ままごとです。-33-


 知らない階段を上るのが怖かった。迎えに来てくれたのは、眼鏡をかけたワイシャツ姿の男の人だった。くたびれたネクタイを手持ちぶたさに緩く引っ張りながら、玄関の立て看板の辺りに立っていた。
少ない持ち物を詰めたリュックを背負った僕は、施設の人と並んで歩く。男の人が僕等に気付いて一礼した。それから二言三言、やり取りされているけれど、二人が何を言っていたかあまり覚えていない。
「それでは、よろしくお願いいたします」
お遊戯で何度か遊んでくれたお姉さんは僕の顔を覗き、にこりと笑って舎に戻っていった。
大きな手に引っぱられて駐車場に連れていかれ、白っぽい普通車の前座席に促された。「乗りな」という声に押されたけれど、一向に足が進まない。男の人は半周して僕の所までやって来て、ドアを開いてくれた。のろのろ乗り込んだら、シートベルトまでかちりとやって、運転席に戻り直してキーを掛けた。
僕等は互いにだんまりで、始終居心地が悪かった。
下から見上げるように盗み見たおじさんの横顔は、どう良く考えてみても人の気を和らげるものではなかったし、土台、僕は会って数回の他人に愛想を振りまけと願える「ミブン」でない。
おじさんとは何度か、僕がいた施設―今さっき出てきたばかりの―で、相談員と一緒に椅子を並べたことがある。僕はずっと俯いていたから、おじさんがどんな顔で話していたのか記憶にない。分かりきっている椅子の足を数えていたら、
「―で、いいな。ぼうず」
いきなり振られて、びっくりした拍子にこくこく頷いてしまった。
 僕は一言も喋らず、曲がった角の数を数えていた。何でおじさんが僕をひきとりったがってるのか分からなかったし、おじさんも何も言わなかった。
過ぎた景色の中に、一つだけ目で追ったのがあった。あの駅、今日はあの中に、もしかしたらいるのかなって、あり得ない願望をちょっとだけ持ったけど、すぐに目を伏した。だってもう分かってる。ママは今日も帰ってこないだろう。
景色がどんどん変わっていくのを見ながら、ぼんやりする僕の頭は難しいこと考えちゃいなかった。施設のおねえさんもおにいさんも先生も好きだったし、僕と同じ境遇の子たちと遊ぶのも嫌いじゃなかった。でも多分、僕は認めてなかった。僕にはちゃんとママがいて、ご飯の時間になれば戻る家があるのだと、ここにいるみんなのように、可哀想な子供ではないんだよって、繰り返し、繰り返し、嫌なことを見ないようにした。
そういえば、あの人大丈夫だったかなぁ。僕、思い切り噛んじゃったんだけど。保健室の先生に包帯巻いてもらってたっけ。ドアからこっそり覗いてたら大きい手をぬっと伸ばされて、ダッシュで逃げちゃった。怒られるの怖かったんだ。
頭きて、わんわん泣いて、噛みついて、叩かれるくらい覚悟してたけど、いつまで経ってもぶつ手はなかった。
「…い、の」
「―なんか言ったか?」
おじさんが顔も横に向けないで聞いてくる。仕方ない、運転中だから。それでなくても、おじさんは僕のことあんまり好きじゃなさそうだし。でも、なら何で僕のこと引き取るのかな。施設の先生とよく話してたんだから、子供嫌いって訳ではなさそうだけど。
「なんでもないです」って、僕は左の窓に首を捩った。

