ままごとです。-30.1-



みーんみんみんみんみん。
みーんみんみんみんみん…。



溶ける、と口にする事すら煩わしい。それほどに暑い。『暑い』んじゃなく『熱い』が正しい気がしてくる。
待ってくれ、ついこの間まで雨が降っていたじゃないか、と窓を振り返れば、かんかんに乾ききったてるてる坊主が、熱中症を起こしている。放っておいたらレンズ作用で燃えるかも知れない。台所から椅子を調達して、透は紐を四つ外した。
今年の夏は異常だ。梅雨明けしてから暫くは、まだ長袖でいいぐらいだったが、半袖一枚でもうとわしいほどの熱気が、寝るのも起きるのも阻害してもう八月。日射病で人が倒れた、なんてニュースを聞きながら、明日は我が身だと、ぎらつく太陽を憎々しげに見やるのだが、むろん、あちらさんは知らん顔だ。
「アイス、アイスあったよなぁ!」
とは、冷凍庫を開けるための言い訳か。一時凌ぎの癒しを受けて、閉めるとまた灼熱地獄。エアコンはあるものの、節約したいという捨て切れぬ性が、電源ボタンを押さずにいさせる。
「ど、ど"お"ぉ"ぉるーーー」
居間で変な声がする。この暑さでとうとう頭をやられたか、と思えば、ウ"ンウ"ン唸る扇風機を前に、くりぼうが髪を乱し放題にしている。『じゃりじゃり君』を二本取り出したうちの一本を渡してやり、透はシャツ一枚着た腹の辺りをパタパタ風通しした。氷のつぶつぶ触感がたまらないじゃりじゃり君だが、水色の本体がすごい勢いで溶けていく。くりぼうが、青くなった舌をうえーと出して見せた。
「あ"、つ"、い"ぃ"ぃ"ぃ"」
「耐えろ。心頭滅却すれば火もまた涼し」
「し"ん"と"?」
「思い込みが肝心てことだ」
悟ったように言うが、どんなにだまくらかしても気温は変わらない。透の額の汗が何より物語っている。くりぼうは棒から滑り落ちようとするアイスの欠片を慌てて口に放り込み、指を舐め取ってカレンダーを見た。
「ふれいは今度、長いねぇ」
「あぁ、二週間て言ってたからな。あと五日」
彼が鞄一つで、また家を出ていった日から指を折る。一体何の仕事なんだか。帰った直後のフレイはやたらテンション高くて、犠牲になるのは四分の三の確率で透だ。運良くくりぼうを差し出せても、ラズが帰宅してると眼(ガン)の飛ばし合いになり、どうして、やっぱり、透となる。「じゃぁ片方で良いよ」などというフレイの暴言に、沈黙して左右を見比べるラズもラズなのだが、真剣に熟考されても困ると言えば困る。考えすぎて石像になるラズが哀れになって、透が自ら人柱に志願するほどだから。だが、こなき爺のごとくべったりと張り付くのは、夏の間は勘弁してもらいたい。
「宝探し、見付かるといいね」
ふにゃらと笑うくりぼうは、前に風邪を引いた。頼めばラズが家に居てくれるだろうが、香鳴に甘え倒しになるのは悪い。フレイもここ最近落ち着かないし、夏休みで自由が利く透のがんばりどころである。
「プールでも行くか」
市営のが、バスでそう遠くない場所にある。八月いっぱい、無料公開してるはずだ。汗だくになってたくりぼうが、うん!と力強く頷いた。
よし、そうと決まれば、早速準備だ。タオルと着替えをビニールサックに詰め込み、通学鞄から小銭の入った財布を出して手に取った。
「っと、お前は縁で泳げよ。ビート板も使え」
「なんで?」
「お前じゃプールの底に足がつかねーの」
「!!!!」
驚愕は、まぁ、当たり前か。行こうとしてるのとはまた別の、去年くりぼうが嬉しそうに中ではしゃいでた園児用プールは浅いから、クロールや平泳ぎなんて出来るものではない。透が泳げば、打ち身・打撲する。爪先で塩素ボールを転して遊べないプールは、くりぼうにとって未知の領域なのだ。
「目ぇ届かないとこで遊ぶなよ」
「…とーる」
「あ?」
「言い方、ラズに似てきたね」
くりぼうは、たたっと物置に走っていった。

