白髪の下の顔は、印象から予測する年齢通りの造りだ。ベージュのシャツの袖を、肘の所で折っている。
目が合うと、老人はかしこまるように一旦歩を止めた。何と口にすべきか、申し訳なさに戸惑っているようだった。香鳴は背筋を伸ばし、背を折って一言だけ告げた。
「あの子を、よろしくお願いします」
老人は詫びるように頭を垂れ、子供のもとへ進んでいった。その後背を見送った香鳴の前に、青い空を二つに切り離した白い線が、くっきりと斜めに過ぎって見える。

人を地上に繋ぎ止めておく事は地球には出来ない。翼などなくとも、彼等は浮遊する技術を手に入れた。鉄の塊が飛ぶなどと、街路の清掃さえままならなかった時代、誰も夢に思い描きさえしなかった。
宇宙飛行士を送り出すこの星は、人間が化学を発明して以来、自身から出てゆくのを見守るのみとなった。何百万もの費用をかけることなく、自由な飛行が万人に可能になるまで、どれほどの歳月が費やされ、実験用のロケットが飛ばされようと、こうして地表から見上げるのを止めはしない。その眼差しに、ありとあらゆる願いと希望を込めて、帰る船を待ちながら。だが、もしこの星以上に住みやすい、水も酸素も資源もある楽園を発見したならば、それを幸福と言いこそすれ、責める者はいない。
晴れた空に目を閉じ、己の位置の不確かさを実感しながら、己よりも不確かな、いなくなった者達を思った。