ままごとです。-35-


 カラン、とドアが鳴った。店のオーナーが皿拭きながら、襟の雫を払って傘をたたんだ男に目配りした。男はモカコーヒーを注文し、迷いなく喫煙席の一角を目指して歩く。
生き物全ての陰を焼き込んだ夏は、終焉と同時に長雨を呼び寄せた。梅雨のように肌に絡みつくような雨ではない。濡らした体を重く地面に留めるような、激しい雨だ。各地で洪水注意報が出ているともいう。
アイスレモネードのグラスにストローを挿したのを、口付けるわけでなく座っている、茶髪の青年。鉛色の空から吐き出される物を、対照的な色をした目で見ている。海の青、空の青、くりぼうが綺麗だと瞼を撫でたがったそれは、しかし、鳥一匹映していない。香鳴がテーブルに手をかけても、傾けた首を戻さず、グラスの氷が溶けるばかりだ。
「現状から話す」
フレイの目線が戻るのを待たず、香鳴は口火を切った。
「透の叔母―小夜子さん、お前も知っているだろう。聞いておいた実家先に電話してみたら、彼女は床に伏して話せる状態にないからと、代わりに給仕頭が説明を寄越した。用あって透にはお帰り頂いている、いつまでとは約束出来ない。くりぼうは、」
滑らかとは言えない言葉運びが一旦途切れた。
「あいつは施設に保護された」
フレイの横顔がひくりと動き、香鳴を見た。どういうこと、と掠れた声を出したのを、順を追って説明するから待てと制された。 
「駅で発作を起こしたのを駅員が見つけたって聞いている。救急車を呼んだが、身元を示す物は何一つ身につけていなかった。搬送先の病院で連絡先に困っていたところを、医者の一人が心当たりがあると名乗り出た。担当医だったんだとよ、移動で紹介状を別に出すまで、一年ぐらい。で、その医者から電話番号聞き出し、幼児施設に預かりの一報が入ったってぇ、こういうことだ。あれが病気持ちなんて事、俺は忘れつつあったがな」
「迎えに行く」
「駄目だ」
香鳴がぴしゃりとした声でフレイの頬を叩いたと同時、打たれた方は訝しげな眼差しを向けた。
「あの子の祖父だという人間が、引き取りたいと言ってきている」
「―…え」
「本当は二ヶ月前に一度訪ねてきてたんだとよ。里親がいると聞いて、こっちには暫く秘密にしておいて欲しいと頼んでたみたいだが、孫が倒れたってのを聞いて、今からはうちで世話したいと願い出たんだそうだ。施設側も困惑していた。身分証明証の姓も同じ、くりぼうが言っていた母親の名前と出身、生年月日も諳んじて言える。そこまでは父娘二人の繋がりを示す証拠にはなり得ないが、戸籍謄本は役所の手違いを疑わない限り、まずは嘘をつかねぇ。あいつの祖父だってのは間違いない」
「そんな―そんな虫のいい話ってないっ!今まで知ってて引き取るつもりなかったんでしょう?なんで今になってっ!」
知らん、と事も無げに香鳴は首を振るが、フレイに同意する素振りは見せない。苦すぎる表情は、次に言う事を躊躇っているようでもあった。
「あいつの発作の特徴、覚えてるか」
足下から崩れ落ちかける世界を留めるために、その一部を「なかった」ことにする、記憶の部分的欠如。透とラズも見ている。
まさか―。
香鳴の硬い表情は変わらない。不穏な憶測が鋭利な矢になってフレイの胸を貫いた。
「永久的にか、一時的なもんなのかは医者にも判別つきにくいってとこだ。数日経てば徐々に回復してくる症例もあるにはあるが、どのくらいってのは個人差がある。三ヶ月先か、一年か、もっとかかるのか―一生思い出さないってのも、ないとは断言出来ない。俺の事もお前の事も、透とラズの事もな。だがそれとこれとは別だ。他人の寄り集まった俺達と、自分と血の通った人と、どっちと一緒にいるのがいいかはあいつにしか決められない。決めちゃいけねぇんだよ俺達は。それに、その祖父って奴だって、県外から往復してずっと孫を捜し回ってたって話だ。虐待に遭わせるっていうんなら何が何でも渡すわけにゃいかねぇが、きちんと育てたいっていう、れっきとした希望を持つ正真正銘の身内の申し出を、嫌ですとむげに断る理由がない。―残りは坊だが―」
ポケットをごそごそと掻き回して、テーブルに落としたのは、花びら。零したワインのような真紅をフレイは凝視した。
「流し台の下にこれが押し込められてた。隠しやがって、ご親切にアロマなんぞ仕掛けて匂いも誤魔化してあった。宛名の紙は破られてたが、誰が贈ってきたのかぐらい想像がつく」
コーヒーが運ばれてきた。無糖でミルクを一さじ、乱雑に掻き回す。
「以前入った時も雨だったな」
店内ではどしゃぶりから逃れてきた客が、飲み物と軽食を添えながら時間を潰している。今朝の様子を考慮して、以前入った店に四時の待ち合わせをしたのは香鳴だが、約束の頃を過ぎてもバケツをひっくり返した荒れ模様は変わらない。チューナーを合わせたラジオが付けっぱなしになっているのは前と同じだが、今は天気予報のニュースが流れている。グラスを拭き終わったオーナーが棚から音楽用のテープを何本か掻き出す音が、がちゃがちゃと、アナウンサーの声を邪魔した。
「お前どうしてる。飯ちゃんと食ってんのか」
傘の開閉のタイミングを誤ったのか、まさか差さずにここまで来たわけではないだろうが、フレイの髪は濡れて生乾きになっている。肌の白さは今更特筆すべき事でもないが、薄暗い闇雲のせいで陰を落としたそれは幾らか不健康そうに見える。三人ともが消えた日から数週経つ。月代わりをした現在、この青年が何をして過ごしているのか、香鳴は知らない。
激情はフレイの瞳から退いていた。いや、奥に沈み込めたと言うべきか。今のそれは戦場の空を映したように、いっそ恐ろしいほどに静まりかえっている。ぽつ、とその口が動いた。
「…香鳴は、平気なの」
透とくりぼう。いなくなっても。