 角を数えるのをやめてから数十分、家がたくさん並ぶ道で車は止まった。僕はおじさんに言われたとおり、リュックをしょって座席から降りた。おじさんは「ついて来な」って、先に歩いていってしまって、僕はその後を着いていったのだけど、カンカンカンって…これ。
あちこちペンキの剥がれた鉄の階段が、ずうっと上に伸びている。
おじさんは後ろを振り返りもしないでさっさと後ろ姿を消してしまう。子供なんて本当は欲しくないんじゃないか?
うううと唸っても、助けは来ない。薄情なあいつを呼ぶのは癪だ。
僕は心を決めて、短い(大きくなったらもっと長くなるんだから今は我慢!)足を胸まで上げてよじ登った。
十段ぐらい登れたかな。あれ、まだそんなに登ってない?弾みで下を見た僕が馬鹿だった。
「―」
段と段の隙間から見えた地面が、なんだかもの凄く、凄く遠い。落ち着け、落ち着け、僕。手摺りがあるんだから、ゆっくり登れば良いんだ。ゆっくり、そう、手を伸ばして…。
手摺りの棒を掴んで、ほっとして体を寄せたのだが、何て事だ。棒と棒の間から、やっぱり下が見えちゃうじゃないか!
僕は階段の上を、泣きそうな顔で見上げ戻した。おじさんの名を呼ぶか、意地を押し通すか。
僕はがつんと強く、もう一段踏んだ。ヒーローは、そんな簡単に助けを呼ぶものじゃない。
上がれば上がるだけ、地面は遠くなっていく。でもこんなの、ママを迎えに行ってた駅のより、ずっとずっと短いんだから。
「―だが、…あれ?どこ行った」
おじさんの間抜けな声が響いてきた。どこにも行ってないよ、おじさんがおいてったんでしょうが!
つっこみたいけど、僕の足は僕の気持ちに反して頼りない。気を緩ませたら、つるっとあっけなく滑ってしまいそう。
「下にいるんじゃないか」
誰だろう、別の声。ちょっと間を置いて、靴が地面を叩く音。僕が思うよりずっと速く、それは階段のすぐ上にまでやって来た。
ぁ、と僕は言ったような気がする。さらさらの金色の髪が始めに見えて、そうして次に、灰色の目が僕を見下ろした。
「……」
僕は思わず息を呑み、その人を見る。この人のせいでママが来ないことを知り、この人のおかげで待つのを諦められた。背の高い全身像が、あの日そうだったように、冷えた目で僕を見る。僕は口を利かず、胸にぶり返したよく分からない苦しさで、そいつを睨み付けた。そして同時、見てしまった。
「―」
包帯はもう取れていた。糸を縫ったような赤い傷が、二列。かさぶたになり始めて時間がまだそんなに経っていない。傷口から出た液が固まってこびり付いている。
どんどんどん、何かが僕の頭を叩く。僕は本当にむかついてて、噛みついて相手が怯むならそれでよかった。「何すんだこのチビ!」って、平手が飛んでくれば、僕は二度も三度も噛みつけた。そうして明日も明後日も彼処で待てたはずだった。
僕はあんまり物を覚えていられないらしい。時々、さっきまで何やってたか分からなくなる、おじいちゃんみたいになる。
でも僕は思いだした。
(そんな顔をするくらいなら、僕みたいに泣いてしまえばいいのに。それともこの人、僕と同じなのかなぁ。会いたい人に会えないのかな。だからあんな顔をしたのかしら)
そう思ったから、僕は謝って―そうだ。
「上がっておいで」
綺麗な髪のその人が、僕に右手を差し出した。掴めるまでもう少し登らなきゃいけないけれど、それは引っ込まない。そこにある。くっきり残ってしまった歯形に、胸の中でもう一回謝ってから、僕はまた踏み出した。
雨音がポツと手摺りを打った。


* * *


 かん、かん、かん。一足ずつ降りた。ふれいは明日帰ってくる。透が学校から戻ったら、料理の材料を買いに行こう。ケーキを選んで、照り焼きチキンを買って、それから、それから。
「あ、」
最後の一段を降りて振り返った。出掛ける時には、これだけはいつも忘れない。
「行ってきます」

半袖のシャツと黄色い帽子、膝丈のズボンを履いた足には青いサンダル。肩掛けの鞄から飴を一つ取り出してほおばった。コーラ味だけど、炭酸みたいにシュワシュワしない。
一人で歩く道は、いつもとちょっと違って見える。アパートから少し歩いた公園で遊ぶ以外、大抵透かふれいが横にいて、何か危なっかしい事をしないかどうか見てくれている事が多い。
「僕、そんな子供じゃないよーだ」
くりぼうがべえっと舌を出すと、透は、
「じゃぁ何、お前は、俺が頭の禿げた中年だと?」
それを聞いてたフレイは、
「なら僕は老人ということになりますが。ねぇ、香鳴サン」
雨避けの屋根を提供してくれている、ありがたい御仁は一言。
「葬式済みの俺に振るな」
そうしてくりぼうに、「というわけで、お前は子供でいるのがみんなのためだ」と結論を言い渡すのだ。
ぶーっと頬を膨らませたくりぼうは、ちらりとラズを見た。難しそうな本に目を落としていたラズは、それに気付いて口を開いた。
期待に輝く目に応えた、こちらも一言。
「にんじん、残してる」
途端、腹を抱えて笑い出した透の背中を蹴って、くりぼうは台所の椅子をよじ登った。

