ままごとです。-29-


少年は一人部屋にいた。刻の頃は昼過ぎ。冷えた外気は心地よく、季節の区切りを予感させた。
少年をここに連れてきた初老の男性は、紐を通した鍵を彼の手の平に握らせた。出るのも入るのも自由だと、そう言って少年の頭を一撫でした。「すまなかったなぁ」と、彼の目には懺悔が滲んでいた。
男性―香鳴だと自分で名乗っていた―は、少年を屋敷から取り出した人間であり、感謝こそされすれ、謝罪をする立場では決してなかった。それでも男性は二度三度、謝った。
言葉一つ返さない少年は、人目には可愛げなく映ったかもしれない。住む部屋を新しく与えられ、生まれ持った肌の白さもそのままに、人形のような外見で他に何を望むのだと。しかしそれは、身に降らないこそ言える卑下。
玩具屋に並ぶ着せ替え人形になりたい人間はいない。子供は遊ぶ。無邪気さ故に、服を破り、手足を折っても気にもしない。思い通りの姿に出来ることを喜び、壊れたことに一時悲しむが、店に行けば代わりは幾らでも陳列している。人形とはそういうものだ。
だが代替の効かない場合、あまりにも高価すぎるとか、それ一体しか存在しないという特別な事情を持つ場合、人形はその時点で飾り物以上の価値を持つ。趣向を凝らした着物を着せたくなるし、関節に綻びがないか念入りに調べるだろう。そうして自分の見立てに間違いがないことを確かめると、今度は維持に努めるようになる。どこに置こうか、いつでも見られる場所がいい。タンスは駄目、なら机の上は?―駄目だ駄目だ、ペンのインクで汚れてしまうかも知れない。埃を被るなんてもっての他。
持ち主はやがて条件を満たした入れ物を見付ける。服を乱さないよう入れてやり、あとは丁寧に蓋を閉めるだけだ。人形は透明な四方の壁に囲まれ、微笑みながら窒息する。

 少年は一人部屋にいた。着替え、食料、その他生活必需品は男性が購入してくれている。少々音は五月蠅いが、エアコンだって備わっているし、大家が好意でくれた座卓だってある。
少年はいる。だが気配はない。呼吸しているにも関わらず、彼は家電やテーブルと同じでしかない。何を見聞きしても、笑わないし怒らない。いや、見てもというのは正しくない。少年はこの部屋に入ってから、一歩たりとて外に出ることはなかったから。
鍵を渡された時、少年の耳は聞いていた。
「これからは自由にすりゃいい。行きたいところへ行って、帰ってきたい時に帰ればいい。だが、あんまり遅くなるようなら、俺に一本電話をしてくれると助かる」
そして聞く。
「すまなかったなぁ」
少年は特に反応しなかった。鍵を見つめ、窓際に寄って座った。