ダンッ!

グラスとカップが揺れた。テーブルを叩いた拳は少し震えていた。物音に反応した客が、何事かと顔を向けたが、初老より歳を重ねた男の眼光に、すぐに視線を散らした。
すぐにラズを追わなかったのを考えれば分かる事だった。
大人である彼には、責任を背負う事が自分を罰っする唯一の方法。傷つく役回りに楽をしているのはこちらだろうに、仕方ないと言って割り切るのを、年上の仕事だと丸投げする卑怯。
「―ごめん」
「クマつくった目で謝られても嬉しかねぇ」
香鳴は白髪の混じった頭を緩く立たせた。鼻頭は通っていて、顎の剃り残しはない。ただ、よれた背広の衿に、決して口にはしない心中が思い測られた。どうでもいい者のために心砕いたりはしない。
「働きづめだって聞いてたぞ、四男坊から。『宝探ししてるんだー』だと?たまには休め」
「年から年中飛び回ってる人に言われたくない」
「おめぇ、こういう時にも可愛くねぇな」
表情を渋くした香鳴に、どういたしまして、とフレイは芝居がかった動作で両肩を上げた。
「金が必要だってんならそう言え。遠慮されるとそっちのが気味が悪い」
「必要経費は黒字が出るくらいもらってるからいいんだよ。子供を甘やかしちゃイケマセン」
誰が誰の子供だとはり倒してやりたかったが、先が進まないと飲み込んだ。
「じゃぁなんだってんだ」
普通に生活していたら、坊と俺の出してるのでも十分賄えるだろうがと、香鳴はそんな風に言いたげだ。無精顔で腕を組み直していると、ラジオが電波を発した未確認浮遊物体みたく高低音を鳴らす。やがてニュースの音声が立ち切られ、小さなメロディーが、テープの擦れる音と一緒に耳に入った。多分オーナーも好きなんだろう。タータンチェック柄のエプロンをつけた中背の男は、若干目立ち始めた腹の曲線を満足そうに撫で、アルコールの瓶を棚に片付け始めた。

Sometimes I get to feelin'
I was back in the old days - long ago―

「ピクニックに行こうと思ってた」
レモネードをストローで回す。
「くりぼうがね、葡萄狩りに行きたいって言ってたんだ。いつだったっけ、迷子の女の子助けて自分が迷子になった時。透には怒られてたけどね。よくよく思ったら、僕等電車で出掛ける事はあるけれど、そんなに遠くまで行った事はなかった。もう時期は過ぎるから、葡萄狩りは駄目だけど、春になったらみんなでね、うんと遠くまで旅行しに行って、また一年、不束者ですがどうぞよろしくお願いしますって手をついたりなんかして」
「最後のそれは嫌がらせか」
「誰も僕が若奥様するなんて言ってない」
「そうかそうか、そりゃ安心した… …ん?」
フレイが吐いたのにどこか引っかかりを感じたが、何がというと咄嗟には出てこない。
「まぁ、それは冗談として、期日未定の延期です」
「それだけか」
「それだけですが」
「らしくねぇな」
耳の後ろをぼりぼり掻いて、香鳴は顎に皺を寄せた。
「てっきり阿呆だの馬鹿だのすかんちんだの、坊をなじると思ってたが、その気力もなくなったか」
ああ、とフレイは指を止めた。
「半分は自業自得だから」
そうしてストローに口付けて、どこにも視線を合わさない様は、短く吐いたその意味を問い立たす隙を香鳴に与えない。

The days were endless we were crazy we were young
The sun was always shinin' - we just lived for fun―