 時刻は午後三時半。一緒に歩く人はいない。透は学校だし、ふれいはまた仕事で出てる。でも、明日には、香鳴だって訪ねてくるだろう。おめでとう、は明日まで我慢だ。
透達がくりぼうに一人歩きさせないのは、迷子防止のためらしい。確かに確かに、お参りの時も夏祭りの時も、一度は完全に、二度目は危うく交番の世話になりかけた。祭の夜は、親切なおじさんのおかげで難を乗り切れたが、どうにも僕は道を覚えるのが下手なんだなと、これはくりぼう自身が認めている。でもくりぼうにだって、絶対に間違わない道はある。
冷蔵庫に、筆ペンででかでかと『公園以外勝手に出歩くな:透』と張り紙してあるのを、「誰に」とは書いてないよね、と都合良く解釈して家を出た。
繁華街から行った方が分かりやすいけど、時間がかかるから、知ってる景色を他に選ぶ。
ほんとは、一人の時にちょくちょく来てた。透もふれいも随分心配するから言わないでいるのだけれど。

 一度も迷わないでくりぼうはそこに着いた。飴はもう溶けてしまった。一段一段、いつも来るよりゆっくり歩いて、何人もの人に追い越された。もうすぐ電車が出発するからかな。
登りきった場所は、長方形に開けている。右手側の改札口の自動改札に、切符を入れて走っていく姿が相変わらずで、そんなに急いでいない人達は、電光板をぼうっと眺めたり、隣の友達とお喋りしてた。
「…あ」
缶ジュースの自動販売機の隣、くりぼうが良く知ってる場所だ。
「ラズ?」
ラズは改札口を抜けた遠くの方を見ているようで、くりぼうが呼んだのにすぐには反応しなかったが、とてとてとした足音に気付いて目を動かした。
「―どうした」
一人で歩いて来たらしいくりぼうに、ラズは少し驚いたようだったが、(それもほんの少し眉をひそめたぐらいで、他人から見たら無表情に等しいのだが)こんな所に、とは言わなかった。
「えぇっと、」
口籠もりかけたくりぼうは、しかし、すっと顔を上げ、
「しばらく来てないなーと思ったの!」
ラズの隣に並んで、ぽんっと壁に背をつけた。
ここから見ると、本当に色んな人がいるのが分かる。仕事人ふうな、いかにものスーツの男性、定期を手にした女子学生、小さい男の子の手を引っ張りながら歩く二つ結びの女の子、幼児の手を引いているお母さん―。
ラズを見上げると、ラズはやっぱり、少しだけ悲しそうな目の色をしていた。何かもう、みんなしてカホゴなんだなぁ。
「あのね」
くりぼうは改札機を指さした。
「僕、ここからママと一緒にホームまで行ったんだよ」
見送りするだけだったから、駅員さんに言ってこっち側に戻ってきたんだ。ちょっと不思議そうな顔してたっけ。
ベルが鳴るまで、ずっとママを見てたから、どんな格好してたか今でもすぐ思い出せる。
「ママはきつね色のトランクを持ってて、白いワンピースと帽子を被ってた。ドアが閉まるギリギリまで僕の傍にいてくれて、ほっぺと頭を撫でてくれた。―優しかったんだよ。前に住んでいたアパートで、ママは何処かのスーパーで働いて僕を育ててくれたし。パパの事一つも言わなかったけど、僕はママだけで十分だったし、僕がママを大好きなのと同じに、ママも僕を好きでいてくれてるって思ってた」
すらすらと、思ってる事を言えたら良いのだけど。間違いの無いように喋るには、知ってる言葉が足りず、余分なのを省いて、つっかえずに話せる能力にも乏しい。
何だか恨みがましい言い方になってきてないだろうか。焦る傍らで、ラズはくりぼうが次に言う言葉を静かに待っていた。
「そういえば!何でここにいるの?今の時間帯なら、香鳴の家に行ってる頃だよね」
笑顔でそう訊いたくりぼうの額に、ひんやりした指が触れた。子犬か仔猫を愛おしむように、何度も頭を撫でられる。これはラズの癖だ。手が置きやすいっていうのもあるのだろうけれど。