―それから何時間経っただろう。様子を見に来た香鳴は、ドアノブが引っかかり無く回るのを目にした。明かりは付いていないから、もう眠ったのかも知れない。飯は食ったか、布団は敷いただろうか。子供なんて持ったことがないから、どんな風に接すればいいのか分からない。どこまで世話を焼いていいものか、連れてきた本人でさえ分からず、しばしドアの前で自分がすべき行動を考えた。明確な回答が得られるはずもなかった。
子供の靴は、男性が出た時と寸部変わらず揃えられたままだった。来たばかりで疲れたのかもしれない。だが、鍵は掛けた方がいい。少年の眠りを妨げないように台所に回り、明かりの電源を入れた。ひやりとした空気が背を撫でた。風がどこからか入っている。寝室兼用の部屋、―物置と台所を合わせてこの一室には部屋が三つしかない―から、それはそよいできているようだった。
男は一瞬、掛ける言葉を失った。開いた窓のサッシに手をかけて直立する背中。おい、と声をかけるまで、それは振り返らなかった。慌てて少年の手を引き、雪を掴んだかのような冷たさに息を呑んだ。
「―お前、」
少年が膝を上げ、ここに立っていたのは一体いつからなのか。座り込むのに飽きた夕方か。それとも自分が出て行ってから直後なのか。男の額の小皺がさらに眉間に寄る。少年は一度だけそれを見上げて視線を逸らし、隣を横切って行った。『あなたには興味がない』と言われているように思えて、ますます少年との距離を測りかねた。室内は外気に晒されて、すっかり冷えているが、少年の姿がなくなって一層寒々しさを増している。窓を閉めるために手を掛け、自分を見下ろす物に気付く。低空にかかる金。細い光が胸に差し入るようで、感傷に取り込まれる。だが部屋いっぱいに鳴り響いた高音によって、それは直ちに断ち切られた。
硬質な何かが地面に落ちて砕けた―閉めようとしたこの窓のガラスが割れたら、多分似たような音がするんじゃないだろうか。だが月は裂けることなく、目の前で輝いている。台所と居間を仕切る磨りガラスにも、これといって異常はない。なら今の音はどこから鳴った。
空白となった香鳴の頭に電流が走った。冷えた畳を蹴り、少年の後を追った。寝室兼用の居間から台所を見て左手に、九十度の角を作って並ぶドアが二つある。玄関と真向かいになっているのがトイレ。台所と隣接するのが風呂場である。
恐らくはと思うドアを勢いに任せ押すと、そこに少年がいた。洗面台の吸水口付近に、大小様々な形をした鏡が散らばっていた。平べったい鉱石のようだが、表面は銀盤の輝きを放っている。少年は落ちずに壁に引っかかっている残りの中に、自分の姿を覗き見るかのように立っていた。甲から肘を伝って、血がぽたりぽたりと滴り落ちている。香鳴は文字通り血相を変え、彼を台から引き離しにかかった。
肩を掴まれてさすがに痛みを覚えたのか、少年は唇を噛みしめたが、物言わず香鳴の方に向き直った。香鳴がその手首をとって怪我の具合を確かめる。幾筋もの傷跡が走ってはいるが、破片は入っていなさそうだった。不幸中の幸いと言うべきか。軽く洗い流してから、水滴を赤く染め上げて滲み出る血を、タオルでふき取ってやった。
「―なんで割った」
子供が答えをくれるとは思わなかったが、聞くのは当然だった。冷えた外気に当たり続ければ体調を崩しかねないし、鏡を手で割れば痛い。少年はそんなことすら学習せずに生きてきてしまったのか。他でもない、男自身の身内の手によって。
「…あれは、誰…」
少年は自分の傷口ではなく、つぎはぎの像を映し出す鏡を見ていた。
「あれは、僕」
生気の無かった少年の目が、徐々に見開かれていく。男性にも分かるほどに、歪みが彼の顔面を支配し、臓の底から声を押し上げさせた。薄い瞼が痙攣し、睫毛が小刻みに揺れ始める。
「あれは僕。僕は僕。誰?ラズ、ラズリエ、マリエ、どこに行くの。行かないで、―行かないで!」
「おい、何を言ってる!?」
蒼白になっていく顔で、口をいっぱいに開いて母を呼び、少年は香鳴の腕をはね除けた。鋭く尖った破片を手に握ると、同様の形相で対面する、輪郭の繋がらない自分に向かって振り落とした。








…サアアアア…。


真夜中なのだろうか。砂嵐が聞こえる。放送時間を切らしたテレビのあれだ。意識が浅瀬に座礁するに近づくにつれ、ぽたり、ぽちゃんと、砂嵐には似つかわしくない音の比重の方が大きくなった。うっすら開いた視界に窓が映る。陽光を浴びた細雨。全身を打たれても痛くないだろう、柔らかな雨だった。
身を起こした青年は、肩からずり下がった毛布を寝覚めの表情で見つめ、まだ眠る二人の子に目を移した。加減を見ようと伸ばした指先を、寝返りをうたれてちょっと止める。頭の横に投げ出した小さな手の平には、氷の溶けきった袋の口が引っかかっていた。
難しい顔をしていたのが和らいだので、額に手を当てて確かめてみた。―微熱。頬は氷のおかげで少し冷えているほどだ。
首下をタオルで拭ってやり、布団越しにもう一人を見やる。うつ伏せに寝ていた透は、シーツを胸元に掻き集めるようにして丸まっている。何だかんだ言って心配なのだろう。
羽織っていた毛布を透に掛けてやるうちに、それを出した覚えがないのに思い当たった。一つぽつんと離れた陰が、台所のテーブルの上に両の腕を組み重ね、体を前向きに折っている。その手元にメモ用紙が一枚。『香鳴さんが帰って来てたよ』。
「―。」
自分の上着を取ってフレイの肩にかけ、家を出た。


雨は陽に溶けるほどにささやかに、降りは消え、消えては降り。長くはない散歩に傘は不要だった。雨宿りから走り出した猫を脇道に見とめながらアスファルトを歩く。
団地を抜けると風の当たりが強くなった。吹き上げられるであっただろう髪は、ここに来るまでに少しばかり濡れてしまい、先半分のみが微弱に揺らいでいる。なだらかな傾斜の芝生を、水音のする方へ行った。
逆を降りる斜面はコンクリートで固められていた。さほど増水していない川がその下にあり、岩にあたり砕けた流れが、そこかしこで泡となるのを見た。腎部に震動を感じ取り、手を宛った。
「―はい」
『俺だ、香鳴だ』
連絡用のホワイトボードに書き置きした、新しい番号を見たようだった。
『二、三時間前に片割れと茶を飲んだ。どうだ、元気か』
「変わりない。そっちは」
『そうだなぁ―ちょいと疲れたか』
自嘲気味に短く笑うと、香鳴の声音が変わった。
『お前、明日こっち来るか』
「アニーが何か連絡を?」
「いや、それも後で話さなきゃならんと思っていたが、これとは別だ。お前コーダなんて名前の知ってるか。溜まってたゴミメールに紛れ込んでたんだが、アシュリーの友人だと名乗ってる。お前の名前が件名に入ってなかったら危うく消去するところだったが、まぁ、書いてあるまま読み上げるぞ」


