ままごとです。-27-



5月26日 

件名: エバ・リーン。

録音時間:ファイルナンバー1、25分。ファイルナンバー2、18分。今日までのヒアリングはそれぞれ二回。本日三度目となる。

『… …ええ、ええ、そうです。私がリンド・キャルロス。彼女の面接に応対しました。顔を会わせた時の印象は―本当の事を言ってよろしい?正直、あまり良くはありませんでした。彼女は黒のスーツを着ていました。髪は濃いめのブロンド。肩に掛かるくらいの内巻きでした。シックス・フォームを中途退学し、就職と失業を繰り返していたようです。我が社は、あなたもご存じの通り、いずれの社員も高い学歴を誇っております。ただ、こちらで勤めていた社員が体を悪くした時期、移動可能な人員が本社にはおりませんでした。それで、病欠は長くとも一年以内になりそうだと聞いていましたので、社と連絡を取り、期限付きのアルバイトを募集いたしました。エバは、面接に来た三人のうちの一人でした。今だから言える事ですが、私は彼女を真っ先に落とすつもりでした。彼女は私が面接の部屋に入る前に、すでに椅子に座っており、煙草を口にくわえて煙を吹かしていました。私が注意すると、彼女は誤魔化し笑いを浮かべ、足を組み直しました。そうして、舌足らずな喋り方で履歴を語り、一人暮らしであること、家族とは事情があって離れていることなどを話しました。学歴の面では他の二人も同等でしたが、エバはティーン時代の甘さが残っている人でした。この支社が小さいとは言っても、ダニエルがどんな会社なのか知らないはずはありません。レジのバイトの面接にでも来たような感覚で喋るのには、私も思わず閉口しました。真っ先に彼女を三番目に希望すると履歴に書き、社へファックスを流しました。なのに一体どういう訳か、エバを採用せよとの通達が寄越されたのです。私は理由を聞きたく、何度も社に問い合わせましたが、人事は『上からの要望だ』との一点張りです。権限を持たない私は、納得出来ないにしても従うしかありませんでした。でも、そうしたら、今度は連絡がつかないじゃありませんか。僅か三週間の待ち時間の間に、彼女との連絡はぷつりと途切れてしまいました。酷く冷えた冬でしたから、風邪でもひいて寝込んでいるのかも知れないと思いましたが、年明けに速達で封書を送っても何の音沙汰もなし。終いには、彼女が住んでいるアパートの大家に直接電話をかけて尋ねました。けれど、何やら機嫌のいい様子で出掛けていったまま帰ってきていないとのことでした。彼女とはその後連絡を取っていませんし、今どうしているのかも知りません。住所の控えが取ってありますから、行って聞いてみて下さい。履歴ファイルに写真もあるわ。―そうそう、このパンフレットをお持ちになっていって。女性でも安心して投資出来ますから、興味を持たれたらいつでもどうぞ。お客様を紹介して頂いて嬉しいですわ、ありがとう』
(※五秒後、ナンバー1の録音を終了。同じく五秒後にセットし、ナンバー2を開始。)
『… …、…何、もう喋っていいの。何かこう二人きりだと逆にやな感じだね。まぁいいや。何だったっけ、エバ?私がここ入る前から隣の部屋に住んでたあの子ね。あいつまたヤバイ事でもした、っていうか見付かった?おばさんが知るわけないよね。えっと、うん、そう、物いりの良いバイトが決まるって言ってた。あいつ金遣い荒くて、不不相応の物欲しがるわけよ。あっちこっちに男つくって、派手に遊び回って宿賃も底つかしてさ。大家と怒鳴り合ってるのよく聞いた。一時期、雑費削ってケチケチがんばってた時もあったんだけどね、… …私が言ったって、サツにゃ絶対告げ口しないでくれよ。悪い仲間から『粉』仕入れて、支払いに火の車だったんだ。やめられなくて、手元にある金の上をいっちまった。ほんと馬鹿。そんなん一回受け取っったら終わりだってのに。写真?あぁ、持ってるの。はん、外行きの面してんね。すぐ剥がれそうな薄皮だけど。へえ、こんな服持ってたんだ。そういやあの子、田舎が嫌で、ロンドンに一人で上ってきたって言ってたわ。それ考えると、大人しく引っ込んでた方が良かったのかもって思わなくもないね。世間知らずなもんだから、ちょっと声かけてきた男と同棲し始めて別れるのも地下鉄並の速さだったって、本人ケラケラ笑って言ってたよ。実は私も金貸したまま、返してもらってない。大家なんて四ヶ月分滞納されて逃げられちゃって、それから取り立てがすごい厳しくなってこっちもすごい迷惑してんだ。ねぇ、ところでこのインタビュー、いくらもらえるの』