―たり、しないから。

(あれ…)
何だろ。ラズの顔がもっと近くにあるような、そんな感じがする。膝を折っていないのだから、そんなはずないのに。
「寂しいかい」
くりぼうは弾かれたように瞬きした。そこにあるのは、やっぱり背が高くて、綺麗で、―。
くりぼうはラズの手をぐっと頭のてっぺんで持ち上げ、結んでいた口を弛めた。
ラズのママのこととふれいのナイフのこと、見聞きして澄ました顔出来るほど大人じゃない。透みたく―ここ、悔しいとこなんだけど、色んな事を覚えた頭なら、『びっくり』と『どうしよう』を、きちんと整理出来て言えたのかもしれない。だけど、要領がいいとは言えないくりぼうの頭は、あったらいいんだろうおまけの言葉を素通りして、一つの事しか考えない。考えられない。
「あのねぇラズ!」
意を決して言ったら大声みたくなって、ラズの手の動きがぴたりと止んだ。くりぼうは胸に吸い込んだ息を吐き出した。
「僕寂しくないよ。ラズは格好良いし、ふれいの作る料理は美味しい、とーるは…うっ、時々すごくむかつくけど、僕をプールまで連れてってくれたし、クリスマスもお祭りも楽しかった。だからっ」
両手を、頭の上のラズの手に重ねた。
「ラズも、ママがいなくても、もう寂しくないかなぁ」
「―」

ふわっと両脇をすくわれて、くりぼうは「わっ」と声を上げた。周りの人も、驚いた風にこっちを見た。
見上げて首が痛くなる姿勢だったのが、軽く周囲を見渡せるぐらいに視界が拓けた。ホームを駆け抜けていく電車を、窓ガラスから悠に見下ろせる。
「何か見えるかい」
「えーとえーと…、電車でしょう、ホームの看板、三つ編みをぶんぶん振って、二つ飛びで階段上がって来る女の子!」
広い世界に息を弾ませ、あちこちに首を捻った。そのうち大きくなれたら、こんなふうな景色を見て歩けるだろうか。そしたらもっと、沢山の物を見られるようになるだろうか。
こつりと額に額が当たった。薄茶色の長い睫毛をした瞼が伏せられていた。
「ラズ?」
目から透明な物が溢れて、苦しいのも悲しいのも押し流してしまえばいい。だけどラズは泣かなかった。
くりぼうはラズの腕の中、やがて思いついたように手の平を金の髪のてっぺんにあげた。それはラズがいつも、透とくりぼうにしてくれる事だった。

 ねぇ、僕、カレンダーと睨めっこして手を打った透の顔ったらもう面白いなんてものじゃなくて、『お、覚えてた!』ってあんまり強く言うものだから、『うん』、て頷くだけにしておいたんだよ?明日は、透とふれいと一緒に買いだしに行こう。ケーキを焼いて、ずらっと並べた御馳走を囲んで、とっておきのプレゼントを用意して。そしたら僕等は笑い合って、冷たい手も暖まるよ。

 離す寸前力を込めた腕を、ラズは緩やかに開放した。
フロアに降り立ったくりぼうは、首の時計を持ち上げた。透が帰ってくる前に家にいなきゃ、また『ふらふら出歩くな』ってデコピンするんだから。じゃぁ幾つになったらふらふら出歩いて良くなるんだよって疑問は、もう少し後まで続きそうだ。
「一人で大丈夫だね」
くりぼうは歯を見せて大きく頷いた。
ラズは唇を半ば開いたが、階段へ向かう小さな背、ふわふわと軽く風を切る髪を引き戻そうとはしなかった。走る者もおらず落ち着いた空気になった舎内を、頭上斜めから正面にかけて視線で切り、急いだ人の残した熱を改札の遠く向こうに見た。そこにもう誰もいないのを見取ったのを最後に、彼は動いた。

