ままごとです。-34-


 フレイは図書館にいた。国内で発行された書物をほぼ網羅、把握する利便性は、公に知られているその名に恥じぬ通り、図書を探す者にとっては最終的な頼み綱になっている。ここにないなら、他の図書館をあたっても無理だろうというものだが、さすがは最後の砦というべきか。
電車をわざわざ乗り継ぎしなくとも、瑞恵に頼めば、フリークの彼女ならば二、三冊ぐらいアトリエまで持ってきてくれたかもしれなかった。伝があるにも関わらずそれをしないのは、瑞恵に余計な期待をさせればもう一月、最悪数ヶ月、缶詰を強要されるのを免れないからだ。なにしろ、本当に「ない」のだから。

太陽がぎらぎらと照りつき、地表が四十度を越える真夏の最中でも常温以下の温度を保つ地下倉庫は、避難するのに最適ではあるが、意味不明な絵の残骸に気分を悪くするのは避けて通れない。それでも上り下りを繰り返し、片っ端から取り除いていった瓦礫の山に、瑞恵の欲する宝は最後まで発掘されなかった。
タイムリミットに迫られた瑞恵に、馬鹿正直に「ありませんでした」と言うのは簡単だ。だが、これだけ今まで労苦を重ねてきたのに、報酬が丸々水疱に帰すというのはいかがなものか。瑞恵とは、『絵を見つけたら支払いに応じる』という契約を結んでいる。時給にしとけば良かった、と遅すぎる後悔をしながらも、何かしらの手掛かりを得るためにした努力がこれだ。思えば画伯の事で知っているのなんて、偏屈な性格ぐらいだった。
一度に三冊までしか閲覧出来ないのが難点だが、三冊もあったのがまず喜ばしい。自身についてほとんど語りたがらなかった彼は、たまに訪ねてくる記者やカメラマンを、とりつく島も無しに追い返していたものだ。あんまり五月蠅いのには、垣根の植木鉢を投げつけてた事もあった。あやうく頭をかち割られそうになりかけたそいつは、「この気狂いジジイ!」とツバを吐いて、二度と現れなかった。
 同じ出版会社から発刊された続きの二冊には、華々しく頭角を現した時代の壮年男性の写真が収められていた。白の木綿シャツにセーターを合わせた氏の隣には、横髪を片側に寄せて三つ編みにした女性が佇んでいる。黒い瞳と藤色の着物が印象的な、頬のふくよかな日本美人だ。氏を見守るように穏やかに微笑む彼女には、余白部分に『藤沢村にて。妻・喜代子と』と添え書きされている。
頁の始めに笑顔さえ見せていた画伯の表情は、だが、本の真中ほどで劇的に変化を始める。白髪交じりの髪に櫛も入れず椅子に座る、目を血走らせた男が描いているのは、夜の砂漠にうっすら浮かび上がった二つの井戸。しかしよくよく見れば、それは旅人の憩いの場ではなく、闇の奥から覗き込んだ瞳孔だと気付く。ライオンのように、獲物を狙って息を潜めているのでもない。その眼は、ただ「ある」だけだ。闇に同化しすぎたその眼は、さらりと見飛ばせば描かれていることさえ悟られない。仄暗い深淵を眼前にしながら、「なあにこれ、真っ黒じゃない」とうら若い女性が笑う光景は、あまりぞっとしない。双眸の方は彼女を暗く見つめているというのに。
まるで画伯の人生を辿るような編集を、フレイは時折過去に遡りながら脳にメモしていった。瑞恵が聞いたらヒステリーどころか、率直に言って、どんな目に遭うか分からない。必ず見つけろ、それが契約だと、こと画伯に関してはミザリーになりかねない。
フレイにしてみれば、そんなハイリスクを背負った覚えはないのだが、金が必要というのは事実で、この一件にかけてはどうにか収拾つかせたいというのが本音である。額だけなら他に分散して仕事は見つけられる。だが、今優先すべきは時間の方だ。

 壁の時計に目をやった。情報があればいいと読みふけっていたが、役に立ちそうなのは見当たらない。氏が北海道の生まれであることと、画家の勉強をするために妻を連れて上京したこと、愛妻の死を境に酒浸りになったこと、栄光から転落した半生。
口髭を生やした画伯の厳格な顔立ちに、瑞恵に言われたことが脳を掠めた。
―何故来なかったの。

今だ勝ち負けのつかない賭けだ。何をどうすれば判定がつくのか、心臓を患っていた老人はついに口にしなかった。
(これはとてもフェアな賭だ。お前の持つ天秤の片側に、憎しみと殺意しか乗っていないのであれば、事は容易に決まるだろう。さあ、時が来るまでは、私のもとに再び来てはならない。私の絶望がお前を飲み込まないように)
何を賭けるのと問うと、彼は病床で薄く笑った。青白い頬に幾重にも皺を寄せ、
(死に損ないの持ち物なんざ、この心臓の音だけだ。フレイ、賭というのは必ずしも相手を打ちのめすためにするものではないのだよ。お前はお前の一番大事な物を賭けなさい、私が勝ったらそれを貰い受けよう)
そう言って枯れ枝のように冷たく固い手でフレイの額を撫で、少し眠ると眼を閉じた。
「―あなたの命なんて欲しくなかったよ」
彼は本当に勝手だった。


