ままごとです。-24-


 くりぼうは、とろとろと瞼を落としていた。その意識は、底へ投げ入れられた井戸の桶。小さな明かりを遙か上方に捉えはするものの、いまだ深く沈み込んでいる。
「…はい、―そうですか。えぇ、元気です」
細く瞼を上げたが、頭の方は全然追いついていない。電話の受話器を耳にした、ラズの後ろ姿がすぐ前にあった。はい、いいえ、単語しか並ばない受け答え。
もう一度目を閉じると、すぐに会話が止んだ。話が終わったらしいラズが動き出す気配を感じた。寝ているのを確認するように覗き込み、体を引く。長い髪の毛が額の上に揺れた。コンクリートの上を靴が擦る音。外から鍵がかけられたようだ。
むくりと身を起こすと、部屋にいるのは自分だけ。

一人―。

くりぼうはぶるっと体を震わせたが、きっとこれは透の言っていた『ムシャブルイ』だと自分に言い聞かせた。だって、僕はもう大丈夫なんだ―。
フレイがいないから、明日の夕食の頃までは、この時間帯に家にいるのはくりぼう一人になる。平日、透は学校。ラズは大抵が仕事だ。
とたとたと台所に走っていって、コップを取って冷蔵庫のミネラルウォーターを注いだ。飲んだら洗って片付ける。フレイの躾のたまものだ。
公園に遊びに行こうかな。
起きてしまえば途端に行動力が湧いてくるのだがよしておいた。合い鍵は四人とも持っているし、書き置きすれば外に出るのは自由だけど、あの口の悪い女の子のことが頭を掠めた。こんちきしょう。恐れをなしたわけじゃないんだぞ、でも、ほらこれ。透の置き手紙。『掃除しておけ』、だって。だから今日一日は、部屋をきれいにして、帰ってきた透にぎゃふんと言わせてやるのだ。
ふふんと鼻を鳴らしたくりぼうの目に、台所のテーブルの上のドーナツが入った皿が飛び込んだ。
…食べてからでも、いいよね?
誘惑に落ちる速さを競ったなら、一等賞になるに違いない。ギムだって忘れてないぞ!と言い訳しながら足をあげて椅子に乗っかった。ドーナツは真ん中がくり抜かれて砂糖がまぶしてある。
「おいしい!」
いつもより大きな声で言ってみる。ドーナツがおいしいのは本当だし、四人分まとめて話したって今日はおつりが来る。頬杖ついて、足をぶらぶらして。
「ふれい早く帰ってこないかなー、おみやげは何かな。透が言ってた『ひよこまんじゅう』かなぁ。でも、ひよこをまんじゅうにするってちょっと残酷だよね。どうやって食べるんだろ。ねぇ!ラ、」
しぃんと静まりかえった空気。右を向いても返してくれる人はいない。
「…出掛けたんだっけ」
お皿のなかのドーナツはあと二つ。ラズと透のだから、これは手をつけちゃ駄目だ。
「掃除しよっと!」
椅子から降りて、ギムに取りかかった。テレビを観たり寝たりしている部屋の一角には、通称「物置」と呼んでいる四畳半のスペースに通じるドアがある。細長く引っ込んでいる窪みに手を引っかけると簡単に開く。くりぼう達四人の持ち物なんかをしまってある場所であるが、ずっと前に見た時に比べると、遠慮がない置き方になってきている。買い物でもらった紙袋やビニール袋にちゃんと名前を書いてあるのもあるが、近頃は面倒になってきたのか、何が入っているのかよく分からない入れ物も混在している。透に言われたのは、ここの荷物を一旦除けて、床板をモップで拭くこと。フレイが帰る前にこっそりきれいにしておけという指令のもと、くりぼうは「ラジャー!」と指をぴんと伸ばした手を頭の横にした。