―何だか、何となく。これでもかと絶叫する蝉の鳴き声に耳を噛まれながら、上二人が「ああ」なったのが理解出来てしまう。親代わりなんてしたくもないんだけど、でも俺、ラズとフレイにそんな手かけさせてるか?
「水泳ズボン、どこー」
くりぼうの声が、窓を越えて元気良く響き渡った。



* 



「…何サボってんの」
黒のカーディガンを羽織った像が、冷ややかな視線で見下ろす。仰向けに片手を額に当て横たわるのは、缶詰状態一週間以上の探し物屋だ。晴れた色を瞼でもって二度三度開閉し、焦点を結び合わせた。
「バテたんです。北国育ちなので」
「冗談につき合ってる暇はないのよ。起きなさい」
冗談でも何でもないのだが、瑞恵は戯れ言程度にしか受け止めず、これまた黒いミュールでフレイの肩を小突いた。フレイは仕方なくと言った表情でタオルを額から外し、ゴムで束ねた後ろ髪を解いて直しにかかる。直射日光の当たらない林の奥は、高原のようにはいかないまでも、コンクリート熱の溜まる都心よりは温度が低い。だがフレイの浮かない顔は、それだけが原因ではない。
「そんなに血圧上げなくても、涼しいとこありますよ。クーラーボックス代わりにいかがです」
「そのクーラーボックスの整理はついたんでしょうね」
「あと三分の二ほど残ってます。上の―この階のは粗方終わりましたけど、そこにある山三つのうち一つは、まず修復不可能だと思います」
フレイが目で示したのは、部屋の二分の一を占める大群のキャンバス。瑞恵に調達させたアクリル板を絵と絵の間に挟み、応急的措置はしたが、油絵は温度と湿度に運命を託すと言っても過言ではない。この小屋自体は立地からして描くのにかなり良い条件を揃えているが、長く放っておかれすぎた。美術館と同じようにコントロール制御しろとは高望みだろうが、後で利用するつもりでいたなら、空調機器くらい取り付けるべきだったとフレイは思う。キャンバスの繊維は外伸びするのに、絵の具の方は時が経てば縮んでしまう。その結果、クラック―罅割れ―が生じる。亀裂だらけで見るも無惨になったキャンバスにシーツを掛ける行為は、死者の顔に布を被せるようなものだ。
「上の奴等はそんなに守銭奴なんですか」
「予算なんてどこもギリギリ勝負よ。…三分の一、きついわね」
「浦賀氏の名前を、どの程度利用するつもりかによります。無理だと思うのは僕の独断ですから、腕利きの修復師を雇ってみるのもいいでしょう。例え直せなくても、これ以上の破損を防ぐ努力は出来ます。でも、」
「その努力にも金がかかる―そう言いたいのでしょう」
フレイは頷き、立ち上がって残り二つの山のシーツを捲って見せた。
「こっちには、そちらのに比べたらまだ損傷が激しくない物がまとめてあります。地下に避難させようとも考えましたが、あっちの収量も並じゃない。良好な状態でオープンしたいなら、東京から応援を呼ぶべきです」
「描いた年代は分からない?」
瑞恵はガリッと音を立てて爪を噛む。
「それこそ瑞恵さん達の仕事でしょう。僕は一時画伯の家に住みついていただけで、鑑定の免許も知識もないんですから」
フレイの答えがまともだったのが気にくわないのか、瑞恵はファンデーションを塗った額に皺痕が残りそうなほど眉を歪めた。
「そう…そうね。なら、今からが本題よ。整理した中に『晩冬』はあったの?」
画伯の絵の状態が思ったよりも良くないと聞いて喚き散らしたいのを、その一枚に期待を寄せる事で耐えているとフレイにはそう思える。瑞恵が浦賀画伯のアトリエ公開の任務につく、それまでに、どれだけの時間と労力を費やしたか。ここで見付からなければ全てが報われない。それぐらい鬼気迫るものを感じるのに、フレイの返答は短かった。
「ありません」
「な…い?」
瑞恵の顔は、呆けているようであり、歪に笑っているようでもあり、形容しがたくその場に固定された。それが次の瞬間、唾を吐いてはじける。
「―ないわけないでしょう!他にアトリエがあるっていうの?あなた見たって言ってたじゃない。見たんでしょう!?」
「瑞恵さん、落ち着いて聞いて下さい。『整理した中に』はなかったと言ったんです。似た物は数枚ありましたが、季節と人物が入っている点で違います」
「じゃぁ、あとどれぐらい残ってるっていうの」
「それは先ほど言いました。地下倉庫に詰め込まれた、三分の二。見た感じ、スケッチを抜いたら一〇〇枚程度でしょうか」
「ひゃ…」
まだそんなにあるなら、と希望に目を光らせた瑞恵を見ながら、フレイには『それだけ』という思いの方が強い。瑞恵は定期的にやって来て一喜一憂するばかりだが、床板の一部を蓋にした階段を降りて懐中電灯で照らした時のフレイの気持ちときたら、本気の本気で、氏を恨んだ。

