ままごとです。-30.2-


アシュリーが真梨江に同行し、ロンドンから西方の療養地に赴くとコーダが知ったのは、学期試験の嵐がようやく静まりかけた夏の午後だった。試験科目は、国語・歴史・数学・美術、情報処理・その他諸々。Aレベルは念頭に置いていないにしろ、義務教育終了時の全国共通試験であるGCSEを意識しなければならなかった。標準値を保っていけば主要科目に関せばBグレード、情報処理と専門科目の技術工学についてはAを狙える位置にいるコーダだが、テスト期間に入る一週間前は、同期と同じく図書館に籠もりっきりで目を血走らせていた。この世に助詞接助詞が存在するのを恨みながら、『国語とマナー』と題された分厚いテキストとにらめっこしてきたが、最大の難関であった口述試験も無事(?)突破出来た。見かねて勉強につき合ってくれた友人達には、大変に感謝しなければならない。
一足早く羽根を自由にした一人がコーダの襟首をつかまえ、サマーキャンプの話をふっかけてきた。毎年恒例だというキャンプのスケジュールを、用紙を指差して聞かす。
「暇だったら来いよな。ほら、申込書」
一家揃ってアウトドア派であるという彼の話が、どこまで誇張表現で造形されているかはともかく、煮詰めに煮詰めた頭のガス抜きするには調度良い。コーダは単純に目を輝かせ、日程表と申込書をありがたく鞄にしまった。
校門を出た所でお腹が鳴った。売店に寄ってフィッシュアンドチップスを買おうかと思ったが、今日の昼は家で食べると約束したのを思い出した。養母が知人を招いて、ちょっとしたホームパーティーをするのだそうだ。夕方からだが、飾り付けや盛りつけを手伝うことになってる。時計を見るとまだちょっと時間がある。勉強のために借りた本を返そうと、コーダは図書館に向かうバスに飛び乗った。
気を抜くと、こっくり船を漕ぎそうになり、頭がのけぞるのを精神力で何とか引き戻す―その間、単語や計算式でいっぱいになった頭の隅から、得体の知れない物が手足をにゅっと突き出して、物を言いたそうにしている。

―他にも大事な事があったんじゃないか?

そうだ。でも、何が不安なのか、自分でもよく分からない。カロリーを使い果たし、弛緩した頭は、心地よい眠りに落ちかけている。


ブルームズベリー通りに降りて、少し歩くと大英博物館がある。千万冊の蔵書を誇る図書館、キングス・ライブラリーは、数年前に博物館から独立し、ユーストン駅近くに建物を構えている。蔵書は千万冊を越え、シェイクスピアの初版本なども展示されているから観光客があとを経たない。どこの国からだろう団体旅行中の塊を横切って、コーダはそれよりさらに行った区立図書館に入った。博物館に比べたら飾り気のない設計だが、調べ物をするパソコンの台数に長けており、余計なサンプル図書が場所をとっていないから利用しやすいぞ、とは、これまたクラスメートの入れ知恵だ。
カウンターの女性に、身分証明書のカードと一緒に本を渡した。カード返してもらい、さあ帰ろうとしたその時。
「ばっか野郎!何で出せねぇんだ!」
何処かで聞いた、と思った次にはその男と目が合った。男は目が悪い人のように眉間を縮め、「あ!」と声を出す。
「お前、あん時の小僧!」
男は身を翻しかけたコーダの肩を掴んでカウンターまで引き戻し、ごろごろと猫なで声を発した。
「ほらほら、これ、俺の知り合いなんだ。ちょっと閲覧するだけなんだから、こいつのIDで通してくれよ」
明らかに縁など無いような二人を見比べ、職員は迷った顔付きをしていたが、館内での閲覧を条件に新聞を数紙出してくれた。えっへっへ、と男は古新聞を抱きしめてテーブルに座る。困ったのはコーダの方だ。
「おじさん、また新聞眺めてるの」
「おうよ。くくくくく」