ファックス紙が波打つ床の上に、彼は立っている。今日の仕事が処理しきれず、家には香鳴の所で眠ると伝えていた。電話に出たフレイは透とくりぼうにそれぞれ代わり、「じゃあ明日」と言って切った。
紙をぎっしりと埋める文字は、何も感ずることなく見ればただの暗号のようであるが、一つの単語が別の意味を生み出し、連鎖する過程において、理解出来ないと投げ出せるものではなくなっていった。
むしろ文字は追いつめ、朧気な不安を、一方通行の曲がり角へと導いていく。一端を拾い上げ少しずつさらい、対の端を破いた最後には、こう付け加えられている。『ここで辞める事も出来るのよ』。
アニーは優秀な人だ。香鳴とは口喧嘩ばかりしているが、組めば良いコンビになれるだろう。お互い「勘弁して、してくれ」と嫌な顔をするのではあろうが。
窓を叩く音で雨が降っているのを知った。寒気団が列島に近づいているとニュースで言っていた。室内の温度も平常より低く、香鳴の部屋から毛布を取って戻った。叔父は最近、出先から出先へと渡り歩き、家は抜け殻状態に放っておかれる事が多くなった。その間もポストに寄越される郵便物は耐えず、行き先不明の仕事人に「緊急」と宛てられる内容も少なからず混入されているため、内容を電話で伝える寸法になっている。携帯があるのでアパートに持ち帰って出来ない事でもないが、マニュアルや資料が並んだここでする方が遙かに効率はいい。だから他の三人は、ラズが泊まり込みで作業したとしても、ご苦労様ですの一つ返事で了解する。
毛布を羽織り、椅子に座った。蛍光灯の明かりに照らされた薄っぺらい紙の山。黒い印字が呪文のように押し寄せる。
アニーは聞いたままの事を、修正せず寄越してくれた。だからこそ、ここに書かれている事は真実であり、全体を完成させるためのピースである。彼の中でまた一つ、行方の分からないものが減った。
机の脇に置いた二つの携帯が、一分ほど差を付けて時間数字のロゴを変えた。香鳴には新しい方の番号を教えておいた。古い方とは来月契約を切る。外の雨音が強くなっていた。
カーテンを引こうと立ち上がり、本棚に挟まれた窓に寄った。風が唸りをあげている。ラズは暗色の景色に何かを見出そうとするように、その場に長く止まった。ピントの合わないレンズの向こう側で、虚像とも実像ともつかない絵が動き出す。燃えさかる暖炉、毛糸玉。母が部屋に居ない時間に目が覚めた夜、何か重いものが打ち付けられるのを聞いた。子供は心許ない顔付きで、廊下へ出る。この家はいつもこんなに静かだっただろうか―誰もいない。真梨江と子供以外は誰一人。真梨江が親子だけでクリスマスを迎えたいと言ったから、勤勉な執事も、お菓子を焼いてくれるミミも、みんな早い休日を迎えていた。
繋ぎの小ホールを見下ろせる所まで歩いた時、音が止み、聞き慣れた別の音がした。あれは、玄関のドアが開く時の音だ。じゃぁ、お父さんが帰ってきたんだ。急いで降りようとした子供の足が、怒声にびくりと震えた。

