ままごとです。-36-


 忘れないで。
 僕の願い事、ひとつだけ。


 黄身色の空を鳥が飛んでいた。鬱蒼と茂った木々より高く、南から北へと、一直に。
障子を開いた軒先には、庭を通り越した風がよく吹き渡る。日よけに額に宛った本の頁が、薄く開いた視界の端で震えているのを、羽織りから伸ばした手でつまんだ。頁の動きが、指の中で窮屈そうにぴたりと止んだ。
数日の間は、今日が何日目なのかを数えていた。帯と着物を用意されたのを無視したら、風呂上がりの竹篭から衣類が消えていた。使用人達に食ってかかると、章子(あきらこ)様のお言いつけで、と皆が皆で同じ事を言う。
親指から順に曲げ、左手も使う。庭木の葉が擦れ合う音、小岩で囲んだ池の中で、鯉が泡を吐く気配。水に手を泳がせる小さな背格好が、そこに見える気がした。二週間。たぶん、それくらい。
「透様、お呼びです」
障子戸越しに手を付いたうっすらとした陰が去ると、透は本を除けた。

意味なく広いのは昔のままだ。かんぬきを抜いた椚の門を潜り抜ければ両側に藁縄で締めた松があり、土に埋まった平たい石がうねりながら家口へ続く。中に入ると母屋の長廊下が東西に伸びており、白和紙を貼った障子で閉めた部屋がそれに伝う。両親と祖父が生きていた間は風通し良くされていたが、今は決まった時間に開かれるだけになっている。
「―。」
よりにもよって。
透の足はそこで止まる。開く事を嫌悪するように、指先がそれ以上踏み込む事を頑なに拒否する。中の間取りも、何もかも、開いて見なくたって、全部覚えている。血泡が跳ねた、その色も。
障子に映った影に気付いたのか、入りなさい、と呼ばれた。祖父に家を譲り、分家に渡った伯祖母(大おば)の声だ。女二人、男一人の姉弟のうち、伯祖母は長女、祖父は三番目に生まれた長男である。
「二度も呼ばせるのですか。早くお入りなさい」
仮にも次期当主の地位を持つ者に、分家筋が命令するなど以ての外。だが伯祖母―六条章子だけは別格だ。弟に位を明け渡しこそすれ、彼女はかつて元緋ノ原の宗主であったから。
 透は、意を決して戸を引いた。百舌鳥と宿り木を彫った欄間を張り巡らした大広間の、若草色の床が目に飛び込んだ。辺の短い壁の一面側だけが、畳を高くしてある。そこに伯祖母は座っていた。えんじの無地の着物にひとえ帯をしめ、銀の色が混じった白髪を美しくかんざしで結い上げている。顎を引いた顔の口元は引き締められ、紅を塗った唇は透を前にしてもすぐには開かれない。使用人でなくても、滅多な口は利けない。齢七十を過ぎたであろう高齢にも関わらず、化粧を施した顔と折り目正しい身なりには、背筋を伸ばさずにはいられない厳かさが備わっている。鳥皮のような喉から出される声も驚くほどに明瞭だ。
透はその正面に、膝に手を置いて座った。
「理由は分かっていますね」
唇をきつく噛み、拳を強く握る。
「小夜子の体調が思わしくありません。大事ないとの事ですが、疲労が外に出てきたのやもしれません。あの子も身体の強い方ではありませんから」
思い当たる原因が我が身にあるのは明白だった。同じ木ではあっても、幹を良く思う枝ばかりではない。まとめ上げるはずの長は青年未満の子供。それも伝統に則った女系ではなく、両親祖父の後ろ盾を失っていればなおの事、その地位も軽んじられる。
「それについては申し訳なく思っています。だけどっ」
急ぐ気持ちを押さえられず声を高くした。しかし、
「透」
伯祖母の目に否定を許さない光が灯る。
「立場をお忘れではないでしょう。あなたはいずれ家督を継ぐお方、いつまでも羽根を拡げておいででは、家の面目が立ちません」