「っちわー」
軒先に一台のトラックが停まっていた。玄関に鍵がかかっているから留守かと思い、出直そうかどうか思案していたようだ。家の者だというラズが現れ、緑の帽子を手にした配達人は胸を撫で下ろした。
「えぇと、すみません。英語は苦手で。らー、ラズリエル・ハザーご本人様ですね、日付指定でお荷物お預かりしております。良かったです、お渡し出来て」
ボールペンでサインを受け取り、「ありがとございましたー」とトラックに戻っていった。
青と金のストライプ模様の包装紙で包まれた、高さよりも横幅の方が長い四面体。重量はそれほどもない。リビングテーブルに運び置き、外紙を取ると、表面のつるりとした白箱が現れた。ゴールドのリボンがかけてある。側面と蓋の接する四辺にも、同じ色のテープが巻かれていた。
リボンに鋏を入れ、次いでテープを端から一辺ずつ剥いだ。包装紙に張られた貼付表の依頼主の名が、透過して薄く裏映りしているのに、視線も投じず。
密閉された内側より息を吹き返した、それは、おびただしい数の赤い薔薇。柔らかな白い布紙を寝台のシーツのように身に纏い、五分咲の花頭を何重にも併せた束だった。布紙の間には二つ折りの小さなカードと身の細い封筒が差されており、カードの表には、滑らかな手製の文字が書かれていた。


―ハッピーバースデー・ラズ―


* * *


 透はシャープペンを指で回しながら、ホームルームの時間をやり過ごしていた。
「それじゃー明日も元気で来るんだぞ」
白い歯をにっと見せ、谷山は生徒達に解散の号令をかけた。同時に欠伸を噛み殺した透も席を立ち、鞄を肩に掛けて教室を後にしようとした。
「待った!」
「おぁ!?」
がしりと首根を猫のように掴まれ、透は危うくひっくり返そうになったのを踏ん張った。どうしてこの、体格も面もいたってスポーツ向きな男が専門科目を国語に選んだのか教えて欲しい。谷山は透をそのままずるずると黒板の前の教卓まで引きずっていき、そこまで来てようやく離してくれた。
「…なんですか」
「あー、えーとな」
谷山にしては物言いが悪い。
「『あれ』なら今家を出てますけど」
「何だとぉ?」
いかつい顔を前のめりに近づけないで欲しいと、内心苦笑しつつ、透は今だ誤解の解けていない谷山に同情する。目の色だって違うんだから、典型的な日本男児のなりした透と血がつながってるわけないって、普通気付くだろうと思うのだが、カラーコンタクトなんて粋なアクセサリーだなぁと言い放つ谷山は、もしかしてもの凄く幸せな人間なんじゃないだろうか。こうなると、家庭環境を二度も三度も説明し直すのが煩わしくて端折った自分にも非があるような気がしてくる。(実際は面白がって言わなかったフレイのせいだが)
口にはしないまでも、すみませんとだけ謝っておく。
「仕事なんです」
むむぅと唸った谷山は、固そうな髪をがりがり掻いたが、
「いや、それはお忙しいことだ。でも緋ノ原、今話したいのはそっちじゃなくてな」
「はぁ、」
「お前、高校どこ受けるとか決めてるか」
「高校、ですか」
深く頷いた谷山は、脇のファイルからごそごそと、グラフが書かれた何かの用紙を取りだした。
「こないだの一斉テスト、理科と数学の分野で高得点だったろう。百点中、理科は満点だ。学長とも話したんだが、お前にはこの学校の繰り上がりより、入試を受けた方がいいんじゃないかって思うんだ」
「―国語はギリギリ七十点」
「むぅ、まぁそれは頑張って頂くとして、まだ時間あるからおいおい考えておいてくれ。おし、帰っていいぞ」
谷山は分厚い手の平を打った。