―じゃない。来るって電話で言ったでしょう。

―早く中に入れて。寒いったらありゃしない。

恐る恐る手摺りの間から下を覗くと、ストールを肩にした後ろ姿の真梨江がいた。そしてもう一人。真梨江の陰になって見えないが、何か言っている。

―それで、彼は?まだ帰ってない?じゃぁアンタと話すわ。とりあえず、暖かいの、なんか飲ましてよ。すごいわね。まるでお城じゃない。

階下を満たす陰は濃くて、真梨江の顔がよく見えない。母から二階の通路に目を戻したすぐそこに、子供の目があった。自分以外ではありえず、忘れかけた事象を語る者。それが口を開くのと同時に、彼は大時計が鳴るのを聞いた。子供は囁くように言った。
(―あれが誰だか、分かる―?)



* * *



学校帰りのアシュリーを待ち受けていたのは、見た事もない訪問者だった。真梨江のいつになく楽しそうな声が居間の方から聞こえてくるので、何だろうと思い少し覗いてみると、こざっぱりした背広姿の男性が、真梨江と相対してソファに座っていた。ウェインも背筋を伸ばして真梨江の隣に立っている。執事はアシュリーに気付き、真梨江に目配せした。
「お入りなさいな、アシュリー」
男性は銀縁の眼鏡をかけている。その奥に見える瞳は色素の薄い茶色。風貌から察するに、歳は真梨江と同じくらいか、それより上のように思える。そろりと足を部屋に滑り込ませて挨拶すると、あぁ君が、と彼は一つ頷いた。
「こちらはヨシュアン・ヘイリー。私の主治医をして下さっているの」
主治医って、精神科のだろうか。口に出すのを憚られて、何とも言えない顔をしているのを、本人が助け船を出してくれた。
「産婦人科です。NHSのGPでしたが、クロフォードの紹介あってアルデリー病院に移りました」
白い歯を見せて彼は笑った。ウェインがすかさず補足を付け加える。
「大変優秀な方です。GPは原則的にコンサルタントと兼業できないものですが、旦那様のお知り合いということで、特別に担当をして頂いているのです」
GPとは病気や怪我の診察と治療一般を手がける家庭担当医のことだ。その上部、一定の経験と経験を得て医師試験に合格した専門医をコンサルタントと総称する。NHS利用による出産が九九パーセントを占める英国でプライベートを利用するケースは極稀であるが、アルデリーはハザーの私財である。往診の義務のないプライベート産科医がわざわざに来る事は、ハザー家固有の特権と言っていい。
「お召し替えがまだでございましょう。今朝方届いた品がございます、どうぞこちらへ」
ウェインは制服姿のアシュリーを一旦ドアの外へ促した。階段を昇りながらアシュリーは訊ねる。
「ウェイン、彼は」
「クロフォード様の代よりお世話になっております。旦那様とは大学時代からの友人で、ラズリエル様を取りあげて下さったのもヘイリー氏なのです。学校はどうですか、もう慣れましたでしょうか」
授業を始めるにも食事をするにも両手を組まなければならないのは孤児院と変わらなかったが、鐘の音は聞こえない。息苦しいまでの風紀の良さが浸透しているとはいえ、噂好きな女子はどこにでもいるらしく、ハザー家に養子縁組されたアシュリーの話は、登校初日に飛び交っていた。誰なの、あの子。ほら、ハザーに気に入られたって言ってたじゃない。へぇ…。
一瞥をくれてやると、彼女たちはさっと顔を逸らした。今日は早く授業が終わったから、頭の軽そうなクラスメートの無駄話を耳にしなくていい。
「勉強は面白いわ。ウェイン、ここ私の部屋だけど」
「ミミに用意させておきました。お部屋も掃除させておきましたので」
「中に入ったの」
「はい」