「家督って、まだ俺十五です!屋敷の管理なんて」
出来るはずないと続けようとしたのを、聞かなかったというように遮られた。
「農村に降りられた分家筋に、あなたと同年ぐらいの娘を持ったご友人がおられるそうです。ご紹介の依頼も快諾されたようですよ。そんな遠いお話でもありませんし、結納の約束に是非にと」
「待って下さい、何の」
「小夜子には十分な療養をとらせましょう。ただし話が整った後には、元通り外で暮らして頂くつもりです。長らくここを任せていましたが、あの子はあなたに甘いところがおありのようですし」
「バ―」
「見合う際には粗相のないように。若い当主が身を落ち着ければ、分家とのいらぬ諍いも息を潜めるでしょう。姪の代で途切れた女の血も望めます、あなたは」
「待てって、言ってんだろがババア!!」
怒号が広間に響き渡った。作法もへったくれもない。透は己も知らぬ間に、挑むように片足をあげている。地が出たのは過失だが、しおらしく聴くには無理があり、つまりは切れた。
「何でもかんでも人に押しつけんなっ!そうやってまたその子をこの家の犠牲にすんのか?女の方が偉いって、訳分かんねぇ風習のためだけに。本家分家って、何がそんなに重要なんだっ。そんなのにいつまでも縛り付けられてるから、あいつは、沙耶は―!」
透の拳が畳を打つ。不当に奪われたのが、自由である事を知っているから、あの時守ってやれなかったのを後悔する。見るものする事統一され、窒息させてしまう前に、一緒に山を降りて、色んな物があるのを見せてやりたかった。
「沙耶の事は気の毒でした」
伯祖母は平淡にそう言う。ですが、と。
「その財を食らって生きているお前は何ですか」
「―なんだと―」
「屋根がなくて雨がしのげますか、米がなくて飢えをしのげますか、お前がそうやって怒りを感じていられるのも、安全な舟場から対岸の火事を眺めていられるからなのをお忘れなく。押しつけた?一時の激情に駆られ、逃げ出したのは何処の誰です」
絶句した透に、伯祖母は冷たく言い放った。
「お前の座っている、そこ」
呼び方が『あなた』から『お前』にすげ替えられている。伯祖母に太刀打ち出来る人間など、邸内には一人もいない。例え透であっても、いや、一度家を捨てようとした透だからこそ、蔑称されても何一つ言い返せない。
「そこから左を向いてご覧なさい。お前が喰ってしまった者の痕がある」
肩が凝固して動けない。向けばそれを見てしまう。背を折って激しく咳き込む体。食い込むほど畳に爪を立て苦しがる姿に、駆け寄ることも出来ず、呆然と叫び声を聞いていた。
血が、血が、あぁこんなに。どうしてなの。
一体誰が・・・・
 喉が干上がっていく透に、追い打ちをかけるように涼やかな声が響いた。そう、もう一つ言い忘れておりましたと、形ばかりは丁寧に。
「緋ノ原が何故女性を重んじるか、知らぬならば教えて差し上げましょう。お前には残酷な呪いかも知れぬけれど、知っておいて損はありますまい」
すうっと吸った息と共に、それは投げかけられた。
「短命なのですよ、遺伝ではなく、運命的に。古くより緋ノ原の直系の男児には、いずれも病や戦争、不慮の事故に見舞われる不幸が相次ぎました。身体の方は何ともなくとも、糸が切れる時期を予め定められているとでもいうように、寿命を全う出来ない。だから女が必要だったのです。例え男が何時ぞ死のうとも、永永に渡って血を絶やさぬために。…私の弟は例外でした、幸運な事に。あなたのお父様は逃れられなかったけれど」
偶然が重なっただけの迷信に決まってる。そう言い返そうとした頭に、差し迫った甲高い声が響いた。

透様!お父上様と奥様が―!!

