ままごとです。-25-



―帰りたいね。あそこに。


―帰れないよ。


―希望の話をしてるのよ。あなたは帰りたくないの。


―…パパもママも死んだ。イルパも、前のお家のハンナも。彼処じゃもう何も育てられない。羊も牛も汚染された。生き残ってる家畜だって焼却処分される。…誰かが言ってたよ、僕らの国のあれが爆発したせいで、隣の国の半分の土地が犠牲になったって。


― … …。


―帰れないよ。


―フレーヤ。パパがいつも何て言っていたか、知っていて?


― …なあに。


―パパは、ママの明るい色の髪と、私達の国の景色が好きだって。目覚めればそこに光があって、でもそれは天国のように遠くじゃなく、両手に抱きしめることが出来る。だから自分はママの故郷が、あの土地がとても好きだって。ねぇ、フレーヤ。パパは沢山、絵を描いてたでしょう。


―パパは絵描きだったもの。


―そうよ、出掛ける時はいつも色鉛筆を持ち歩いていた。美しいと思った物、面白いと思った物を、忘れないために描いていたの。私達も描かなければね。涙と一緒に、覚えていた物まで流してしまわないうちに。


― …。


―みんながいた頃の事を。








『フレイ!フレイッ、早く!』

『我が校では二十五年ぶりの快挙であり』

『私達だけの秘密よ』

『公表が遅れた事への謝罪はないのですか』

『おめでとう、満場一致の評価を得たそうだ』

『情熱だけで描けたら苦労しねぇよ』

『ノルウェー上空においても放射能が検出され』

『教えてくれよ、何で俺の家族が死ななきゃならないんだ』

『今年度のル・サロン展における名誉賞受賞者を発表します』

『リーナがぁ―!』






―絵には魂が込められているのよ。―









伸ばした腕が、天井に向けられていた。無意識に突き出したようだ。びりびりと引きつる感覚が宿るまで、その自覚も湧いてこなかった。
内容を覚えるまでに、夢は何度もしつこく脳髄を踏み荒らし、同じ場面を繰り返す。そして終わりに向かって走る自分の足は、決まって最後の一歩を踏み外す。横たわった細い体に辿り着く直前に、目の眩むような光に叩き落とされ、目覚めれば朝。夢の中で彼女に指が届いたことは、一度だってない。
動こうとして背を折ると、ヒビが入るんじゃないかと思うくらい、体が固くなっていた。ソファーの上で毛布一つにくるまって寝たから、首の付け根も足首も、がちがちになっている。
揉みほぐしていると、急激に肩に寒さが感じられた。毛布を羽織って窓辺に立ち、カーテンを少しめくる。水滴の張り付いた硝子の向こうに、霧に覆われた林の姿があった。山鳩らしい鳥が喉を鳴らしている、電車もまだ走り出さない早朝。自然に、体の向きが台所へ向いた。
「ごはん―は、作らなくていいんだっけ」
染みついた習慣からはそう簡単に抜け出せないものだ。自分が食べようと思うのより、昨日ご飯炊いたっけ?という心配の方が先に立つ。透はちゃんとやってくれてるだろうか。
テーブルに置きっぱなしのボトルジュースの栓を取り、二口ほど飲んだが、ぬるい。まぁ、昨日今日で腐ってはいないだろう。夏じゃなくてよかったと、少しだけ救われた思いになった。ふと見ると、管理人から渡された鍵が無造作に床に落ちている。そういえば昨日、施錠した記憶がない。瑞恵に知れたらまた怒るだろうが、起きてしまえば関係ない。物取りにもそんなに魅力的な家には見えないし。
まぁいいか、と大きく欠伸した。
瑞恵が帰ってからの夜から真夜中まで、手に取れるだけのキャンバスをひっくり返して調べた。『晩冬』には、雪の降り積もった山々と雪原が描き込まれている。せっかく張り終えたキャンバスを自由帳のように扱った画伯が、フレイの見ている前では唯一完成まで椅子に座り続けた作品だった―と記憶するのだが、ざっと見た限り、それに適するものはなかった。部屋を埋めるシーツの山と、床板の下の倉庫を隅々まで洗い出さなければならない。瑞恵は来年の春まで猶予を与えてくれたが、専門家もいない環境でのこの仕事は、普通に考えたなら、はっきりいって無茶と言うものだ。瑞恵が自分を使用したのは、浦賀画伯が『晩冬』を一度は学会に提示しながらも、写真を一切残させずに葬ったためだが、もしこの家を出るのが、彼が『晩冬』を描き出すより一日でも早くであったなら、彼女は自分など呼ばなかっただろう。