それが何かという顔をされたので、アシュリーは礼をして自室の鍵を閉めた。ベッドの上に花柄のワンピースと白のブラウス、黒のハイソックスが見た目良く用意されている。可愛いけれどそれは後回し。寝台とマットの隙間に指を入れてまず探った。良かった、あった。四つ折りに畳んだ白い紙は、真梨江の写真をこっそりカラーコピーしたものだ。何不自由ない家に生まれながら戻らないラズリエル、―長いからラズでいいわね。気付いたのは私だけかしら。マリエもウェインも「これ」については何も言わないし、だとすると預かり人のカナリは二人に話していないということだ。
少女は満足そうに紙を折り畳み直し、元の位置に差し込んだ。制服をきちんとハンガーにかけ、用意された衣服の袖に腕を通し、廊下から階下に降りた。大ホールに人影がある。ヨシュアンという名の、あの男性だった。
「何をなさっているのですか」
上から響いた少女の声に反応し、ヨシュアンは顔を上げた。
「やあ、君はさっきの子だね。ええと、」
「アシュリーです」
そうそう、そんな名前だった、と彼は手の平を打ち合わせた。クロフォード氏の友人だというなら、もう五十を超えた辺りだろうか。髭もきれいに剃ってあり、紳士の見本のような雰囲気がある。年齢と職業に相応しい落ち着いた態度で、ヨシュアンはアシュリーが降りてくるのを待ってから、少女に話しかけた。彼は階段の裏の奥まった壁を横目にしている。
「ここに来るのは半年ぶりでね。様子が変わってないか見て歩いていたんだ。ここには大時計がかけてあって、十二時になると鳴ったものだ。昼はともかく夜はどうにかならないかって、クロフォードがぼやいていた事がある。はずしたのかい」
「私は知らないです。ここに来た頃からありませんでした」
「そうか。来ていないと、やはり知らない事が出てくるな」
「マリエの往診をしていると先ほど聞きましたが」
「妊娠した時にはしょっちゅうだったが、今はたまに検診にやって来る程度だ。今必要なのは私ではなくもう一人の医者の方だとは思うが、私はクロフォードを古くから知っている。往診と言うより茶飲み友達と言った方が正しいかも知れない。一人息子の事と夫の事を、彼女は私によく話してくれる」
ヨシュアンは、客室へ続く廊下を閉ざしていた紺のカーテンを捲って、驚いた声を出した。
「棚卸しでもしているのかい。箱だらけで足の踏み場もない」
「掃除中なんです。ウェインがそう言ってました」
「―彼が?何だってここにこんな物。これじゃああっちに渡れやし、」
「ヨシュアン様」
そばかすのジェインが後ろに立っていた。
「お部屋は反対の通路でございます。奥様が今日はお泊まり頂きたいと。可能でございますか」
「二件ほど予約が入っている。出来れば辞退したいのだが」
「病院の事でお聞きしたいことがあるのだそうです」
ヨシュアンの表情が目に見えて変わった。狼狽と困惑が入り交じった目だ。可哀想に、言付けしに来たにすぎないジェインは、体を小さくして待っている。
「…分かった。夫人には了解したと言っておいてくれ」
「はい、確かに。失礼いたしますっ」
恐々として小走りに走り去るメイドを、アシュリーは興味のない目で見送った。ヨシュアンは胸ポケットから携帯を取り出して、何やら電話の相手に短く喋り切った。傍らに少女がいることを思いだし、苦笑いして言う。
「中を案内してくれないか。私が知っているより、色々と変わったようだから」
別段他にすることもないアシュリーは、ふたつ返事で了承した。一旦二階へ上がり、先代の応接室の廊下から踊り場を抜け、マリエの部屋のある方へ、そしてまた一階の中央へ戻る。カーテンの掛かった通路を無視して、今度は階段の背の通路へ歩いた。途中ミミと出くわし、「おやまぁ、こんな所へ」と慌てられた。どうやらヨシュアンは、彼等古株達とも顔見知りのようだ。彼女とも立ち話し、五分ほどで切り上げた彼は、庭に出たいと申し出てきた。

