ままごとです。-28-



夜を越す事象とは、どのように始まり、終わるのか。
零と十二の狭間を一つの単位にして生き続けても、一秒二秒を踏み出した先で世界が変わる事はない。そこに昼を顕さない十三の数字がない限り、単位より逃れられはしないからだ。円上を走り続けるその行為を、どうすれば気が狂わずにやり過ごせるのか。答えはとても簡単だった。

―はい、はい、男の子です。
―母親は意識が昏倒しています。いえ、命に別状はありません。ただ、いつ目を覚ますのかが。
―クロフォード。見ろ、お前の子だ。

あの日、世界は十三番目の時を得た。灰色だった庭に一斉に花が芽吹き、匂い立つブーケを胸に芝生の柔らかさを足の裏にした。白いシャツ、腕に高く掲げられたあの子。愛するあなた、どうぞ名前を呼んで下さい。お腹を撫でて、生まれる前から決めていた。私があの子にあげた、私の半身である印を、どうぞ、どうか。


「…お話は、とても単純ですのよ」
薄く微笑む夫人を正面に、男は声一つ荒げられずにいた。夫人の座る椅子の背後に、もう一つ陰がある。視力の弱った勤勉な老人は、護衛と言うより証人としてこの場にいるのか。男には測りかねた。
「お言葉の真意が理解出来かねます」
真意、と夫人は紅色の唇を小さく動かした。くすくすと、白い手を口元に当て、狼狽を隠そうと拳を握り締める男性に漆黒色の目を向けた。
「私は簡単な事しか申し上げませんでしたわ」
「しかし、」
「院長のご病気はもう末期に近いとか。奥様より電話をお受けしました。経営は私が思うよりもずっと複雑なんですのね、ミスター・ヘイリー」
夫人が執事より受け取った物に、男の喉が鳴った。手の平に納まるほどの小型の冊子―。
「…知っておいででしたか」
男の呻きを、夫人はしかし聞かなかった風に流す。
「少しを待って頂きたい。それだけですわ」
「ですが、あれではもう幾月も隠しきれない。箱を並べ、足場をなくした程度では、子供だましもいいところではありませんか。私が話さなくとも、いつか気付かれます」
男は天井に目を上げた。買い物帰りで疲れたあの少女は、今夜は深く眠っているだろうか。気丈の様でいて、実は脆いのではないかと思わせるバラ園の前の一言を、男は忘れていない。地下室を目にしただけでは、驚くだけで出ていこうとは思わないだろう。だがラズのように特別に?この家の特別な子供になりたいと願うなら、そこで何が起きたのか知らなければならない。知ってなお留まるというならそれもいい。だが見張り役である相談員にそれが洩れたなら、少女は保護という名の下に引き戻される。真梨江は本来、養子先には適さない病を抱えているのだから。
手に入れた娘を手放したくないための取引だと男がとったからこそ、夫人が次に出した言葉の意味を掴み損ねた。
「それが望みですもの」
「―何と」
思い違いなさらないでね。夫人は微笑みを絶やさぬまま語りかけた。
「私も待っていますのよ。『いつか』という日を、楽しみにしておりますの。でもそれはまだ先の事、遠すぎるのでもなく、近すぎることもない。あの子を失った日から、私はそれだけを考えてきましたの。相応しい時を用意する喜びを、母から取り上げないでやって下さい」
「マリエ―あなたは本当に―」
木々を抱きすくめた濃い闇が屋敷の隅々を舐め尽くし、暖炉の明かりが灯るこの部屋の一角さえ浸食しようとしている。夫人の濡れた唇は、男を拐かすためではなく、最後の一綴りを発すために動いた。
「あの子を愛す。それだけが、揺るぎない真実」