「信じ、ない」
それも結構。伯祖母は言う。
「どちらにしろあなたの責務とは関係ありません。どこで覚えたのか知りませんが、そのはしたない言葉遣いを改めるように。私のお話はこれで終わりです」
さがれと言われなくとも、伯祖母の伏した瞼がそれを告げる。透は小さく震える指先を無理矢理握り込め出ていこうとしたが、障子戸の前で立ち止まった。
「…一つ聞きたい事が」
「何です」
「俺の着てた服、章子さまが持っていったと聞きました。どこに仕舞ったんです」
あぁ、そんなことでしたら。伯祖母は気にもとめていなかった顔だ。
「薄汚れていたので捨てさせました。着替えは用意させているはずですが、足りなくなりましたか」
「全部ですか」
「えぇ、何か問題でも」
「―」
いいえともはいとも答えず、透は広間を後にした。持ち物を詰める余裕もなく、着の身着のままで連れてこられた。量販店のタンクトップとカーゴパンツ。金なんてかかっているわけない。だが戻る時には、それを身につけていなければならない気がしていた。不備なく揃えられた朝晩の一式に覚える不自由さは、ここを降りる以前にはなかったものだ。
自室に帰ろうとした足が、廊下の途中から前に進もうとしない。入り組んだ迷路を拒絶するように、行き先を見つけられないでいる。歩いても、歩いても、探さなければならない人間を此処に見つけられるはずはなく、その姿は日に日に霞んでいきすらする。とーる、と間延びした声も聞こえない。やがて真逆に背を返した透は、棟を繋げた渡し橋の奥に目を凝らした。