 オレンジジュースをぶちまけたような空の下を歩きながら、透はぼんやり谷山に言われたことを思い返していた。未来など、果てしなく続く分かれ道のようで、そのくせあちこちに進入禁止の立て札が立て掛けられているように思える。
毎日が忙しく、また、そうすることで目を背けてきた事柄がぶり返したのを、透は自覚せねばならない。本家と縁が切れたわけではない。いつ引き戻されてもおかしくない、執行猶予の期限を過ごしている状態を、意識したくなかっただけなのだ。
あの、ただっ広い、沙耶の吐いた血が染みこんだ畳の間を思い出す。帰れない。
赤い屋根が映った景色に、意識せずほっとする自分はいつまでここにいられるのか、そんな考えが脳を横切った矢先、地面に小さい陰をひっつけた幼児がひょこひょこ向こうの坂を上ってきた。
「くりぼう」
公園で遊んでた、わけない。砂場と遊技を、透はついさっき横切ってきたばかりだ。
呼び声に反応したくりぼうが「うえっ?」と変な声を出して透と目を合わせた。
アパートの階段をほぼ一緒に並びながら登り、「何処行ってた」と訊くと、「こんびにだよ」と言われた。
「…ふうん、」
「な、何?」
「何買ったんかなって」
「が、ガム、ガムったらガム!」
「俺にも一枚くれよ」
意地悪く突いたら「もう全部食べた」と、鞄を後ろ手にしたので、頭をこつんとしてやった。嘘ばっか。
ドアを開いて中に入り電気を付ける。くりぼうが帽子を外して居間の隅に鞄と一緒に置いた。一人出払ってて、ラズが帰ってないから静かだ。
「あんまり遠く行くなよ」
自分も鞄を置きながら、透は自然口を開いた。「はあい」とちょっとぶうたれた風の、聞き慣れた声が返ってきた。
「行かないよ」
振り返ったら、透の腰の辺りまでしか背がない小さな子が目をぱちくりさせている。
「?どうしたの?」
「―お前、腹、出てんな」
「!!!!」
頬を膨らまして殴りかかってくるくりぼうをひらり交わし、避けられたと思ったら足の脛を掴まれて尻餅付いた。乗りかかってくる体重は、二歳児二つ分ほどある。
「あ、腹はやめろって、ぐ、あ、あはははは」
脇腹をくすぐって攻撃したくりぼうは、透に転がされて大の字に伸びた。
「明日の準備しなきゃね」
透は「そだな」と背伸びして天井を見上げた。
「―ねぇ透」
くりぼうが言う。
「フレイのナイフね、僕びっくりしたよ」
「俺もだ」
「でも怖くなかった」
「―あぁ」
驚きと恐れは違う。少なくともフレイを怖がったりしてない。だからずっと待ってるんだ。
ドアが開いたのに反応して、くりぼうが「う?」と玄関へ走っていった。ラズが帰ってきたんだろう。
「お帰りなさい!」
「ただ今」
ラズは身を起こしかけた透に目をとめて、頭をぽんぽん手の平にした。回避出来る体勢になかった透は肩を竦め立ち上がる。フレイがいないからなぁ、作れる物って限られてるんだけど。腕まくりして水道の蛇口をひねった透の横に、ラズが並んだ。
「すぐとは言わないけど作るから」
てっきり手を洗いに来たのだと思っていたのだが、ラズは何故か袖をまくった。
「手伝う」
「はい?」
「僕もー!」
今まで透がどんなに悪戦苦闘しても、男のプライドを傷つけまいと、焦げた魚を黙って食べていたラズが、『手伝う』と。ついに焦げに嫌気がさしたか?いや、でも俺、最近腕あげたと思ってたんだけど。焦げてるのだって三回に一回ぐらいになったし。
「たいちょう、指示を願います!」
テレビで覚えたらしい台詞を、くりぼうは、気を付けの姿勢でびしっと決めた。いきなり責任重大になった。

 『結果良ければ全てよし』。偉大な言葉だ。
流し台に突っ込んだ、皿やボールの量の異様な多さには目を瞑ろう。
ついでに千切りしたキャベツが太かったり細かったりするのも、ポテトサラダの芯が固いのも、喉元過ぎれば熱さ忘れる。使う意味が多少違っても気にしない。アサリのみそ汁なんて会心の出来だ。コロッケだってハンバーグだって、一体何が主菜なのか分からなくても、取りあえず美味しければいいじゃないか。
新ジャガに包丁を入れるラズの手付きは、思いの外器用だった。「かつら剥き」と言うらしい。フレイと二人だった時は、一週間で分担だったというようなことを教えてくれた。ラズの方が忙しいからと、そのうちフレイがこなすようになったのだそうだ。こうすると邪魔にならないよと、くりぼうが何処からか青いリボンを持ってきて金色の髪をきゅっと結んだ。
肉ばかりじゃバランス悪いとのフレイの刷り込みが発揮され、透はキャベツの千切りを始めた。こんなのよくやるよ、と切りながらフレイの手さばきには感心させられる。くりぼうは挽肉を手でこねている。あれ、総菜あるんじゃなかったっけ。まぁいっか。
作りながら洗う、という作業まではさすがに思いつかず、使った食器が次々と溜まっていったが、片っ端から洗えば済むことだ。透としてはかなり満足な出来映えだった。
 ―夕食時のラズは、いつもよりよく話した。話しかけた事に答えるのが多かったが、透とくりぼうが喋りやすいように言葉を選んでくれていた。彼が自分の誕生日を誇張することは一切なかった。透とくりぼうは、しめたもんだと互いに目配せする。そうした間、目を離し、掴み損ねたラズの表情は、だが決して不幸に塗りたぐられてはいなかった。