* * *


その日の気温、予定、思っている事が、後になって「あの日はああだった」と過去を振り返らせる要素となるならば、三週間降り続いたじとじと雨は、日記に空白を設けるのに十分な要因だった。芒種の時期は雨音と共にだらだらと過ぎて行き、月半ばにさしかかった現在、フレイが仕事で姿を消す他に特別な事があったかと頭をひねれば、ああそうか、くりぼうの背が一センチ伸びたっけ、と、そんな事しか思い出せない。(そんな事と聞いたらくりぼうは怒るだろうが)
カレンダーを見るに、地元の花火祭りやらはまだもう二月向こう。来るべきイベントをおそらく一番待ち遠しくしていた末っ子は、こほこほ咳して早めの夏風邪にかかっていた。
「年明けに僕はひいてるから、くりぼうの次は透かラズかなー」
体温計の数字を見て、フレイはくりぼうの額に手を当てた。
「何度」
「37.8度」
どっちつかずなところが、実は一番苦しいと透は知っている。氷入りのポリ袋の口を縛ったのを作ってやると、くりぼうはそれを頬に当て、浅い呼吸の合間に何やらうにゃうにゃと口を動かした。ありがと、とか、多分そう。達の悪いのにかかったらしく、今日で三日目だ。市販の薬を飲ませているが治りが悪い。明日も熱がひかなかったら病院直行だよと言い渡したフレイを、くりぼうは泣く一歩手前の目で見上げた。
「うん、だからよく寝るんだよ」
「てるてるぼうず…」
「うん?」
「外しちゃ駄目だよ…」
透とフレイが顔を見合わせる間に、くりぼうはすうっと眠りに入った。
屋根と地面を叩き付ける音が強くなればなるほど、病人を寝かし付けた室内は小声になっていく。
「俺看てるから、用事あるなら済ませろよ」
「透、学校は」
「半ドン」
弟が熱出して世話する人がいないから、と言って早く帰らせてもらったのが本当だけれど。フレイは「うーん」と何か言いたそうにしていたが、聞かれた中身は透が予期しないことだった。
「透は何になりたい?」
風邪薬を薬箱に収めながら、そんな事を言う。
「…あれに何か言われたのか?」
「あれって何」
「国語の、前に会ったろ」
「あー…、あれねぇ」
代名詞でスルーされようとしているのは、フレイを奥さん呼ばわりした文系(体育会系?)教師だ。彼にも谷山明(たにやまあかり)というれっきとした名前があるのだが、どうにも音の響きが可愛らしすぎて呼ぶ気にならない。同期の間では「谷」といえば通じる。
「あれは関係ないよ」
「フレイ…、谷の名前覚えてないんじゃ」
「え、覚えてるよ?谷だよね、谷谷」
透は心の中でひっそりと呟いた。谷山先生、すみません。あなたが密かに熱を上げているこいつは、あなたの名前すら覚えていません。さらに申し訳ない事に男です。この二点ですでに救われない領域に足を踏み込んでいるというのに、谷は何を勘違いしたのか、フレイと透を、養子縁組した母子家庭だと思いこんでいる節がある。入学時に提出した書類の保護者欄に小夜子の名前を書いて持っていったのだが、その時の付き添いがフレイだった。山頂に佇む本家までは、バスと電車で一日半かかる。わざわざ来なくていいと、代理のつもりで連れて行ったのに、何をどう間違えてこうなったのか。面接官は谷ではなかったから、廊下ですれ違いでもして見かけていたのだろうか。以来、谷氏の中では不遇の子供を引き取って世話する甲斐甲斐しい母親像が、すくすくと育っている。真剣な眼差しで「奥さん」と言ってフレイの手を取った時、悪心起こして黙認などせずに、ちゃんと説明してあげた方が親切だったかもしれないなと、最近溜息の多いイノシシ教師の様子を見ないふりしながら、透は思うのだった。
「…谷山だって。フレイ、今度行った時さ、ちゃんと名乗って自己紹介した方がいいぜ」
「そう?じゃぁラズも一緒に連れていこうか」
余計話がこじれる気がする。透は想像するに恐ろしいその状況を思考の隅に追いやり、脱線しかけた話を中央に据え直した。なりたいもの、なりたいもの…。
「くりぼうには聞いたのか?」
フレイはちょっと笑って教えてくれた。
「ラズだって。大きいから。二番目がガバレンジャーの青」
ガバレンジャーより上だっていうのは誇っていいぞ、ラズ。参考にならないまでも、あいつならそう言うだろうなという解答を得られて透は納得する。だが自分は、自分の事はさっぱりだ。
分かんねぇ、としばらく悩んで降参した。
「だろうとは思ったけど」
「なんだそれ」
「透は透がしたい事をすればいいって、それだけ。小夜子さんが心配してたから、ちょっと聞いてみた」
「…電話あったの」
「うん、昨日透が学校行ってる間にね」
透は眠っているくりぼうを眺めた。暑すぎないように、だが寝冷えはしないよう、タオル生地のブランケットを掛け布団の下にしている。
小夜子は―戻って欲しいとは一言も言わない。沙耶の事があってからはむしろ、透の前で緋ノ原の名を極力出さないようにしてくれている。桜の木の下で、冷たく突き放したあの時も、叔母の応対はとても大人だったのだと今では思う。だがそれでも、それでも、あの家には二度と帰らない、帰りたくないと思う。風習に則って、段高く飾られて過ごす日々は苦痛しかもたらさない。沙耶がいたなら、僅かでも自分の存在意義を見いだせただろう。でも沙耶はいない。守る物がもう、あの場所にはない。
「小夜子さんは透の事大事にしてるよ。それは分かってあげてね」
遠慮がちにそう言って、フレイは台所へ引っ込んだ。
雨音が鳴り止まない。遊園地で効能を発揮した手製のてるてる坊主を、ガラス越しの滴が何度も打ち付けようとしている。室内だから濡れはしていないのに、四つあるその背はとても寒そうに見えた。
「なぁ、」
ナイフの事を先延ばしにしてるのは自分の狡さに他ならないが、今の流れで聞かなければならないのはそれでないような気がして、透は訊ねた。
「フレイにもなりたいものがある?」
片付け物していたフレイの手が止まった。うん、と彼は背中を向けたまま頷いた。
「あるよ。今も昔もずっと、そればかりになりたがってる」
「他では駄目?絶対に?」
「―うん、ごめんね」
そしてフレイは振り返り、いつも通りのへらっとした笑みを浮かべ、ちょっと買い物に行ってくると出ていった。頭に浮かべられもしなかった自分に比べ、絶対と言えるまでに、それほどまでになりたいと思える物が、彼にはあるのだという。透は畳にだらしなく放り出していた両の足を揃えた。
変えられないことのごめんなのか、教えられなくてごめんなのか。
謝る理由が分からなくて、透はくりぼうの隣に並ぶようにして横になった。