―さしずめモルグ。
ある物は描かれた途中、ある物は描かれた後に引き裂かれ。
折り重なり、潰れ、立て掛けられ、壁を成すかのようにひしめき合う『遺骸の家』。


連合はおろか同業者からも見下されるようになった理由がこれだ。積極・消極思考で二分されるだけならば、あの禍々しい色の虫やメリーゴーランドの悪魔さえ絵だと認められるだろう、この地下室を見た後ならば。
仄暗い、キャンバスに打ち付けられた虚無。赤も紫も黄色も、色が色である意味はない。描かれている。何が。それらはもう、描き手の中でのみ消費され、『誰かに』『何かを』気取られる存在ではない。見る者には伝わらない。優しいのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、憂いているのか、何一つ分からない。その感情がなんであれ―伝達不能となった絵師は、絵師ではないと、彼を蔑んだ人間達は宣言した。
「―瑞恵さん。今の内に聞いておきますが、『晩冬』が見付からなかった場合、折川はどうすると言っていますか」
「要約するならこうよ。『移動可能な物のみT美術館内倉庫へ搬入して手を引く。名前も遠く薄れた老人への施しはそれで十分だ』。そんな事したら絶対に許さない…あら、代表の名前、私言ったかしら」
「―以前僕が呼ばれた時、様子を見に来られたんですよ」
瑞恵は、あの人がねぇと意外そうにしたが、フレイは構わず次の話に移った。
「『晩冬』が見つかったら、手柄は彼の物になるんですか」
「そうでしょうね。私には嫌いな部類の人間だけど、経歴は認めざるを得ないわ。二十代半ばでサロン展受賞、名誉生としてフランス留学なんて、連合はさぞ鼻が高かったでしょうね」
「瑞恵さんの努力は」
瑞恵はふつと唇を閉じた。屋根を支える柱に手を置き、中を眺めるように見て言う。
「私の仕事はここを残す事よ。その一枚さえ見つかれば、他の事なんてどうでもいい。私は、あの人が何を考えて描いていたのかを知りたいだけ」
『晩冬』が発表されたのは、画伯の第二期。不能の時代に、たった一枚、彼を見捨てた者達をして息を呑ませたという。だからこそ瑞恵はこだわる。
「『晩冬』が発見されたら、T美術館で浦賀画伯の絵画展示を行う予定になってるわ。アトリエオープンの前広告として」
宣伝するのは「折川」の名前だろうに。フレイは、発見されたらね、と、瑞恵に聞こえない程度に小さく呟いた。落ちぶれた芸術家一人なぞ、彼にとっては何物でもない。見つからなければ、収入のない小屋一つ潰す、それだけのこと。きっと適切な経営処理をしたまでとのたまうだろう。どちらに転がろうと自分の不利益にはならないのを知った上で立ち回る、あいつらしいやり方だ。
「…彼は今も何か描くんですか」
瑞恵は片手を振った。
「さぁ。『太陽の時代』の印象が強すぎて他のは今一なのよねぇ、霞む、と言うか。あなたも見た事あるんじゃないかしら、向日葵のまばゆい金と、地を焦がすような青のコントラスト。留学を決定づけた代表作で、国外でも随分マスコミに取り上げられていたのよ」
フレイはタオルで首を掻き、窓辺に立った。雲の白さが目を刺して、蝉の声が僅かに遠のいた。そう言えばそんなふざけた名前だったと思いながら、空を宿した瞳を静かに伏す。知ってますよ、と。
「とても―よく知ってます」