夜が更けて布団を出しにかかった間も、ラズはまだ着替えておらず、本を開いて台所に座っていた。
洗い立ての髪にタオルを乗せた透が「何それ」と訊くと、「物置にあった」と頁を一枚捲った。居間の灯りは消され、隣室の白っぽい光がラズの横顔を照らし、透の寝る枕元まで差していた。うつぶせに顔だけをラズに向けながら、透は安らかに寝入ったくりぼうを起こさないよう小声で話した。
「くりぼうが出掛けてたんだ」
―何処行ってたか、予想はしてるけど。
干渉のしすぎは良くないとは思う。しかし、十にもならないくりぼうに関しては、放任主義に徹しきれないものがある。人にあまり関心を寄せる方ではない、他人ならなおさらである透がそう出来ないのは、傍で泣き、笑う声に、透より背の小さい守らねばならなかったものを思い出すから。
「なぁラズ」
腕に顔を半分埋めながら透は言った。
「ラズは俺達のことうざかったりしない?」
平和ボケして考えてもみなかったが、ラズが三人も抱えなければならない謂われなんてないし、出てけと言われたらそれまでだ。
「フレイが、」
透が耳をぴくりと立てて片割れの名を出したラズの横顔を見ると、ラズは本を読む手を止めて、布団のある側に身体を向けていた。ラズだけじゃない、フレイについても知らないことだらけなのだ。ラズが透を連れて部屋のドアを開いた時から、フレイはここにいたから、上二人を一組で考えることが多いのだが―。
「透について、小夜子さんと話したのはフレイだった」
「フレイ?ラズか香鳴じゃなくて?」
「俺はお前の身内が現れたら帰らせるつもりだったし、香鳴がお前の存在を知ったのはその後だったからな」
「そうだったんだ…」
面倒事と思われていた事に軽くショックを受けたが、相手は見ず知らずの未成年だ。そうするのが当然だろう。
「お前が家に帰りたくないと聞いて、小夜子さんを香鳴に引き合わせた。美人と情に弱いのを見抜いての事だ、抜け目ない」
「俺、いなかった方が良かった?」
人の世話したがったのはフレイだけで、ラズは仕方なく連れの意見に合わせた―可能性に思い当たった透は、布団の中で僅かに身体を震わせた。
「良かった」
指先から冷たくなる感覚。その直後、
「お前とくりぼうがいて、良かったと思う」
「―っ!」
一瞬目を見張った透は、ぷいと寝返りをうった。そんな台詞を、そんな今まで見たこともない表情で言うのは反則だ。
(微笑んだり、なんてさ)
ラズに背を向け、灯を頭部に感じているうちに、段々眠くなってきた。くりぼうはとっくにすやすやと、何の夢を見ているのか、幸せそうに頬を弛めている。明日は、そう、香鳴も呼んで、フレイの手伝いもして、ラズが帰ってくるのを待って―。



 くりぼうの寝息に透のものが重なった部屋に、熱の抜けきらない月にしては涼しい風が、網戸を通して吹いた。ラズは本を閉じ、一つ落としている灯の紐に手をかけ、もう一段階落とした。目を凝らしてようやく足下が見える、黒蜜糖色の灯だ。
衣類が収納されている続きの部屋に視線を投げ、しかし、静かに斜に落とす。必要なものはそこにある、というように、ラズの瞳は暫く動かなかった。聞き慣れた二つの息、寝相の良くない小さい方が、大きい方に寄り添っている。
国境を示す川のように台所と居間を二分する玄関前の通路で歩を止め、開け放たれて風通しの良い居間の障子戸に手をかけた。
どうしたい、という希望はなかった。剥ぎ取られた意志の残滓に漂い、誰も愛さず、誰のためにも悲しまず、苦楽を本能とする生物となって生きろというのなら、それが母から下された罰なのだと、受け入れる用意は出来ていたのだから。案じる目をした青年は、ラズのそんな考えを気にくわないと言っていたが。
(いつも、いつだって、突き放せたんだよ君は。―まだ分からない?)
 空(くう)を撫でた手の平には、触れようと思えば手を伸ばせる距離に目を閉じている、安らいだ表情の彼等がいた。与える対象を得たこの場所が、一時の作り物の世界であっても。
「―おやすみ、」
幸福な夢を見られるように。