ミスター・カナリ、そしてラズリエル・ハザーに 

突然のメールで驚かれているかと思います。僕はコーダ・ディエント・ドルトンと言います。アシュリー・グレイスの友人で、同じ孤児院の出身です。アシュリーの名前は、カナリも聞いていると思います。そしてあなたの甥である、ラズリエル・ハザーも僕達の声を聞いた事があります。
もうご存じだろうと思いますが、昨年一月、アシュリーはハザー家に養子に迎えられました。現在代理当主となっておられるマリエ夫人に、いたく気に入られたそうです。僕はこの間、アシュリーの家に遊びに行きました。夫人はとてもきれいな人で、屋敷の内部はどこも隅々まで配慮が行き渡り、使用人の方も親切でした。ただ、二つある客室廊下の片方、玄関から見て左側へずっと入った奥。あれは何なのでしょうか。段ボール箱が沢山あったけれど、つまずいて開いてしまった中には何も、何も入っていませんでした。いえ―正確に記すべきでしょう。中身はありました。それは洋服の採寸に使用するようなマネキンです。もう何年も前の型のようでしたが、それが幾つかのパーツに分けられて入っていました。他の箱は見ていませんが、ともかくそんな物で廊下が埋められていました。そして蝶の絵が壁に掛かった突き当たり。僕が歩けたのはそこまでです。
アシュリーは何が何でも、ハザーにとどまるつもりです。元の生活が苦しかったのもあるだろうけれど、彼女が欲しいのはお母さんなんです。僕はアシュリーに幸せになって欲しい。でもやり方を間違っては、彼女が苦しむだけです。
僕はアシュリーに頼まれて、ハザーのここ最近の記事を集めました。クロフォード氏が失踪した事、それによってマリエ夫人が精神を煩ってしまった事。ご子息であられるラズリエル・ハザーが日本で暮らしている事。これは言うととても失礼だと思いますが、あの家は変です。執事さんも他の皆さんもいい人ですが、何か隠しているようです。それが何か分からないけれど、分からなければ、アシュリーはもっと追いつめられるような気がしてなりません。ラズリエル・ハザーは何か知っておられるのでしょうか。お気を悪くさせてしまったら申し訳ないです。ラズリエルに僕が連絡を取りたがっているとお伝え下さい。僕の家の住所と、電話番号を載せておきます…


『―だとさ、長電話するより直に見た方がいい』
「廊下のそれは、」
『文面から察するにあの部屋を封印したらしいな。蝶の絵ってのは俺は見てない。お前は』
「俺も見ていない。部屋から出た後にも、覚えがない」
『じゃぁ新しく飾ったんだな、はん。しかし妙だな。段ボール箱って何だ。そんな野暮ったい物何日も晒したい性格じゃないだろうに』
「足場をとりあげた…?」
『悟られないように、か。それならそれで、もっと上手いやり方があるだろう。現にこの坊主、箱の間を縫って赤の間の真上を踏んでやがってんだから。どうする。この際、先の先まで考えるなんて七面倒くさいことやめて教えやろうか』
沈黙を非と取った香鳴が息を吐いた。
『坊よ。あれは、まだお前にとって母親か?』
守らなければならないものが多すぎる。母と、父と、ハザーの家名。顔も見ぬ義妹。だが香鳴は思う。それだけ沢山の物に囲まれ、一つ一つに価値があるとしても、選ぶのは我が侭か。
『俺は、行くなとは言わない。行ってさっさと捨てて来い。煩わしいのも五月蠅いのも全部、全部だ。そんでケリが付いたら―戻って来て、あいつらと一緒にいてやれ』
「―。」
『明日は勝手に入ってくれればいい。切るぞ』
「香鳴、」
『あ?』
川の上空を鳥の編隊が飛んでいく。薄暗い陰が顔を通り過ぎ、一陣の風が足下をさらった。
「―いや。明日は朝に行く―それじゃ」
追い風を受けて流れる雲が、空の金光を遮った。川辺に降り立つ階段を草むらに見止めたラズは、白く冷めた顔に風を受け止めながら降りていく。透明な水面に目鼻がぶれた顔が映った。彼は動かない。雨粒が一つ、額を濡らした。