ままごとです。-3-


桜の下には死体が埋まっている。俺はその言葉が大嫌いだった。

「透さん―どこにおられるの」
小走りに駆ける足袋の音が遠のいていくと、庭に面した襖の奥で何やらもぞもぞ動きだした。押入の布団はすでに滅茶苦茶にかき乱されており、えんじ色の柔らかい羽毛布団と清潔なシーツが互いに絡まり合っている。通常、女中が見れば卒倒しそうな有様だが、幸いにしてまだ誰にも見つかってはいない。口うるさい叔母をまくのにこれ幸いと飛び込みはしたものの、ふわふわした足下は思いの外バランスがとりにくく、視界の悪さも気分のいいものではない。
敵は去った。もういいだろう。
そろりと指をのばし、隙間から零れる線状の光に向けた。しかし。
「!」
五本の指の爪先が、透のそれより早く戸を引いた。
「見つけた」
「沙耶―」
明らかに眉をひくつかせた透の両手を、白い腕が引っ張った。
「うわわわ、わわ」
重力に忠実なまでのカーブを描いた透ばかりか、支えになるつもりは毛頭ないというように、沙耶の方まで倒れてしまう。若草色の畳の上に、仰向けとうつ伏せの体が仲良く落ちていく。
どすん。
「いってぇ…」
寸座に角度をそらしたからいいものの、下手をしたら沙耶の喉元に肩がぶちあたっていたかもしれない。代わりに畳にぶつけた腕の根をさすり、透は一呼吸してむっくり起きあがった。
「馬鹿!危ねぇだろうが!」
自分と似た背丈の少年は、しかし瞬きもせず天井を見上げるだけだった。
「沙耶?」
「ねぇ、透」
少年はぽつりと言った。
「いつか、ここから出たいね」
「―」
自分の住んでいる場所が何処なのか。透はそれについて「東北の山の中」という答えしか知らない。ご機嫌伺いも見え見え、にゃあとしか鳴かない家庭教師が言うところでは、自分は「明治時代からここ一体の山林をとり仕切ってきた由緒あるお家柄に育った」のだそうだ。落ちぶれ華族の末裔だって、今時こんな時代錯誤な暮らしはしないと透は思う。人付き合いを嫌った祖父が学歴が高いだけの家庭教師なんてつけなかったなら、とっくの昔に山を下った村の学校に入っているはずだった。そこらの事情は沙耶も同じだが、彼の場合は生まれつきの喘息がたたっていた。
「安心しろよ。こんな所いつまでもいる気はさらさらねぇんだから。もう少し大きくなったらお前も下りればいいんだよ」
「でも透は『ほんけ』を継がなきゃならないって、僕の父さんが言っていた。おじいさまが世襲の式をすればここは透の物になる―何だか嫌な言い方だったよ」
「じじいたちが勝手に言ってるだけさ。山なんてうれしくも何ともない。欲しい奴がもっていきゃいいんだ。それより沙耶―」
心底どうでもいい口調で言い捨ててから、今度は透が沙耶の腕を引っ張った。
「何」
静かな足取りで廊下に出ると、透は自分の綿入れを沙耶に着せた。裸足のまま庭に下り、水取りの後ろから下駄を二足出してくる。
「おもてからじゃ行き先を聞かれてうるさいんだ。早く履け。抜け道がある」
慣れた調子で透が庭の隅を首で振って示す。石垣の一部が崩れ、子供が通れるくらいの穴ができていた。
「何処へ行くの」
木々の間を悠然とした足取りで透は歩いていく。溶けきっていない残り雪が行く手を阻むように地を濡らしているが、そんなものお構いなしだ。頭上には長い枝がはりめぐらされており、その根には若い芽が見えるものもあった。どんな種類か目を凝らすうちに、枝から雪をはたいて鳥が飛び去った。
時々透は後ろを振り返り、沙耶の姿を確かめた。
「つらくないか」
「ううん、大丈夫」
沙耶がそう答えると、透は安堵して歩き出す。