『何故会いに来なかったの。』

理由はある。だが瑞恵がそれを知る必要はない。床に引きずり出して放置した数枚のキャンバスを見下ろして溜息を吐いた。瑞恵が来ても来なくても、昼を過ぎたら帰る用意をしよう。この家は何だか、昔を思い出しすぎる。フレイは冷えた床に膝をつき、キャンバスに手を伸ばした。正直、まともな感性をした人間なら鬱になる。一枚は、メリーゴーランドらしき遊具を描いたものだが、蹄を持つ真っ黒な「何か」がずらりと馬に乗り、剥き出しの歯で見る者にニッと笑いかけている。もう一枚は、見開いた目の中にまた目が並び、そのまた目の中に同じ目が、と鏡で鏡を覗いたように連続している。両の白いところには、みな違った風景が描き込まれているが、どれも人を楽しませるものでないことは確かだ。あとの数枚は、その二枚よりは格段にマシだとはいえ、瑞恵の熱望する名画でないことは、検証を試みるまでもなかった。
この家には、あとどれくらい、こんな絵が眠っているのだろうか。嘔吐を誘うような、生理的に受け付けない絵ばかりが、あちこちで人の手に触れられるのを待ちかまえている。自らは決して動こうとせず、シーツの下で、亡霊のように膝を抱えながら。
屍となった風景は、フレイを捕らえず離さず、落ち窪んだ眼で見つめる。その眼が言う。あなたは私を知っているはずだ、と。


油の匂いが入り交じった部屋に、異なる空気がつと流れ入った。背を向いた自分の右頬を照らした、細く淡い光の筋。フレイは振りかえる。瞼を差し抜いた痛みが、まなじりでちりちりと弾けた。誰かがそこにいる。それは、愉快そうに、言った。
「おはよう」