 小夜子は天井を見上げていた。和装の平たい電灯が、整えられすぎた部屋をほの白く照らしている。部屋には高価と一目で分かる鏡台や調度品が置かれているが、その目はただ上を向いている。木板には木の育った跡があり、小さい時はそれを指さしては、数を数えたものだ。
(さよこちゃんは、大きくなったら何になりたい?)―美しい黒髪がさらりと揺れる。
カタと物音がして、小夜子の視線が天井を外れる。紙をすかして映る陰。入るのを躊躇っているようだ。
「透さん…?」
綿着を枕元よりとって腕に通す。日中気温が上がろうとも、冷涼な杉山の朝晩は寒く、用意しておくのが常である。身を半分起こすと、体を動かしていないのがたたって視界が眩んだ。だが僅かの間じっとしていれば、目は元通りになる。彼と話さなければならない。
「戸を、開いてくれる?外の空気を吸いたいの」
陰は黙ってその通りにする。障子戸を両脇に退いた間から、すいと温度の低い風が流れ込んだ。
真っ黒な髪をした少年は、戸を開いても中に入らなかった。小夜子が言って、やっと桟を踏んだ。
正坐して布団の傍らに座る透に、いつかの時のような悪態は見られなかった。使用人や事情を知らぬ者たちの間で、少年がどう囁かれているのかを知っている。責任放棄の頼りない跡取りだと。
下界から切り離すように建つこの家に慣れすぎた者らの反応は一様、彼等が蔑んでみせるそこに個は存在しない。旧家といえば聞こえはいいが、物売りも足を踏み入れるのを拒む山奥の一族に、どれだけの威光があるというのか。過去を懐かしがった堅物が残した時代の遺物に寄り掛かり、物憂く生きるしかない集団。井戸の世界を是とした蛙(かわず)のような。
自分で生き抜こうとする気概のある者ならば、相続の期待を捨てて全く別の場所で暮らす事も出来るだろう。事実分家の戸主には、妻子を連れて下る決断をした者も少なからずいる。だがそれは本家に許された行為ではない。直系の血を絶やさず、祖先がそうだったように山林を守り暮らす。何代にも渡って固持された決め事だ。
口を開こうとした透に手を立てた。
「謝っては駄目、あなたは悪い事をしていない」
そのために訪れた透には、小夜子の言葉は出鼻を挫くように響く。
「…でも俺が心配かけたのは事実だと思う。小夜子さんは関係ないのに、悪かった。沙耶の事も八つ当たりだった」
「体の方はほんとうに何ともないのよ。夏場に少し崩しただけなのに、大袈裟だわ。―そうだ、他の皆さんはどうしてらっしゃるの。ご迷惑かけてない?」
励まそうとして声をかけたが、透の顔色は突如曇った。
「分からないんだ」
「…どうしたの」
小夜子が尋ねても、透は頭を振るだけだ。
「ラズは多分、英国だと思う。フレイは帰ってきてなかったし、くりぼうは―何処行ったのかも分からない」
それでは、皆が皆してばらばらなのか。宮里さんに聞けば何か分かるかも知れないのではという小夜子の助言にも、良い気色は浮かばなかった。人目を盗んで電話をかけてみたが、行き違いがあるのか、不通なのだという。アパートの方も同じだ。章子に長く仕えてきた使用人頭の目が厳しく、そう何度もかけられない。
心配だから帰ると告げに来たのだろうと思ったのだが、
「小夜子さん、ここに戻る前は勤めに行ってたんだよな」
透は予期しなかった事を尋ねてくる。
「え― …。えぇ、小さな会社だったけれど」
低年齢向けの絵本や育児誌を扱う、小規模の出版社。東京に本社を構えるような大企業とは比較にならない、細々としたものだったが、暇だという事はなかった。校正や受発注、デザイナーとの装丁の打ち合わせなど、手の空く時間も惜しんで四方へ走った。連日の残業は当たり前。それでもやりがいはあった。
「面白かった?」
「大変だったけど―そうね。楽しかったわ」
小夜子の意識は、フィルターを覗いた中に吸い込まれていく。大学に通っていた頃から写真を撮るのが好きになり、カメラを手に何処へでも行った。レンズを通して見る世界は、目を通して映る世界よりも詳細で、時に鮮やかだった。夏の日射しに焦げた山の緑、畑仕事に精出して、一休みしているお婆さん、青い田園を駆け抜ける列車、水びだしになりながら噴水で遊ぶ子供。
自分が撮った幾つもの景色が思い出されて、ふと心軽くなった小夜子は、だから一瞬、透が言ったのを聞き逃しかけた。
「ここは俺に任せてくれればいいから」
「…え」
「章子婆に会ってきた。小夜子さんには体が良くなったらここを退いてもらうと言っていた。俺もそれがいいと思う」
透が言う『任す』とは、何を指すのだろう。配膳の準備をしたり、掃除をしたり―のはずがない。彼に『任す』。それが持つ意味は一つしかない。
「何―何を言うの!?そんなつもりで話したんじゃないわ、私は、」
また一人になって暮らすと言うのか。両親はおろか、心通じる友人まで失ったこの土地で。身を立てようとした小夜子を、透は「もう休んで」と横にさせた。そしてこうも言った。
ごめんな。
「今度来る時は、幸水の梨を持ってくるよ。甘くて美味いぜ。…それじゃ、行くから」
障子の裏に消えかけた陰を小夜子が呼び止める。
「透さんっ、」
大人びた自制の表情が左を向く。それは彼が沙耶と出会う以前の目。伸ばした手を下ろす時の目だ。
「何」
「…ごめんね」
透は不思議そうな顔をしたが、甥を自由にしきれなかった事の不甲斐なさから言わせた言葉だと理解し、ふるりと首を振って廊下を過ぎていった。

 誰もいなくなった部屋で、小夜子は再び天井を見上げる。見つめていると、そのうねった模様に体が吸い込まれるようだ。輪郭を削ぎ落とし、痩せていくばかりであっても、朧な記憶は浅い息づかいを隣に呼び起こす。目を閉じれば手を繋げるような感覚。握り返す掌の柔らかさまで思い出す。
寝そべった二つの体と、畳の上に広がった長く綺麗な黒髪。何をするにも、私達はいつも一緒だった。
 
(―さよこちゃんは、大きくなったら何になりたい?)



 自室のある棟に帰る透は、庭をコの字に取り囲む瓦屋根の下から、息を殺してそびえる山の陰を見上げた。陽が完全に落ちようとしている空は、薄紫に染め上げられている。そこに現れ出した半月をなぞるように挙げられた少年の手は、しかし静かに足の付け根に落とされる。虫の音がそんなにも遠くない場所で、奏でるものの姿もなく鳴り始めていた。