安物のビニール傘は役に立たないなと、階段を降りる時にはもう思った。霧で白んだ通りに目を凝らすと、見覚えのある大ぶりの傘を差しているのが一名。仕立てのいいレインコートの裾がすっかり濡れてしまっている。
「お早いお帰りで」
「噛みつくな。俺だって今戻ったばっかしなんだ、年寄りには優しくするのが若者の務めだろう」
「じゃあ、せいぜい僕を手厚く扱って下さい。遅すぎなんだ」
早いテンポで階段を降りてくるフレイを、香鳴は怒ることなく待つ。誤魔化す事に長けているこいつが、思ったままを口にする時は大抵、機嫌が悪いか落ち込んでいるかのどちらかだ。終了時刻のない話を表で真面目に話し出すのは馬鹿のする事。雨避けに香鳴が誘ったのは、駅前に出る道沿いの喫茶店だった。
「それで。進展のほどは」
注文を取った店員が離れると、フレイは開口一番直球を投げつけた。コートを脱いだ香鳴はタイを弛めて一息付き、準備を整える。
「ここ二ヶ月ほど音沙汰無しだったのは俺が悪い。謝る。だがそれ以外であたるのはよせ。話すものも時間も減る」
「あたってなんか、」
強かった口調はゆるりと語尾を落とし、唇を噛む事で切り替わった。
「―そう、多分そうだ。ごめん」
「あいつの動きが分からなくなったか」
「何考えてるのかもね」
香鳴は、やっぱり連絡なしってのが悪かったなと、先に謝ってから話し始めた。苛つくのは長雨ばかりのせいではない。腹の探り合いしている相方が、駒一つ奪って先にあがろうとするからだ。
きつく口を結んで外を眺めている間に、ホットティーが二つ、テーブルに運ばれてきた。香鳴はカップに乗った半月型のレモンをスプーンで中に落とし、ぎゅっと潰してから湯飲みのごとく啜る。
「お前、何か用事でもあるのか」
「夜の総菜が足りなくて買い物に行くところ」
「そうじゃなくて」
訊き方を誤ったという目をして、香鳴は眉間を掻いた。どう言ったらいいものか思案しているようだ。
「おめぇが苛々してるのがな、余裕のないように見えるもんだから。俺が台所でくっちゃべっていた間も不貞不貞しくも場に居直ってた奴が、ラズの動向が分からなくなったからと言って、そう簡単に動じるとは思わん。坊のことについては俺の姉がそもそもの元凶だ。血の繋がりがある以上、何があっても一蓮托生でいるつもりでいる。だが、お前はお前のやる事があってこの国に来たんだろう。その邪魔になりゃしないかってのを、俺は思ってる」
湯気が舞い上がって、フレイの額を擦った。暖かいその蒸気のせいで、香鳴からはフレイの表情が見えにくい。カップの底を覗くように下向きに落とされた青年の瞼が、垂れた前髪の内側で震えたが、急所を突いた本人はそれに気付かない。店内にテレビはなく、店主が大事にしていると思しき、旧型のラジオがチューナーを合わせてカウンターに置いてある。リクエストハガキを読み上げるDJの陽気な声が、会話を切らした客の心をやんわり解きほぐしてくれる。
―あっはは!なっちゃん笑いすぎ。苦しくて喋れない?あはは、聞いている皆さんごめんなさい。ほら次、次いこ。忘れられない歌、vol4。中学三年生、わぁ受験生じゃん!読ませて頂きます、ありがとー。ええっと、『音楽に疎い僕ですが、父が集めているバンドの歌で歌詞が忘れられないのがあります。彼等の曲は突き詰めて行き過ぎるところがあるけれど、最後のアルバムに収められたこの歌は、区切りの前に立つ僕には何処か懐かしく、小さい頃を思い出させます』。素敵なコメントだね。なっちゃん、ほら、用意いい?じゃ、いってみよー。曲はQUEEN、『These Are The Days Of Our Lives 』―。