―賭をしよう、私と。


―お前がまだ憎むというのなら、それでもいい。


―次に見付けるその時まで待ち続けろ。偶然か必然かが、今一度お前の前に現れるまで。そしてお前の生涯のうちに、その時が来たなら。





彼を殺すがいい。






「―、、―、か、―、」
せき止めていた過去が濁流となって言葉を押し流し、声に成りきるより早くに溢れ、喉を詰まらせた。その名前を忘れていなかった。彼女の胸に、死という永久の刻印を打ち付けた罪人の名前を。
かしこまったスーツ姿の男は、涼しげな目でフレイを見下ろした。ダーク・ブルーのアイフレームを耳にかけた眼鏡の中から、興味深い生き物を見る目つきで、しげしげと眺めている。タイ・ピンは有名ブランドのロゴが入った、いかにもな金だ。
「やはり姉弟だな。リーナに似てきている」
お邪魔するよ、と男は勝手にソファーに座った。フレイの冷徹な視線を受けながら、「さて」と、白々しい笑みを浮かべて寄越す。
「四年ぶりだね」
「…」
「てっきり、国に帰ったと思っていたが」
「―どうして」
男は両肩を大袈裟に上げてみせた。
「あぁ、君は知らないんだな。半年ぐらい前から、私は連合の代表の一人を務めることになった。浦賀直治なおはる氏のアトリエ公開も、当然耳に入っている。彼に心酔してる女史がここを引き受けたいと嘆願したのを下から聞いて、多分君を呼んだだろうと推測した。当たりだったね」
「何をしに来た」
「おやおや、忘れてしまったのかい。小さい時に、絵の描き方を教えてやった時もあっただろうに。リーナの弟である君に会いたかっただけさ。よく話せなかったからね、あの時・・・は。まだ君は誤解しているようだから、この際話しておいた方がいいと思ってね」
歌でも歌うような、流ちょうな喋りで男は言う。上辺ばかりの憐れみを、まだ学生の頃の面立ちを残すその顔に浮かべながら。
「リーナの死は残念だった。二度目になるが、お悔やみ申しあげるよ。君たちは羨ましくなるぐらい、本当に仲の良い姉弟だった。リーナと君は、原発の事故で半ば強制移住となり、両親を癌で失ったんだったっけ。親戚を頼ってロシア入りした先で、身を寄せ合って暮らしていた。だが、彼女に新しい環境は合わなかったようだ。まさか自殺するなんて、思いもよらなかった」
この男は本気で言っているのだろうか。姉を裏切った覚えがないと、本気で。
「美しい女性だったのにあれは酷かった。喉を掻き切るなんてね。私にはとても真似出来ない」
「―黙れ」
「君は見たんだろうね、血溜まりにいる彼女を」
赤く染まった視界に広がる長い髪。噴き出す、止まらない、死んでしまう―。裂かれた壁の花達が、飛び散った血を頭から浴びていた。彼女の魂、僕等の故郷は、この男に挽き潰された。
気付けばフレイの両手は男の喉元を掴んでいる。震え一つなく、初めからそのためだけに機能を有しているように。男の左手の薬指には指輪がある。リーナを捨てて得た指輪だった。
「…僕の願いは一つだ。彼女の絵を、彼女に返す」
「まだそんな事を。あの女も随分しつこかったが、君も相当な年期の入り具合だな―。いきなり刺すような事をしなくなったのを見るかぎりでは、大人になったと言うべきか。今にも崩れそうな家で埃をかぶるだけだったのを、私が目をとめてやったんじゃないか。おっと、これ以上力を入れない方がいい。この家の経営処理を最終的に任せられているのは私だ。なくなれば、松原女史もファンも悲しむ。一時しか一緒にいなかった君にとっては、どうでもいいことかもしれないがね」
フレイの手を不浄だというようにして除け、男は立ち上がった。
「君は国に帰るがいいよ。君には日本の血が混じっているようだが、リーナの墓はあちらだろう。私に会ったとよろしく伝えてくれ。―あぁ、それと、『晩冬』。出てきたら私にも見せてくれ。成功しない老人だったが、あの作には興味がある。私も忙しい人間なのでね」
男は、テーブルの上に置いてあった、静物の一枚を一瞥すると、やれやれといった表情で出ていった。日が差し始めた家の温度に反して、一人立つ青年の表情は無機質に冷えていく。虫に食い荒らされた穴と同じく、その目は闇に手繰り寄せられる。