外ではジーンズのつなぎを着た老人が、芝刈りばさみで木の手入れをしていた。日差しは暑くないが、春に一斉に生い茂った庭木を刈るのは、相当な労苦を要するであろう。だが麦わら帽子を被った庭師は、どこ吹く風の涼しい顔をして、パチンパチンと余分な枝を切り落としていく。
「ダフネさん、戻られたのですか」
ヨシュアンの声に老人は「おお」と、ハサミの動きを止めた。庭をまともに散策した事のないアシュリーは、老人とは初対面だった。
「辞めたと聞きましたが、隠居生活は面白くなかったのですか」
ダフネは額を拭って、曲がった腰を叩いた。
「若造がトンチンカンな仕事をしたらしくてなぁ。執事の奴め、緊急だとか何とか言って儂を引っ張り出した。チューリップは見頃を終えたが、あちらのバラはどうにかマシだ。この林檎の木のぼさぼさ頭をカットしたら、次は煉瓦の下のボーダーにまわらにゃいかん。どうしたらあんな出鱈目な曲線が描けるのか、こっちが教えてもらいたい」
ダフネは青いぎょろ目をアシュリーに向けた。
「あんたは、ええと」
「マリエが引き取ったという子です。名前はアシュリー」
「引き取っただと!?ここの娘になるというのか、まだぼっちゃんが戻られないっていうのに」
「夫人はこれ以上の子供を望めません。お気持ちを察してあげてください」
「しかしなあ」
「一人ではつらいのでしょう。…アシュリー、アシュリー待ちたまえ」
角を曲がろうとしている少女のあとにヨシュアンが続く。
「すまない、ダフネは誰に対してもああなんだ」
「いいんです。ここの人達が私よりも義兄の帰省を願っているのは分かってます。マリエもそうですから」
「ラズは―特別なんだよ」
ええ、そうでしょうね。口には出さないが、苦々しい思いだけが募っていく。ラズが帰ればマリエも使用人達もきっと歓喜して迎え入れる。萎れ気味のつるバラさえ、その時になったら満開になるように思える。ダフネは彼のために、精を尽くして庭をきれいにするだろう。
―でも私、知ってるのよ。
だから大丈夫。まだ大丈夫。青い靴を手放さない間は、こっちには来ない。
「ねぇ、ヨシュアンさん。義兄様がどこで暮らしているか知ってますか」
「ああ、それも夫人に聞いているよ。日本の弟の所に滞在しているんだとか。夫人は…自分の母国がどういう所か彼に知ってもらいたいのだそうだ」
ラズがカナリと暮らしているという箇所しか聞いていなかったので、その後の声の調子がおかしかったのをアシュリーはすっかり聞き落とした。ただ、やはり自分しか気付いていないのだと再確認し、安心に胸を躍らせただけだった。
「ええ、ええ、そうね。御義兄様には、そこで良くお過ごし下さると嬉しいわ」
「アシュリー、君はマリエの病気について聞いているか」
「来る前にシスターから」
「怖くはないか」
「何故?クロフォード氏が失踪して、お心を痛めておられるだけでしょう」
ヨシュアンは沈黙した。もう一人の医者というのが、精神科医であることを少女はとうに知っている。
「私のママは死にました。パパはそれより前に家を出ていきました。私は他に行く所がない。だから絶対にここの子供になるんです、何をしても」
アシュリーは屋敷の裏手にバラ園があるのを見付けた。八分咲きだが、白から赤へ変わるコントラストがきれいだ。あれが私の物になる日もそう遠くない。アシュリーは嬉しそうに微笑んだ。
「今何時になりました」
「もうすぐ二時になるが」
頭の中で素速く計算した。ちょっと遅いけれど、出てくれるかしら。