 アトリエに戻ると午後六時を過ぎていた。台所で湯を沸かし、ベーコンとほうれん草を茹でただけの簡単なスープを作る。こちらに来ている間の食事は大抵そんなものだ。もっと手早いのだと、都心に出たついでに菓子パンと飲み物だけ買ってくる。一人だと食べる気があまり起こらない。
図書館でとったコピーを床に散乱させソファに寝そべった。折り畳み式の簡易ベットがあるが、毛布に丸まりながら眠る事の方が多い。雪の降る寒い夜、母と父との間に挟まって、北国に伝わる物語を聞いた。左右のぬくもりを確かめながら、リーナがいたずらっこい声でお休みを言うのを聞いて夢に入る。最愛の人達を忘れない。忘れてはいけない。
いつものようにフィルムを巻いて、彼等が映っている場面を再生する。懐かしい景色、光の帯がどこまでも地平を這い、波立つ穂先。
(っとにねぇ!)
肩をいからした子供の声。
(僕のだってドーナツとっといたのに、食べちゃったんだよ!)
うっさいなぁ、と怠そうな別の声。
(腹減ってたんだよ、仕方ねーじゃん)
(ぜんぜん仕方なくないー!)
二人して顔を付きあわせてたかと思うと、ぽん、と頭の上に電球みたいなのが閃いて、にっこり、にやり、「フレイがいるじゃん」って。…材料不足なんだけどなぁ。
もう、分かる。これは続きの続き、長い真っ白な紙に、横に並べて絵を描き続けるようなこと。忘れないのではなく、忘れてはいけないのでもなく、忘れたくない。
憎しみと殺意しか乗っていないのであれば―だから―苦しい。

明日帰ろうと思いながら、どうしてだったかをはっきりと頭に浮かべられるよりも先に、フレイはソファに沈み込むように目を閉じた。



* 



―ねぇ、まだ分からない。

―… …。

―僕等は似てるんだよ、欲しい物が同じなのだもの。

― … 。

―いつも、いつだって突き放せたんだよ君は。行き掛かりだって、もう知らないって言ってしまえたんだ。でも君は言わない。透を帰すって言わない。

― … 大事に出来ない。

― … 。

― 選ばなければならない解答が決まっているなら、わざわざ選択肢を増やして問題をこじらす間でもない。

― 決まってる…?

― お前が復讐を手放せないのと同様に。

― … …。

… … … … …。



* 


 一定のポーズをとって、何かが鳴り響いている。熱をもたない光が投じられようとしている林の中の、訪問者が極端に少ない一軒家にも、外界と通じる線は伸びている。ただ、ここでそれが鳴るのを見るのは初めてのことで、飾り物と化した黒電話があるキャビネットに、俊敏に駆け寄れるとまではいかなかった。
毛布を体から取り落とし、踏んだ床は冷たかった。浦賀が死んだのを知らない、彼の親類か何かだろうか。ここでの画伯本人は完全に孤島の人だったが、この家に住んでいた短い間、電話が鳴ったことは数えるぐらい、というより、ほとんど記憶にない。心当たりある者で、番号を知っている人物は、画伯と瑞恵、鍵を渡してくれた管理人と、折川―。
フレイは受話器を取り上げた。
「…はい」
『やはりそこか』
「…ラズ」
彼もまた知っている。この小屋に連れてきた時、自分が教えた。人嫌いな浦賀は、どうしてかラズは追い返さず、雨に濡れた彼に着替えと食事を提供するのを許してくれた。
「仕事先は教えなかったよね」
『このところのお前を見ていれば分かる。折川を見つけたのなら、その筋の場所。俺が知ってるのでは、浦賀の家しかない』
「ご名答」
で何の用、と口にするより早く、彼は話し始めた。
『最初に俺に言った言葉を覚えているか』
「最初―?」
『欲しい物が同じだと』
互いを見張り合っていたあの頃、ちっとも自覚しないラズに苛ついて言ったのだっけ。
『昔、欲しい物はあった。例え憎まれているのだとしても、必要だと言える物があった。だが手に入らなかった。透を傍にしても、俺は自分が何かをもう一度欲しがれるとは思っていなかった』
彼は告白を始めているのだろうか。今はもう大丈夫だと、安心させるために。低めのアルトを聞きながら、遠く墜ちた意識の隅で違うだろと思う。そんな殊勝な性格でないのは了解済みだ。
『―カッコウの話を知っているか』
ホオジロやモズの巣に卵を産み付け、仮親に育てさせる、托卵という行為で有名な種だ。孵った雛は巣の主の卵を蹴り落とし、自分のために餌を運ばせる。仮親はいとしいとしと慈しんで育てるが、成鳥となった雛に親鳥と同じになるものは羽根ひとつとてない。
仮親がカッコウの雛に餌を与えるのを図鑑で見たことがある。粘液質な真っ赤な口内を大きく開き、仮親の小さな頭もろとも飲みこむように餌をねだる様相には、どこか惨たらしい気色が感じられる。だがどうして今そんなことを。
カーテンから差し入った光が部屋を横断して切った。目を細めたフレイの目に、テーブルに置いたままの古い絵の切れ端が映り込む。少年と少女。黄色い花。
「ラズ、今どこにいるの」
穂が風にさらわれるように、フレイの中でざわりと何かが逆立った。
今日の昼頃に帰ることは告げてある。どうしてそれを話すのが今、今でなきゃならない。
『分かるはずがなかった』
存外穏やかな声がそう呟いた。
『一人では分かるはずがなかったんだ』
「―ラ」
『―。』
声が途絶えた次の瞬間、フレイは受話器を叩き付け外へ飛び出した。
 