ふん、と香鳴が鼻を鳴らす。
「流れてるのまで同じか。なんて名だった」
フレイが好きだと言っていた曲だ。歌っているのは過ぎ去りし日への憧憬、それとも現在。甘く黄昏れる声には聞き覚えがある。クイーンだよとフレイは答え、タイトルは忘れた、と伏した目の奥で笑った。
 
 
 先に席を立ったのはフレイだった。明日からまた留守にすると言う。
「おい」
ジャージ素材のブルゾンに腕を通したフレイを香鳴が呼び止めた。
家に戻ったらまずはその髪をなんとかしろと、いらぬ世話を焼いてからの台詞だったが、
「世の中にゃ分別で自分をがんじがらめにしなきゃぁ、守れねぇ秩序ってもんがある。だがガキの願望ってのはこれを遙かに凌駕するもんで、泣いて喚いて駄々こねまくって、ほとほと力つきた親が根負けして品物買っちまうってのはよく聞く話だ。馬鹿の一つ覚え、泣けば思い通りになるとかいう勘違いにゃ拳骨喰らわしてやるところだが、手を離したら終わり、二度と手に出来ない物も確かにある。そんな時は、分別なんざかなぐり捨てて、恥も外聞もなく居座ったもんの勝ちだ」
そう吐き捨てた香鳴の目は、テーブルの花びらを一心に見つめていた。離してしまった手をそこに思い出すかのような、それは甥のものとはまた別であり、ずっと昔に失ったというような口調だった。
「―坊は屋敷に戻っていないそうだ。手伝いの一人から様子を聞いた。可哀想に仰天してたぜ、ありゃほとんど泣いてたな。俺は来週末に飛ぶ予定だが、てめぇの判断は任せる」
「ファースト?」
「べらぼうめ、膝ロボット確実のエコノミーに決まってる」
「歳だから気をつけないとね」
勘定片手に、フレイは後ろ背で手を振り出ていった。ビニール傘が開いたのを、窓ガラスの向こう側の景色に見る。帰り着く頃にはまたずぶ濡れだ。
香鳴は煙草を取り出し火をつけた。雲を千切ったような煙を吐き出し、傘の水色が雨に溶けていくのを見送った。
手放したら終わり、二度と手に出来ない物。ついぞ前まで、それはそんなに多くなかった。父は香鳴が大学に入る頃に、母はそれから五年もせずに鬼籍に入っている。喪主を務めたそれぞれの日に、姉への陰口がそこかしこで囁かれるのを聞いた。ある事ない事、想像で膨らました尾ひれがついていた。お気の毒に、と特に親しくもしていない、名前も出てこない遠い親戚の中年女性が、目頭にツバ付けながら言うのを軽蔑の目で見ながら、しかし頭だけは下げて義務を果たした。
姉と再会した自分は舞い上がっていた。下の子だからと甘くされ、黴びた考えの家族から逃げるように日本を去った姉を弁護するでもなく、別れの挨拶さえ出来なかった、その負い目からの相乗効果だったとしても、肉親としての姉への情は本当だった。姉もまた、幼くして別れた弟を懐かしがってくれているのだと思った。だが姉に両親の訃報を告げた時、空気のように見えない壁が、二人の間に立っているのを知った。
香鳴にとって家族ほど縁遠い存在はない。容易に取り返せるほど近くにはなく、あまりにも長い時間を空白にした。
(なぁ坊よ)
口には出さず、薄く煙幕の張った視界に目を閉じる。俺でこんななら、お前ならもっとだろう。
親しい者に囲まれながら、ふと柔らかく笑む甥を、決して穏やかに過ごしたとは言えない少年期の隙間を埋めるように見ていた。すれ違う肉親よりも近しい彼等を、世間では何と呼ぶのか、当てはまる言葉は出てこない。だがあいつらが互いを必要とし生きるのを、物知った顔で馬鹿にする奴がいたなら、俺はぶん殴っただろう。
残された奴を順に迎えに行っても、そいつはきっと嬉しい顔をしない。大体お前がいなくてどこに連れて帰るってんだ。


Cos these are the days of our lives
They' ve flown in the swiftness of time
These days are all gone now but some things remain
When I look and I find no change

Those were the days of our lives - yeah
The bad things in life were so few
Those days are all gone now but one thing' s still true
When I look and I find... I still love you


サビのフレーズを最後に、ラジカセから流れる音楽が止んだ。続きの曲が一向に始まらない事から、一番後ろの録音だったようだ。息を殺して耳を澄まさないと分からないほどの、小雨の降るような音を立ててテープは回り続けている。オーナーは厨房の奥に引っ込んでいて、曲が終わったのに気付いていない。
押し流されるのを懸命に堪えている外の景色の中に、ずぶ濡れのぶち模様の猫がいる。にゃあと鳴いたのか、欠伸をしたのか、それとも寒さに震えたのがそう見えたのか。猫は尾を斜めに振って、とつと雨の中を走り去った。