「用事があるから失礼いたします、ごゆっくりお散歩なさって下さい。それじゃ」
決して気持ちのいい話をしていたわけではないのに、機嫌の良さそうな少女の背中を、ヨシュアンは不思議そうに見ていた。向かう先は居間の電話。マリエは自室に帰っていて、誰もいない。記憶済みの番号を押して、数回のコールを待つ。はたして彼は、出た。
『はい―』
「ごきげんよう、お義兄様。夜分遅くごめんなさい。もう寝る所でしたかしら」
『…君か』
名乗らずとも彼は覚えていたらしい。
『まだそこにいるのか』
「ええ、帰ってこないあなたの代わりに、毎日マリエとお話ししているわ。この間、あなたの写真見せてもらったの。とってもきれいなお顔なのね、父親似だってマリエが言ってたわ」
『…』
「お義兄様がお帰りにならないのを、みなさん首を長くして待っていらしているの。私もお会いしたいから、遠くにいらっしゃるのが残念でならないわ。でも仕方ないわよね。だってあなた、他の方と暮らしていらっしゃるんだもの」
沈黙の意味する所は是。人が秘密にしていたのを暴いて見せるのはとても気持ちがよい。
「写真を見た時思ったの、紳士靴はないのに、子供が履くぐらいのちっちゃいのがひっくり返っていて。あなたはこんなお行儀の悪い脱ぎ方しないものね、サイズも全然違うし。お義兄様のお子様かしら?でも安心して、言うつもりはないから。心配性のマリエにこれ以上心労を煩わせたくないのは私も同じよ」
『―君は勘違いをしている』
「あら、何かしら。青い靴はあなたの物だって言い張るつもり」
『君が望もうが望まないが、母は必ず俺を呼び寄せる』
「だから来なければいいのよ。御義兄様だって、そっちに居たいでしょう」
『母をあまり信用しない方がいい、手遅れになる前に家を出ろ』
アシュリーはぐっと喉を詰まらせた。この人は、いつもこんな喋り方だ。表面だけは落ち着き払ったまま、アシュリーは答えた。
「気を病んでいらっしゃるのを言ってるの?それなら全然大丈夫、マリエは私に何も―」
『違う』
声は続ける。
『母は病気じゃない』
「…え?」
彼が何を言いたいのかさっぱり分からない。
『携帯を用意した。用がある時はそっちにかけろ、番号は…』
一方的に話を進められて、むかっときたけれどメモしてしまう自分が不思議だ。何でこの人、こんな焦っているんだろう。
『アシュリー、一階だ。廊下の奥を探せ。俺が何故家を離れたか、そこを見れば分かる』
ドアの裏から足音がした。人が来る。
「言ってる事が分からない―切るわ」
マリエは私にラズの事を話したがらない。彼と話している所を見られた時の反応が怖い。アシュリーは慌てて受話器を置いた。その直後、ドアが開いた。
「アシュリー様、探しましたよ」
ウェインだった。
「お着替えが終わられましたら、市へ降りて買い物に行かれませんか。ヨシュアン様が夕食をお作りになって下さるそうですので、食材を探しにいくのですが」
「彼が?」
「結構なお手前なのですよ。昔、何度か御用意して頂きました」
「…そう、分かった。行くわ」
「お早く準備下さい」
「ええ、あ、あとねウェイン。携帯を変えたいから行ってきてもいい」
「今お持ちのはお気に召さなかったですか」
「ううん。でも友達が外国に行ったから、国際通話出来るのに変えたいの―駄目かしら」
「いいえ構いません。それでは門の前に車を出させますので、お越し下さいませ」
握り締めたメモは手の中でくしゃくしゃに丸まっている。ウェインが去ったのを見届けると、アシュリーはそれを服のポケットに入れ、気に入りの帽子をかぶりに部屋に戻った。