可笑しそうに笑う。そういえばこの人、自称記者だったっけ。ブックメーカーに入りびだって全財産スリそうな人相ではあるが、頭の中で手足を動かしていたものに光があたる感触がした。カナリの事務所にメールを送って一ヶ月と少し経つ。返事はない。ジャンクメールに紛れて消されてしまったのだろうと思い、諦めていたところだった。
なら電話にしておけばよかったのだ。でも、しなかった。というより、出来なかった。何を聞きたかったのか、コーダはよく分かっていなかったから。何かがアシュリーにとって良くない。でも、何かって、何なんだろう。アシュリーが親に固執しすぎるとか、そういうのもあるけれど、この不安はもっと漠然としていて、形にすらなっていない。アシュリーの友人だと言った所で、それを証明する手だてがないのはメールも電話も同じだ。だが、詮索は相手に警戒心か無視をもたらす。自己主張の強い対話は避けるべきだと判断したが、メールを出した事自体正しかったのかどうか、コーダにはそれも分からない。だって、アシュリーに何か起こったなんてことは、耳にすらしていない。お兄さんだっていう人だって、本当の本当にただの留学なのだとすれば、メールを読んだとしても首をかしげただろう。そう思うと、全ては自分の思いこみで、物事は良い方に向かっているように思えてくる。
―なのにまたこれ。クロフォード氏の身辺を探っていたこの人。嫌でもハザーの名を思い出させる。
男は癖のように帽子を被り直し、にたにたとした笑みで新聞を捲る。
おじさん、とコーダは男の機嫌を損なわないように小声で話しかけた。
「それもこの前言ってた病院の記事?」
「ん?あぁあぁ、そうさ」
クロフォード氏が失踪したことを伝えたのよりかなり小さいスペースを、男は食い入るように覗き込んでいる。日付は最近のもので、アルデリー病院長が心不全のために緊急入院した、というような事が書いてある。何か分かったのなら教えてよ、とさも興味ありげにコーダが聞くと、男はいっそうにやにやとした。
「そうだなぁ、お前のおかげで何かと助かってるからなぁ、えっへへ」
「前置きはいいよ。で、」
「聞いたら目を剥くぞ。バーで口説いた女がよぅ、丁度アルデリーで看護婦をやってるって大ラッキーでさーあ」
内部の人間、と聞いてコーダは耳を立てた。秘密なんてのがあるのなら、これ以上ないポジションだ。
「毎晩聞こえるんだってよ」
「な、何が」
緊張の糸がピンと張りつめた―のだが、
「赤ん坊の泣き声」
「… … …はぁ?」
男は紙面の院長の名前を指で叩き付けると、自分の仮説には一寸の狂いもないというような目をして、自信満々に話し始めた。
「そもそも何でクロフォードの野郎がいなくなったのか、俺は看護婦に聞いて一発で分かったぜぇ。社長にはな、愛人がいたんだ」
「あ、愛人ん!?」
「馬鹿!大きな声を出すな。そうだ、ミストレス、ラ・マン。火遊び程度ならどこの誰もがだが、証券ってのは信用がものを言う世界なんだよ。パパラッチなんかにつかまったらある事無い事書かれて即日暴落ってのもあり得る。クロフォードのやつもそれぐらい分かって上手くやってただろうが、ひっひっ、まさかの爆弾が降って来たんだなぁ。子供腹んじまうなんてさぁ、そりゃ青ざめるってもんよ。経営の鬼の母上君、サリサ・ドロウも御健在だったからなぁ。だが、野郎は幸運だった。庭先に病院持ってんだから、堕ろさせるなんて、超、簡単なこって」
「…クロフォード氏の失踪の理由は?」
コーダの表情の移り変わりにてんで気付かない男はなおも続ける。
「そりゃ殺されたに決まってる!死なせたはずの赤ん坊がまだ生きてて復讐を企み…うん?いや、復讐するのは母親の方か?あ、おい。まだ見てるってのに!」
コーダは出してきたばかりの新聞をひっぺはがし、男が怒るのも背中にしてカウンターに返却した。何が聞けるかと思ったら、都市伝説もびっくりなB級ホラー。ビデオでそういう話なかっただろうか。表を歩きながら期待はずれの嘆息をついた。あの人が本物の記者になる事はないだろうなと、そう思って帰宅した。