    *  *  * 



「遅いねぇ」
ティッシュを丸める手をとめて、くりぼうが窓を見た。薄い橙色が道沿いの屋根を照らしているというのに、何でてるてる坊主なんて作ってるんだと、透が聞くと、
「もう少し経つと、台風来る頃でしょう。願い事は早くにしなきゃ間に合わなくなるんだよ」
…サンタクロースか?くりぼうは、作ったてるてる坊主を空の菓子箱に嬉しそうに入れていく。
「待て、その、マジックで書いてある顔は俺か」
「そーだよ、ふれいのもラズのもあるよ」
三人仲良く窓に吊される。想像すると結構怖い物があったので、透は深く考えないように努力した。昼のあれからいったん学校へ戻ったが、あの刃物のことがずっと頭にあって、授業も三分の二ほど何をしたのか覚えていない。しまう時に気付いたが、普通のナイフにしては持ち手が変だった。切り分けたケーキを取る時に使う、先が菱形になっているあれの方に形は近い。
「なぁ、くりぼう―」
ちびが「ん」と頭を上げる。
「昼の、あの箱な。フレイには黙ってろよ」
もしかしたら、単に錆の塊が血みたいに見えたのかもしれないし、誤って自分で手を切ったのかもしれない―それが放っておかれている事まで考えたら、全然説明出来ない―可能性で釘を刺そうとしたのだが、
「あ――!」
窓からぎりぎりおでこと目だけを出したくりぼうが、はしゃいで足をばたばたさせた。
「ふれい帰ってきたよ!」
くりぼうが短い足でお出迎えしにいくと、ドアの向こうから「あーけーてー」と苦しそうな声が聞こえてきた。不審に思った透が開けてやると、そこにはずっしりと重そうな紙袋の山が。まんじゅう、雷せんべい、蕎麦餅、あられ??一体どこ行ってきたんだ、こいつ!?
「いやーー、沢山買いすぎちゃった」
いやーー、の一言じゃ済まないだろうがこの量は。ていうか、どうやってここまで持ってこれたのか不思議だ。ほらほら、さっさと中入れて、と急かされて、言われるまま運び入れたが、四人でだって食べきれないだろうというのは目に見えていた。
「おかえりなさーい」
「たっだいまーーー」
フレイは腕を広げてくりぼうを抱え込む。そのまま、ごろごろ畳に反転して、輝く目で透に向かって片方の手を上げた。
「…なんだその手は」
「『母を訪ねて三千里』ごっこ」
「千里も歩いてないだろうが。お前のせいで、俺がどんな目に遭ったと思ってんだ」
「ええーー、透が言えっていうからやったのに」
どっかで聞いた台詞だ。
「言ってない!しかも『言う』のと『やる』のは違うだろうがあっ!!」
ばさっと、透が右手に持って上げたのはいわゆる原稿用紙で。
「反省文だぞ、字詰め400文字きっちりで!」
「題名は?」
「『身近にある英語コンプレックス』」
「う、わー…。全然関係ない」
「ラズは割と平気でそういう事してくるよね」
真面目に書いてしまう透も透なのだが、止めない二人も二人だ。透が鉛筆でがりがりやってる間も、フレイはくりぼうを縫いぐるみみたいにだっこしている。されている方のくりぼうは、気にしてないのか、黙々とティッシュを丸めていた。
ほどなくしてラズも帰ってきた。お帰りー、と透とくりぼうが声を合わせる。仰向けになっているフレイを、ラズはしばらく見ていたが、つかつかと歩み寄ってきたかと思うと、その懐からくりぼうをひっぺはがした。
「わわわ!」
あっと言う間に、立ち上がった熊に抱えられる小熊の図が完成。
「…なにさ」
フレイは恨めしそうに、空になった両手の指を動かした。
「お前はすでに前科持ちだ。油断も隙もない」
「人を犯罪者みたいに呼ばないでくれる。くりぼうはふかふかしてるし、僕は今すぐ暖まりたいところなんだ」
「さっさと寝ろ」
「…分かった」
不承不承に立ち上がり、押入から出した布団を広げ、そして。
がしっ。
「例えば『not』の疑問型に『Yes』で答えたところ…うあ?」
二人の会話を全く無視していた透は、勢いよく襟首を後ろに引かれ、何が起きたのか分からないというように目を白黒させた。
「透、寝よっ」
「は?え、うわああああああ」
鉛筆をしっかり握り締めたまま、透は布団の塊に吸い込まれていく。
昨日の事によほど傷ついたらしいラズは、透を人身御供に差しだし、どことなく心安らかな顔をしていた。見た目が如何に無表情であっても、透には、それぐらい分かるようになってきている。

(お、俺、もしかして見捨てられた…?)

青ざめた透を早々に抱き枕にして、フレイはくうくうと寝息を立て始める。
「宿題終わってないんですけど」
「うん」
「暑いんですけど」
「うん、ごめん」
「―反省文、お前も書けよな」
「…明日ね」
出掛けてたのは一日半なのに、とても疲れているようだ。怒る相手にダウンされた透は為す術もなく、とりあえず頭と腕を自由にして布団から出した。ラズが言う。
「…まだ、終わってない」
「分かってるって」
残りをやっつけるため、ラズの腕で足をぶらりとしているくりぼうに原稿用紙を取ってもらった。