「―着いたぞ」
どこか誇らしげな響きを声に灯して、透の足がようやく止まった。頂上の屋敷からどれだけ歩いたろうそこは、陰鬱とした山の空気に到底そぐわない場所だった。不安を誘うような木の枝先は、畏怖するように皆一定の間隔をその樹から空けていた。大樹の根元を覆う桃の花びらと深緑の苔があまりに鮮やかで、沙耶は息を飲んだ。風が吹くと開けた空から強い陽光を滲ませて、自らの姿を隠すように花弁がこぼれ落ちる。幹の首根は高いところから二人を見下ろし、静かに呼吸しているようでもあった。
「すごい」
溜息と驚嘆の入り交じった声を沙耶が上げると、透は「だろ」と、鼻を擦り上げた。
「村に下りるのに別の道ないかと思ってぐるぐるしてるうちに見つけたんだ。一世紀物だぜ、きっと」
「ご神木のようだね、まるでずっと眠ってたみたいだ」
沙耶は頬を上気させ、地を埋める桃の洪水から両手一杯に掬い上げた。額の上まで掲げて勢いよく空に放つと、薄紅の欠片は軽やかに舞い、童女のように伸ばした沙耶の髪に、肩に、ひらひらと滑り降りた。それは目に暖かい「雪」だった。
「沙耶」
「うん?」
「きっと下りような。一緒に」
はたと、沙耶は花をかき集める手を止めた。霞むような微笑みを浮かべ、そしてこくりと頷いた。

*   *   *

「―泣いているの?」
遙か昔に呼ばれた意識が、声によって引き戻される。「彼」に似ている透きとおった瞳が、透を見上げていた。
「くりぼう―」
膝の上に乗っかって、語彙も揃わぬ弟分は確かに自分の頬につたう物の正体を言い当てた。触れなくても分かる。冷たいような、熱いような滴が顎を濡らしている。
「馬鹿野郎、あいつが切ってるのが目に痛いんだよ」
荒い動作で透は頬を擦り上げ、なあそれどうにかならないのかよと注文を付けた。
「あのねぇ、こういうのは切ってる本人が一番やなんだよ?」
包丁を右手にしながら振り返ったフレイの目元は、透以上に悲惨なもので、異常な速さでしばたかせる目が(文句言うなら代われ)と訴えている。換気扇の横窓にもう光はない。青く塗りたぐられた一面が、一日の終わりを告げていた。
「ほんとだ、なんか僕まで痛くなってきた」
「お前はにぶすぎんだよ」
なにおーと食いつくくりぼうの顔を平手で受け止め、いまだ姿の見えない主を思い出す。
「ラズは何時に帰んの?」
「ええと、時計見て。六時に終わるって言ってたから」
「んげ、もうすぐじゃん」
出しっぱなしのおもちゃを片づけろと言って、くりぼうの尻をけっ飛ばした。
「いったぁ。透のだっていっぱいあるじゃないか」
「残念。俺のは雑誌だけ」
ひょい、と科学誌を拾い上げ、まるめて自分の鞄につっこむ。
「ちゃんとしとかなきゃ、どやされるぞ」
「ラズはそんなことしないもんねー」
「香鳴がだよ。だいたいラズはお前に甘すぎ。お前がやらないとあいつの方が香鳴に叱られんだ」
「香鳴なんてやっつけてやる!」
何を勘違いしているのか意気込むくりぼう。
「あのー…、それ本人に言ったら泣くよ」
とフレイがつっこんだ。

コンコン。

三人の視線が一瞬交わり、フレイが玄関へ下りていく。ビニールのバットを振り回すくりぼうを横目に、今日も賑やかな夜になりそうだと透は思った。

『君は行って』
忘れ得ない「彼」の顔が閉じた目の奥にまだある。ゆっくりと瞼をあげ、透は膝を上げた。