スコーンとジャムを冷蔵庫から取り出していると、養母であるリリが、きれいにカラーした髪で帰ってきた。うっすらとほお紅をさして、いつもよりきれいに見える。
「お帰り、リリー」
「コーダ!今日は早いのね。テストはどうだったの」
「うん。何とかね。明日も午前中だけ」
「そう。じゃぁ、夕方の準備お願いね」
コーダの額にキスして、リリーはメニューに必要な材料をメモに書き出し始めた。たくさん来るといいわね、と心弾ましている。
「あなたのお友達も誘ったらどうかしら」
「アシュリーを?」
「お母様は外に出るのがおつらいでしょうけれど、その子だけでもどうかしら」
ハザーの事情は誰もが知る所。リリーとて例外ではないが、彼女はゴシップネタを毛嫌いしている。
「うーん。アシュリーの学校は試験にもの凄く厳しいから、期間中だったら駄目かも。あ、でも、電話してみる!」
「えぇ、そうなさい」
コーダはジャムを塗ったサンドイッチを片手に持ったまま、ダイニングを出る手前で爪先を止め、思い出したように振り返った。
「リリー、今日は誰か素敵な人が?」
リリーは茶色の丸い目をぱちぱちさせて、「何言ってるの!」と、頬を赤くした。コーダは笑って、サンドイッチを口に放り込んだ。
電話をかけると、ハロウ、と標準的な発音が聞こえた。執事さんだろう。
「すみません、僕、この前お世話になったコーダです。アシュリーはもう帰ってますか?」
『コーダ様?あぁ!ご友人の!』
「今日僕の家でパーティーをするので、誘いたいのですが」
『そうでいらっしゃいましたか。申し訳ないのですが―アシュリー様はここにいらっしゃいません』
「あ、まだ帰ってないんですね」
『いいえ、そうではなく、九月末までお戻りにならないのです。マリエ夫人に付き添って、西部の別荘においでになっております。コーダ様からお電話があったとお伝えする事は出来ますが、いかがいたしましょう』
義祖父ほどの年の人に、うやうやしい言葉遣いをされると、こっちが申し訳なくなってくる。
「いえ、それならいいんです。ありがとうございました」
リリーが台所から顔を出したので、誘えなかった事だけ告げてサンドイッチの皿を片付けた。椅子につり下げていた鞄を自室に持っていこうとして、サマーキャンプの申込書をもらったのを思い出した。一緒に行けたらいいなと片隅に思っていたから、ちょっと気を落としてしまう。良い友人は周りにいるし不足はないけど、アシュリーはやっぱり一番の友達だ。肩を落としているのを見て、リリーがさっきのお返しとばかりに「振られて残念!」と冷やかしてくる。今度はコーダが叫ばなければならなくなった。


* * *

白いシーツを掛けた丸テーブルが三つ。クリームチーズ添えのマフィンとラズベリーソース、若鶏を焼いたのと野菜サラダ、ヒラメのソテーなどが豪華に並ぶ。ディナー向けのメニューで盛りだくさんだ。
「あぁら!この子がコーダ?」
髪を銀に染めた女の人が、赤ワインの入ったグラスを片手に近づいてきた。口紅の色まで真っ赤だ。胸元の開いた紫のサテンのワンピースに、肉付きの良い肢体を包んでいる。
「ハイ、リリー。良いわね、可愛いじゃない。何歳?」
「今年で十四歳よ。コーダ、こちらはドロテア。服飾デザイナーなの」
「欲しい服があったら言ってね」
マスカラを塗った睫毛でウインクして、彼女は他のテーブルの輪の中に入ってお喋りを始めた。
パーティーは庭で開かれていた。夏の盛りを目前にして、近隣の公園では野外バーベキューで一足早く盛り上がる、そんな季節。温度はまだ低めだが、半袖一枚でも寒くはない。青く茂った木立が風にざわめくのを見ると、おぼつかない四季の移り変わりに目を凝らす事が出来る。いきなりの夕立が来なければいい。それだけが心配だった。