袋の一つ一つは、くりぼうの手では引きずらなければならないものもあるが、動かせないほどではない。隣の部屋に一個ずつ移動していけばいい。
「これは透のー」
袋の口からはみ出している裾から、誰のか分かって、くりぼうはにっこりと笑った。僕がここに来た頃、よく着てたな、このジャケット。
「これはラズのー…重、」
体が大きい分、服の重量はそれだけ比例する。リサイクルショップでもらえるような大きめの袋にも見覚えがる。そういえば“ふりーまーけっと”という場所でも安く買えるって、透が言っていた。フレイが描いた絵も売れるらしいから、ガバレンジャーのカードも出せば誰か買ってくれるかもしれない。売らないけどね。
袋を全部移したくりぼうは、手をパンパン叩いて、最後の荷物に目をやった。これが結構な大ボスだ。腕をいっぱいに広げたらやっと短い辺の両端持てるくらいの収納ケース。何が入っているのかはくりぼうにも覚えがあって、衣類以外のみんなの持ち物が入っている。つまり四人がここに来てから後に溜め込んできた物、それと、ここに来た時に各自が持っていた物だ。今じゃあまり手を付けないけれど、時々中を見ると、ちょっとしたタイムカプセルを掘り出した気分になる。昔の自分が目の前に現れるように感じるから、触るのはちょっとだけ勇気が入るけれど。他の三人も同じじゃないのかな、それとも僕だけなんだろうか。
四人分、というのはくりぼうの手にはやはり重量がありすぎた。着の身着のままで飛び出してきたという透のは殆ど入ってない。この重さはフレイのキャンバス類と画材用具が原因だ。引っ張ったり押したりしても手応えがない。そこまで手に負えない物を、透はくりぼうに任せたりしないし、それだけ置いて掃除しても一向に構わなかいのだろうが、くりぼうの頭の中では「荷物を全て移動して掃除する」という命題がインプットされていた。何とか動かして、床一面をきれいにしたい。唸り、考えて、「あ、そっか」と収納ケースの蓋に手をかけた。
中の小物を外に出しながら、くりぼうは自画自賛する。出した物を入れ直す作業は考えていないらしい。紙を貼った木枠が何枚かあって、スケッチブックが数冊束になっている。やっぱり、フレイの持ち物が一番多い。濃い緑色をしたリュックサックは透の物。鎖のついた時計は誰のだろう。針が四時十五分で固定されている。
くりぼうは紙の小箱を開いて、陶製の置物を手の平に取った。バレエ姿をした女の人の人形が、桃色の台の上にくっついているオルゴール。ママが大切に閉まっていた。施設に入る時に、あのアパートから持ち出した、たった一つの物だ。台の下の丸いネジを巻くと、女の人がくるくる回って音が出る。オルゴールがどんなメロディーを紡ぐのか、ここに来る前は毎日のように腕に抱いて聞いていたのだけれど。
ホームに立っていたちょうどあの時も、僕はこのオルゴールを聴いていた。あんなに肌身離さずにいたものを、帰らないつもりでいたママが、持っていかなかった理由を考えたくなくて。