旋律を耳にしたフレイの瞳に、空の、ひまわりの、青と黄金の情景が蘇る。強すぎる風も雨もない、高い雲。走り出す人。



Sometimes I get to feelin'
I was back in the old days - long ago

When we were kids when we were young
Thing seemed so perfect - you know

The days were endless we were crazy we were young
The sun was always shinin' - we just lived for fun

Sometimes it seems like lately - I just don't know
The rest of my life's been - just a show

Those were the days of our lives
The bad things in life were so few

Those days are all gone now but one thing is true
When I look and I find I still love you…



自分でも気付かないうちに歌に合わせていたのを、香鳴は黙って聴いていた。半ばまで歌い終えた最後に、「気に入りか」の一言だけ。フレイはテーブルに突っ伏すように腰を折り、ラジオのある方に顔を向けた。
「フレディーが最愛の人に贈ったメッセージだって。同性愛を嫌って聴かない人もいるけど、僕はこの歌詞好きなんだ」

―遠い、遠い昔、幼い頃。世界は完全だった。

「僕はラズが好きだよ。透が好き、くりぼうが好き。同情や憐憫だと言われても、楽しかったもの」
「…阿呆が」
香鳴の顔が、顎に皺を刻んだ。
「過去形にすんなぁ」
「―うん」
いざという時には、透には小夜子さんがついている。大人になるまで面倒を見てくれるだろう。でもくりぼうはまだ幼い。置き去りにされたというあの子は、必要な人を二度も失うのにきっと耐えられない。厄介なのはあいつだ。無表情なくせに、振り上げた凶器を前に一瞬、待っていたような眼をした彼。
「僕は大丈夫。言っただろう、ラズには借りがあるって」
「お前、いつでも反故にするみたいな事言ってなかったか」
「こっちにも事情というものがあるんです」
香鳴は響きよく笑った。フレイはむくれた顔をして思う。これでも僕は、あなたにも一応感謝しているんですよ?絶対口にしないけど。
「小雨だな」と香鳴が言ったのに合わせ、ブラインドのスラットの間から外を窺った。傘を叩き折る勢いだった雨が、水溜まりの波紋をゆったり観察出来るほどには弱まっている。
「俺は一旦家に戻るが、坊は今日もこっちか」
「朝出掛けて行ったきりだから、多分そう」
「俺が言っても説得力に欠けるが、…根詰めるなと言ってやってくれ」
伝票を手に立ち上がった彼を、フレイは額を傾げて見た。香鳴はフレイがしようとしている事を知らない。投げかけたとして返ってくるものは、ラズの状況に内して想される。―当たり前か。
備え付けのミルクスジャータを一つ開け、カップに注ぎ込んだ。飲むにはちょうど良い具合に冷めていた。


「ただいまー…」
部屋の中に灯りが一つ。
「透ー、いるー?」
声をかけたが返事はない。買い物袋を手にしたまま、くりぼうが寝ている部屋に歩いた。
「―。」
静かだった。そりゃそうだ。でもさぁ、ラズ。これは僕に笑えと言いたいの。
真ん中に、布団で眠る小さい子。その左にはシーツを掛けられた透。川の字の三画目に近寄ると、髪が少しばかり濡れていた。出掛けに着ていったジーンズとセーターの格好のまま、白い瞼を閉じている。
「風邪引くよ」
香鳴にはああ言ったのに入れ違いだ。透が電話したのかも知れない。袋を脇に置いて、無防備に眠る青年の鼻筋に指をついと走らせたが反応無し。すぐ隣にあるくりぼうの額に軽く触れてみた。熱は下がった気がする、あとは汗をうんとかけばいい。
自分が寝るには一画多く、傍らに足をおって、仲良く眠る三人を暫く眺めていた。父と母に挟まれて寝た随分昔の記憶が、様子の何もかもが異なるこの部屋に重なる。リーナは『ずるい!』と布団の端を引っ張っていたっけ。母の髪を結って遊ぶ彼女は、とても幸せそうだった。
『パパもママも大好きだから、どっちもとっちゃ駄目なの!』
『じゃぁパパとママ、どちらかしか選べなかったら?』
母が意地悪してリーナに言うと、リーナはうーっと泣き出しかけ、父の首にしがみついた。

二番三番は、いくつあったっていい。でも一番は一つ。困るのも悩むのも御免被るなら、一番が二つも三つもあってはならない。
「強欲だよねぇ…」
香鳴に聞いてたらなんて言っただろう。 ―雨が降る。