もうすぐ四十七歳の誕生日を迎えるリリーだが、今日のパーティーで注目を集めたのはコーダだった。いつかみんなに正式に紹介したいの、とは聞いていたが、顔ぶれと服装は皆十人十色で、話しかけられる度肩が飛び上がる思いだ。
「ドルトン社の製品は全て一流!卒業パーティーの制服は、ぜひお任せ下さい。どこよりも優雅なテイルコートを仕立てて見せますよ」
会社の営業課長だという面長の男性が、自社製品がいかに品質に優れているかを語り出したが、リリーが間髪入れずノーを挟んだ。
「衿に『値札』を付けて歩かせるなんてまっぴらだわ」
「リリー、ドルトンはアパレルでも好評頂いているよ?市民にもっと親しみやすくなるよう、幅を広げた努力は評価してくれてもいいんじゃないか」
「ええ、だから私はそれをバーゲンで買うの。どこよりもお安くね。それよりタイよ、素敵なのを見つけたいわ」
祖父の会社をあまり好いていない風のリリーと、うちの企業はロンドンでナンバーワンだと言って憚らないセールスマンは、そのうちコーダの事を忘れて価格競争について論じ合い始めた。テーブルには非常ボックスに入っているような小型のライトが灯り代わりに設置されており、参加者はそれを頼りに料理に手を伸ばし、また、お互いの顔を認知する。二人の論争に挟まれたくないコーダは、そろりそろりと後ずさりし、光の届きにくい庭端に移動した。
「あ、ごめんなさい」
とん、と膝の後ろに何かが当たって、誰かにぶつかったと思ったコーダは背後を振り返った。優しそうなコバルトブルーの眼が自分を見上げていた。リリーよりもっと年をとった、老齢の女性だった。
座っているのかと視線を下げた箇所には、二つの車輪があり、それが車椅子だと分かるまでには、さほど時間はとらなかった。こんばんは、と彼女は言った。
「今晩のお招き、どうもありがとう。今日は風がなくていいわね。料理が飛んでいってしまわなくて―ごめんなさいね、もっと顔を近づけてくれる?あなたがコーダかしら?」
「そうです。リリーのために今日はありがとうございます」
老女はにこにこと笑った。
「お母様の事をセカンドネームでお呼びになるのね」
「あ、変でしょうか」
「いいえ、呼びやすいのなら何よりよ。私はローラ・カテリナ。よろしくね。アシュリーという女の子は、今日は来ていないのかしら」
「知ってるんですか?アシュリーの事」
「えぇ、だってあなたが訊ねてきたのでしょう。お話したのはミス・リリーにだけれど」
手当たり次第に聞いてまわった中に、屋敷で働いていたという人がいたのを思い出す。
「!!じゃぁ、あなたが?」
「乳母をしていたのよ。天使の祝福を受けた、一人子の」
テーブルの賑やかな様相を遠巻きに見つめながら、老女は夜の空気を吸った。赤ん坊にするように、その手は膝かけのストールを撫でている。
「ラズリエル様がお生まれになった朝、マリエ様は白いベッドでお体をお休めになられていた。クロフォード様が融資の話合いのためにスイスに渡られていた間に陣痛が始まったものだから、私が病院に付き添ったの。お医者は難産になりそうだと言っていた。ウェインがクロフォード様に電話でそう伝えると、妻と子供のうち、どちらかでも奪われたなら、神を呪うとさえ仰ったそうよ。でも、そうはならなかった。天のお方はちゃんと良いようにしてくださった」
「その病院って―」
「もちろん、アルデリーよ」
クリスマスツリーを彩る豆電球が家の窓枠につり下げられて点滅している。赤に、青に、闇を彩り光り、そして消える。
「ラズリエル様のお誕生日には、使用人達も揃ってプレゼントを用意していて、私も小さな陶器のオルゴールを贈った事があったわ。マリエ様は手袋や洋服を御自分の手でお編みになって、腕に抱いて雨のようにキスを降らしてらした。あれは、夢のように素敵な思い出。異人を嫌ったサリサ様以外には、本当の本当に愛されていらした」