(あいつはお前にとどめを刺した?)

隣に寝そべって頬杖ついてた透が僕に言った。

(不器用な奴だからな)

すまなさそうな顔をしてたけど、ラズの悪口は言わなかった。多分透も、助けられたんだろう。
今なら分かる。なんでラズが、僕にあの一言を言ったのか。ただただ放っておいて欲しかった僕に、何億もの組み合わせの言葉から、それを選んだのか。
ネジをひねって床に置くと、寂しげでなつかしい音色が鳴り始めた。頬に手を当てても、涙は出てこない。もっと幼かった僕が、僕にママのために泣くよう求める。だけどもう、ママのために走り出せない。
「…優しいんだ」
ママが悪かったんじゃないかもしれない。仕方なかったのかもしれない。それでもママを忘れる僕は、きっとママ以上に人でなしだと思う。僕が苦しくなるのは、オルゴールが鳴るからではなくなったのだから。
「みんな、優しいんだよ」
音と音の間隔を徐々に長くして、音色はやんだ。動かなくなったバレリーナの人形をつかんで紙箱に戻し、ケースに収めた。なるべく重い物を出した方がいい。あちこち中を掻き回すくりぼうの目に、辞書らしき分厚い本の箱の表紙が映った。『新改国語辞典』。

ピーンポーン。

インターフォンが鳴らされて、くりぼうは体を跳ねさせた。ドンドン、と誰かが外から戸を叩いている。
「おい、誰もいないのか。鍵開けるぞ」
透の声だ。くりぼうが部屋を走り出て、中から開けてやると、自分より背の高い少年が立っていた。
「提出しなきゃならないレポート忘れてさ。次の一時間、授業入ってないし暇だから取りにきた」
原減ったーと、靴を脱ぎ捨てて入った透は、めざとく台所のドーナツを発見して口に放り込む。砂糖の付いた指を舐めて、「それで」と続きの部屋の奥を顎でしゃくった。
「ぼちぼちやってんのか」
「当然。荷物出すの苦労してんだよ」
「ふうん」
紙袋の山をまたいだ透は、物置部屋を覗いた。
「何ちらかしてんだ」
「重いんだよ!中出せば持っていけるじゃんか。僕ってほんと頭いいって思うね。えっへん」
「…出したら入れなきゃならないんだぞ。べつにこのまま置いといてぞうきんがけしてもいいのに」
「透が掃除しろって言ったんだろーーー?」
「中の物全部運べとは言ってねぇ。…時間いくらあっても足んねぇな」
口をへの時に曲げるくりぼうを後ろに、透は収納ケースに手をかけた。
「このスケッチブックの山。相変わらず溜めてるのな。今度香鳴に見せてやろうか。フレイが絵描けるの、本気で疑ってかかってるからな」
「香鳴の似顔絵、ふれいなら三分でできちゃうね」
「そうだな―…これは俺のか」
透が自分のリュックサックを取る手付きは、どことなく早かった。くりぼうは頷いてその様子を見守っていたが、先ほど見た辞書を思い出して言った。
「そうだ、そのおっきい本も出して」
「本?これか?」
「国語辞典。透のじゃないの」
「学校に置きっ放しのと家ので二冊持ってっけど。あれ、これって」
くりぼうは目をまばたかせた。透が外箱から本を取りだしたからだ。しかも頁を開くのではなく、掴んだ手を縦横に振る。一振二振り。
「―何してんの」
「これ辞書じゃない。中が空洞になってる」
くりぼうが近寄って見ると、外観は辞書そっくりなのに、まわりのへりはプラスチックだ。
「へー、面白いのがあるんだね」
「俺のでもお前のでもないとなると、あとはラズかフレイの、ってことになるけど」
「何か入ってんのかな」
「音しなかったし、空だろ。次行くぞ次―」
と、透が背を折り曲げた時、玄関の戸がもう一度開いたのを聞いた。締める時の音が、透の時より強くて、思わず二人で目を合わせる。
向こうの部屋を早足に渡ってくる人の姿が、壁を切り取った位置に現れた。
「ラズ、」
それは、その名前を持つ人間に間違いなかったが、その目は透と並ぶ小さい子供を真っ直ぐに捉えていた。春用の薄いコートを着た片手には、キラリと光る小さい物。ああそうか、透を入れてそのままにしたから、ラズにとっては、閉めたはずのドアが開いていることになる。びっくりさせたのかな。
「透が忘れ物しで帰ってきたんだよ。どうしたの、そんな急いで。ラズも忘れ物したの?」
額から頬につたう髪を振り払いもせず、青年は何事かを口にしようと少し開きかけたが、何も言わずにくりぼうを見ている。何だろう。僕はラズのこの目、どこかで見たことある。今にも雨を降らしそうで降らさない空みたいな。ついこの間のことみたいに思えるのに―。
「ラズ、これお前のか」
透は時計を取り上げた。
「何をしてるんだ」
「掃除。くりぼうに任せたんだ。フレイにばっかりいつも悪いから、たまにはさ」
目のあったラズに、くりぼうは何度も頷く。
「…!あ!」
透が声を上げた。
「ラズに運んでもらえばいいじゃん。俺より力あるんだから。ほらこっち来て見てくれよ。みんながみんなして色んな物入れっぱなしにしてくから、重いのなんのって。そうだ。この箱ラズの?見覚えないんだけど」
透から受け取ったのを、ラズは耳元で少し揺らした。
「…中を見たのか」
「え、ううん。なぁ、くりぼう」
「へ?あぁ、うん」
何だかラズが険しい顔してる。見付けて欲しくなかったのかな。そういや僕も、初めは自分のオルゴール、他の人に触られるの嫌だった。でも、ラズが手にしているのってそこらのデパートで売っていそうな物だし、よく見たら値札のシールが背表紙につきっぱなし。そんなに大切そうな物には見えないんだけど。
「透」
「うん」
「これはお前が持ってろ」
「はあ?ちょっと待てよ、お前のじゃないのか」
ラズの目が「違う」と語っている。じゃあ、これは。
「…ふれいのなの?」
ラズは前に膝を折って、玩具の時計についていたメッキの長い鎖をくりぼうの首にかけた。文字盤の数字はくりぼうが知っているのとは違ったけれど、こっちの方が格好良かった。
「これは君にあげる。電池を入れればまた動く」
「ラズは使わないの…?」
ふつりと言葉を途切れさせて、ラズは僕を見る。あぁ、何だろう。また。また、そんな目だ。痛いのをみんな奥に閉まって、自分だけどこか遠くにいるようなラズの瞳。もやもやとした焦りがくりぼうの胸に渦を巻く。いつだったっけいつだったっけ?