 環状線に乗り込んでから、乗り継ぎ後の二十分もかからない直通の電車に、ドアが閉まるすれすれで飛び込んでもなお遅い。額に汗をかいて息を切らすフレイを見て、親切な中年の男性が席を譲ろうとしてくれたが、腰を下ろそうという気にもならなかった。
そんなはずない、なんて、どうして思いこんだのか。今日は、今日だけはいつもより特別で、不安な事は何一つ起こらないと、どうして。
ドアが開き、一番に駅の階段を駆け下りると、天気以外変わるところのない街並みが左右に拓いた。いつもと同じ風景なのに、まるで別物のように映った。
アスファルトを登った坂の上に、赤い屋根が桟を突き出しているのが目に入った。見つからない絵のことも、その行方を探る術も頭にない。水分を欲する喉の痛みも追いやり、ただ、彼が電話を切る最後にいった言葉を反芻する。
「―知らない」
君の事なんて知らない。君がラズだって事しか、僕は知らない。
鍵を探してポケットをまさぐる必要はなかった。ドアノブは簡単に開いた。
冷蔵庫の保冷音が、やけに大きく聞こえる。居間には三つ、空の布団が敷きっぱなしになっていて、一つは寝た形跡もなく整然として敷かれたままになっている。戦隊ヒーローをプリントしたくりぼうのタオルケットがしわくちゃになって壁際に放り出され、透の紺の学校鞄は壁際に頭を立て掛けた状態で蓋が閉まっていた。
台所のテーブルの上は綺麗で、朝の残りが置かれてもいない。チビのクレヨンと、ラズが読んでいたのか、文庫本の古い洋書。その下に挟まった紙を引き出した。くりぼうが落書きしたのかと思ったが、違った。
頭髪の茶色っぽい幼年の子供と、黒髪の少年、青い瞳の―僕。紙の左半分を埋めたその三つから離れた箇所に、もう一つ、髪を黄色く塗りたぐった顔がある。肌と髪の色のモノトーンと茶系の中において一際鮮やかだが、その胸下に描かれた草色の文字は黄色より目を惹いた。
ほら、と誰かが耳に囁いた。
緩慢に時をやり過ごしている間に、大切な物をまた失っていく。気付いた時には既に遅い。手放すことも選び取ることもせず、結局、何一つ守れない。
「―っ」
受話器から遠のいて消えた声が、まだそこにあるかのように、フレイは紙を握り締めた。爪先に食い込んだ黄緑の塗料が、うっすらと紙を染めた。


 * * *  


 携帯を切った。人の少ない一階のロビーからエスカレーターを使って登ると、にわかに人の往来と案内放送のリピートに飲み込まれた。

…時、…分発…ロンドン、ヒースロー行きにご搭乗される方は、Bゲート前にお集まり下さい…。
逆さに持った封筒の中から、光沢のある固いカードが滑り落ち、すれ違った白人の老婦が腰を折って拾ってくれた。
『あなたのかしら』
『はい、ありがとうございます』
青年の風貌から、自分と似た土地の者だと感じ取ったらしく、リボン付きの桃色の帽子を被った婦人は、少し微笑んでカードを手渡した。
『よい旅を』
杖を持った紳士に促されて、婦人は人混みに紛れ込んでいく。
手に返った物を束の間目にし、搭乗券に重ねて封筒に収めた。荷物は多くなかった。向こうの気候は年中入れ替わりが激しく、こちらのように季節ごとに決まった服装というものがない。案内放送が再び搭乗時刻を告げるのに従い、国語が入り乱れる熱気を歩き出した。
「―」
誰に呼ばれたのでもなく肩を振り返った。重そうなトランクを家族で連れたって牽いていくかしこの様子は、あらたまった気遣いが不要な、そういう者がいたことを思い出させる。数えるのが無意味なほどに呼ばれる、それは名を持つ者だけに与えられる特権だ。
彼は小さく口を開き、判別に特徴的な長い髪を翻した。熱を孕んだ空気に、呟きよりもかすかな声が溶けて消えた。

Thank you for giving me "Raz"―