老女は膝をケープの上から撫でるようにさすった。
「彼は今、日本にいるらしいんです」
コーダが言うと、ローラは目の淵を広げ、そう、とまた伏せた。
「それが良いのかも知れないわね。クロフォード様の事は知っていて?」
コーダは頷く。
「ラズリエル様がお生まれになってから、お屋敷は毎日花に囲まれたような明るさだった。だけど私は、一度だけ、夜よりも暗いご子息の誕生日を見なければならなかった。ラズリエル様の五歳のお誕生日―クロフォード様が身を隠された年の翌年の事よ。温かい食事を御用意しても一口も手をお付けにならず、マリエ様はスープの皿に涙を落とし、その時だけは、幼いご子息様を椅子のお隣に、忘れたように置いていらっしゃった。不思議そうに首を傾げていたラズリエル様は、『お父様はまだお帰りにならないの』、とそう言って。それから一年もしないうちに私はお屋敷を離れたのだけれど。足に力が入らなくなって、眼もだんだんと弱ってしまって。あなたのお顔を見るのがやっとよ」
ローラはリリーのいるテーブルを向きながら、過去の楽しい思い出をそこに重ねているようだった。赤や紫のドレスを着た彼等とは別の姿、彼女が見ているそこには、先代やその夫人、親戚達が、優雅に語らいでいるのかもしれなかった。
「あなたは上手にやれている。取り入る、という意味ではなくてね。でも覚えておいて。愛は時に毒と同じ。流し込めば流し込むほど、相手を苦しめたり死に至らしめる事も出来る。クロフォード様に愛され、一人置き去りにされたマリエ夫人が、気も狂うほどにお嘆きになられたように。―お母様とあなたがそうはならないよう、祈っているわ」
人集りを縫って満遍なく話しかけ回るリリーが、ローラに手を振ってきた。ローラは目を凝らして、その姿が誰かを、朧な輪郭で認めて微笑み返した。
「さぁ、お戻りなさい。みんなあなたを待ってる」
背を押されたコーダは一歩を踏み出して立ち止まった。どことなく寂しい表情をして語る老女に、背を向け難く思ったのか。自分でも口が滑ったとしか思えない。
「アルデリー病院といえば、こんな噂知ってますか。夜中に赤ん坊の泣き声が聞こえるなんて、ホラーならぬホラ話」
予想通りローラは吹いた。B級だもの、仕方ない。笑わせる事が出来ただけでも良しとするべきだ。
「聞いた事がないわねぇ。あぁ、だけど―」
ローラはちょっと宙を見上げて話した。
「あんな事がもし何度もあるなら、そんなお話が一人歩きすることもあるのかもしれないわねぇ。可哀想だけれども」
「何かあったんですか」
「事件というものではないのよ。―本人にとっては大事件でしょうけれど。赤ん坊が突然調子を悪くしてしまう不幸は私も見たわ。あれは、そうね、マリエ様がご出産を終えてから何日もしない日。目を覚まされないマリエ様の代わりにラズリエル様のお姿を見るために、新生児室の前をよく通ったの。そしたら若い女性がいつも中を覗いていらした。話しかけてみたら、マリエ様と同日にご出産されたそうよ。赤ん坊が並んだ一番奥の列をガラス越しに指さして、『赤ん坊なんてみんな猿みたいね』とお笑いになって。少々品のない方だった。だけど彼女と話した翌日、私が同じように新生児室の前を行くと、その方が指さした辺りの赤ん坊のベッドが一つ空になっていた。看護師に聞いてもお互いに視線を逸らすばかり。多分駄目になってしまったのねぇ、女性の姿を見る事はもうなかったわ。どうかしら、噂の正体は大方こんな所じゃなくって?」
「…女性はどんな人でしたか」
「そうねぇ、―綺麗な金髪だった。黒目がちでコケティッシュ。美しさでは夫人に及ばないけれど、美人の部類だったのじゃないかしら。ほら、もう無駄話はやめましょう。リリーが呼んでる。早くお行きなさい」