おやすみ、透。

おやすみ、くりぼう。









 白けた光りにぼんやりと瞼を開いた。昨夜は涼しくて、布団をしっかり巻いていても熱くなかった。くりぼうのすぐ隣には、いびきを立てている透がいる。
「… …」
ラズの誕生日だ。
くりぼうは寝乱れた髪をとくのも忘れ、ぱっと明るくした顔色で物置の側を見た。透が出した布団と、くりぼうが置いた枕があった。その位置は、角度さえ変わっていない。
そよと流れ入った風に、くりぼうは顔を窓に向けた。
「…ラズ?」
立ち上がる。
台所の椅子。ラズが昨日、座って本を読んでいた席。カバーを掛けられ、題名も見えないそれが、置いたままになっていた。
「―ラ」
居間に戻ろうとしたくりぼうの目に、傘入れや靴が並んだ其処が映った。フレイの靴はなくて、そこには、だから。
瞬間、くりぼうは鍵を外して飛び出した。

 朝の空気が喉に張り付き、起きあがりの身体を、心臓は容赦なく内側から叩いた。どくん、どくん、どくん。どうして気付かなかったのか。ラズは昨日、何処にいた。何処にいた?
「…やだ、いやだ」
踵を履ききらずに走り出した足が縺れても、立ち止まってなどいられなかった。絶対に迷わない自信がある、その道さえ、ぐらぐらと傾いていく。
「違、よ」
吐き出した声に、頬を伝う物が交じった。ここからママは消えてしまった。でも僕はママを呼ばない。呼んでない。今呼ばなければならないのは、その人じゃない。
ホームはとても静かだった。階段を登りきったフロアには、まばらに人がいた。寝間着姿のくりぼうを、見る人が振り返る。
「どうしたの、ぼく」
駅室から慌てて出てきた制服の女性が、悲鳴を挙げた。冷たいタイルに、涙で頬を濡らした子供が崩れ落ちた。




 …ルルルルルル…ルルルルルル。
何度目かのコールの後に留守録を案内する音声が続くと、香鳴は酷く切迫した動作で拳を壁に打ち付けた。ダイニングテーブルの灰皿の傍には見知らぬコロン。頭を逆さにした花の茎が、だらしなく口を開いた流し台の下の戸から身を乗り出している。
番号の通じる先、道具が置き去りにされた部屋に、受話器を取り上げる者はいない。




「―っはぁ…はぁ」
肺が熱い。見当たりそうな場所が思いつかない。三度の往復を繰り返した透は、唾を飲み込んで膝を叩いた。目覚めるとラズもくりぼうもおらず、登校時刻にもならない数字を時計の針は差していた。念のため、例のアフロオヤジがいるコンビニにも寄ったが、夜勤明けの店長は欠伸を噛み殺しながら首を捻った。
「金髪とチビなんて来てねぇぜ?」
気配さえ見つからず、一旦戻りはしたものの、二人が帰った様子はない。付近にはいない。公園も探した。商店街のガレージはまだ閉まってる。
透の脳裏に、昨晩のくりぼうが、鞄を後ろ手にした姿が蘇った。
(駅―!)
アパートの階段を駆け下りると、車が一台、正面の家宅の塀に沿って停まった。中流家庭の家屋には不釣り合いな、つやつやとした高級車だ。ヤクザの乗り物かと、傍を通り抜けるのを躊躇する感じだが、そんな事に気をとられている余裕はない。走り抜けようとしたその時、座席を降りた数人が透の前に壁を作った。
「―お迎えに上がりました、透様」
暑苦しくてこの上ないブラックスーツ姿のそいつらが、本家の使いの者だと気付くまで、数秒を費やした。脇をすり抜けようとする透の袖をとり、黒ずくめの男等はなおも立ちはだかる。
「本山にお戻りを、親族様のご命令です」
「―っざけんなっ!そこどけ!帰らないって言ってんだろ!」
透は怒りを露わにして声を張り上げた。ラズを行かせないって、フレイと約束した。俺が早く見つけてやらなきゃあいつが、くりぼうが、また泣くんだ。
「いいえ、お戻り頂きます」
決定事項を読み上げるように、一人が言った。
「小夜子様がお倒れになりました」