「うぁぁぁあああ!!!!」
激しく水打って数秒後、黒髪が土左衛門の如く浮き上がってきた。透を突き落とした悪魔のような幼児は、プールサイドでビート板片手に大笑い。正体を明らかにするまでもなく、くりぼうである。ぷはっと水面に顔を出した透は、張り付いた髪を掻き分けるなり怒鳴りつけた。
「お前なぁっ!!」
「油断してるのが悪いんだよー」
背後からの奇襲に成功したくりぼうは、突き飛ばした透が思いの外遠くに大ジャンプしたのに喜んで、足をジャバジャバと水跳ねして遊んだ。透は飛沫を頭から浴びて、目も開けられやしない。(あぁ、もう勝手にしてろ!)と、面倒見るのもそこそこに泳ぎだした。
きゃあきゃあと甲高い声が響いている。プールを囲む緑のフェンスにタオルケットやらゴーグルやらの小物をが引っかけ、火傷しそうに暖まった地面を、水泳着の子供達が妙な足取りで走っていった。
太陽の黄色さときたら、そりゃ死人が出てもおかしくないと思えるほどぎらついている。後頭部にジリジリした熱を感じた透は水中に深く潜り込んだ。仰向けに体位を変えて上を見上げると、黄色いのは幾分白っぽく様相を変えたが、まともに目を合わせなどしたら、やっぱり無事で済まないなと思う。水面に体を浮かせ、瞼を閉じて漂っていると、やたら強い日差しが眼裏まで突いて、目を閉じている感じが全然しない。我慢していると緑や赤がチカチカし始めてうるさいので潜る。熱いのと冷たいのを繰り返す内に、監視員の持つ鐘が鳴った。
滴を垂れ流しながらサイドに上がると、くりぼうがとてとて走ってきた。ビート板使って50メートル泳げたらしい。今度ロケット砲のやり方教えてやるよと約束し、透はフェンスにかけたTシャツを被った。

帰りのバス。くりぼうは、次は真ん中まで行って泳ぐよ、と勇ましく語った。花火大会でしょう、でんでん太鼓でしょう、と先のイベントを余すことなく指折って数え、片手五本と左指二本曲げたところでぱっと顔を上げた。
「透!」
「何だ」
「来月の用事覚えてる?」
「何かあったっけ」
「わー、忘れてる。ひどいんだぁー」
ひどいと言うわりには嬉しそうに笑う。ふれいも覚えてるのになぁ、とは聞き捨てならないが、その名を聞いて、くりぼうの表情を改めて窺った。透よりも以前からそこに居た、彼等に向けた笑顔に、嘘はない。
「なぁ、あのナイフだけど」
「ふれいは無理かなぁ、料理。忙しそうだもんね」
「おい」
聞けって、と腰を浮かした直後、バスが急停止した。前の席の背もたれに顔をぶつけた透に、くりぼうは目を白黒させて大爆笑した。 馬鹿だねぇ、とーる。俺が悪いんじゃねぇよ。ねぇ、バス停あと幾つだっけ。三つじゃないか。近いなぁ。
二、三人が乗車して再出発した。発着時刻を標した停留所の看板を、くりぼうはバスが曲がり角に入って見えなくなるまで、首を捻ってずっと見ていた。あとちょっとで着くね、と、そう言った。