『僕はもう大丈夫』
『ママがいなくたって大丈夫だよ』

本当だよ、だって、僕は―。

「俺にはもう、必要ないから」
ラズの手がするりとくりぼうの頭から離れた。今度は透の方が難しい顔をしていた。
「中は」
「見たいなら見ればいい。だがあいつには渡すな、もし聞かれたら俺が持っていったと言え」
「どういう事だよ」
青年の着ているコートのあたりから、携帯の呼び出し音が鳴った。
ラズは身を翻してドアの向こうに消えてしまう。呼び止めようとした透は口を開いたまま、彼の姿がなくなるのを呆然とした顔付きで見送った。
「なんだあれ」
「―携帯」
「あ?」
「携帯の音、いつもと違う」
「変えたんじゃねぇのか」
「…」
前にこっそり色んなボタンを押して遊んだ時は、もう少し低音だった気がする。ラズは流行の歌なんか知らない。いつもマナーモードにして、震動が長めのバイブレータを設定している。でも今聞いたのはそれじゃない。
透は置いて行かれた箱をどうするか迷っていたが、決心したように蓋に手をかけた。鍵がかかっていないから多分開く。指をかけて、箱の中に部屋の空気が流れるその時まで、透もくりぼうも、後ろめたいものはさして感じていなかった。フレイの持ち物なんて、画材道具ぐらいだし、それだってケースに雑多に放り込まれているのだ。
「っ硬―」
力を込めた透の指が、角度を改めようとして滑った。床に落ちていく箱。二人して声を上げる。衝突音を上げて、それは開いた。細長く、鈍いきらめきがそこから飛び出したように思った。
透は拾おうとして膝を屈めたが、顔を強張らせて、落ちた物を見つめている。くりぼうの位置からも見えているが、それがすぐに何かは分からなかった。台所にあった気がする。でもあれはいつもぴかぴかしていて、林檎を剥いたりする時にフレイが使っていて。その先端から柄を汚している色が、どうしても彼とは結びつかない―。

赤黒い固体からは鉄の匂いがした。洗い流されることなく時を過ごした古い血が、錆びたナイフに、しぶきの跡を残してこびり付いていた。