ままごとです。-23-


生まれながらにして、罪を背負った子供はいるだろうか。
否、一人としていはしまい。
もしも彼等の中に、咎めを受ける者がいたとするなら、
彼等をこの世に送りだした二人の人間の責任はどうであろう。
私はもはや無関係ではいられない。

愛しい子、私の子。ラズ。




 夕食の卓で一番お喋りだったのは―、真梨江だった。血色良く見せるためか、頬に紅をはたいており、ころころと鈴の鳴るような声で話した。
機械的に相づちを打っているアシュリーの顔色は優れない。服を選別したのは真梨江とは限らないから、コーダの方もあの服のことを口にするのは気が引けた。服が男物だとは言い切れないのだが、この屋敷であれを着ていた人物はというと、いやがおうにも一人の人間を連想させる。他の新品だって、考えようによってはゾッとする。使われた形跡がないけれど、あれって、何年も前の物なんじゃないだろうか。固い横顔のアシュリーを気遣いつつ、口の回る真梨江に合わせるのは大変だった。
「それで、お母様には合意を得られたのかしら」
「はい、学校の始まる一時間前には家に戻るようにと言われました」
あのままアシュリーを残して帰るわけにもいかなかった。そう、と真梨江は笑った。彼女の微笑みはとても美しいけれど、紙にはりつけたみたいな印象がある。これも、病故だろうか。
「…ごちそうさま」
アシュリーは席を立った。彼女の食事はほとんど手が付けられていない。
「アシュリー」
「先に居間に行ってるわ」
彼女の表情は曇っている。
「あ、じゃぁ僕も」
「あんたはまだ半分あるじゃない。―後でね」
置いて行かれた方はたまったものではない。何か言わなきゃ話さなきゃと焦れば焦るほど、脳がヒートアップしていく。なまじ顔がきれいな分、目を合わせて喋りにくい。浮かぶのは、さっき見たセーターの色だ。
「コーダ、というお名前だったかしら」
「え、あ、はい!」
真梨江の面立ちは、教科書で見た菩薩の輪郭に似ている。柔和で繊細で、触れてはいけないような神秘さを併せ持つ。
「アシュリーとは、施設にいた頃からの?」
「はい、小さい頃からの友達です」
「そう、」
真梨江は作法良くサラダ菜を口に運んだ。
「では、あの子の事を良く知っていらっしゃるのね。私まだ分からないことが多くて、お恥ずかしいわ」
耳をこつりと打つような声が心地よく、コーダの心はちょっとだけ浮き上がった。しかし。
「そうそう、箱は受け取って頂けて?」
急転直下に落とされたコーダの顔は、不自然に固まった。真梨江は言う。
「気に入って頂けたかしら。サイズは見た感じで、こちらで勝手に選んでしまったわ。息子の服は小さかったかしら」
―ああ、やっぱりそうか。子供用は女物と判別がつかないから、アシュリーに「違うよ」って言ってあげたかったのだけれど。
「沢山あるのよ。十二になるまで、私が繕ってあげていたから」
聞くなら今しかない。コーダは、思い切って口を開いた。
「あの、マリエさんのご子息は、ラズリエルって名前なんですよね」
「ええ、そうよ。よく知っていらっしゃるわね」
「アシュリーから聞いたんです。彼、こちらには帰らないのですか。アシュリーのお義兄さんになる人だから、ぜひお会いしたくて」
「―帰らないのよ。今はまだ」
真梨江の瞳が一瞬曇った。
「でも、そうね。近いうちに彼はこちらに来るわ。写真をお見せしましょうか?弟に頼んで送ってもらったの。ちょっと待っていらして」
そうして数分、一人にされた。戻ってきた真梨江は片手に紙製のフォトアルバムを持っていた。
「そう、これが、三歳の時。足が立つのが早い子でね、お庭を駆け回って大変だった。今の彼は、これよ」
畳の敷いてある部屋だ。表情を作ることなく青年がこちらを向いて立っている。腰まで伸びた金の髪。グレーの瞳には、やや冷めた印象がある。壁に寄りかかった姿勢で、左の方にベージュのドアらしきものが写っている。
「…きれいな人ですね」
男性だということを忘れて、コーダは率直な感想を漏らした。
「顔は私に似てるけれど、父親の遺伝の方が強い子なの。目だって、完全な黒ではないし。クロフォードは、この子の髪の色が黒くなくて残念そうだったけれど、太陽のようなこの色が、私には自慢だわ」
コーダは写真から目を上げた。
「このアルバム、アシュリーにも見せてあげていいですか。彼女お義兄さんのこと苦手みたいなんですけど、顔見たらちょっとは考え変わるかも」
「…アシュリーに?」
真梨江は上目使いになってしばらく何かを思っているようだったが、やがて柔らかい笑みを表情に戻して答えた。
「ええ、いいわ。でも、青年の写真はそれ一枚だから、必ず返して頂戴ね」
「分かりました、ありがとうございます!」
手掛かりを一つ手に入れた気になったコーダは、早速アシュリーの元に行くつもりで椅子を引いた。食事部屋のドアを開いて、向かい側の居間に歩こうとする。
「…の雛」
「え?」
真梨江は食事を続けている。コーダは少しだけ彼女の横顔を見やり、ドアを閉めた。



初めて見る彼の顔を、彼女は刺すように見た。その目線は、身内を殺された者が、容疑者のアリバイを必死になって崩そうと試みているのに似ている。写真の中にいる人間の落ち度、欠損を見付けようと躍起になる―だがその時点で、彼女はすでに敗北者だった。
「…これ、カナリの家の中?」
「じゃないのかな。畳ってフローリングより落ち着くのかな。どうやって掃除するんだろ」
アシュリーは写真をテーブルにさらりと流した。
「―ごめんなさい、部屋に戻るわ」
「大丈夫?僕ついていこうか」
アシュリーは、一人で行くからいいと言って出ていった。そのすぐ後に、執事がコーダを呼びに来た。少し横にぽってりとした体格で、真正面から見るとサンタを彷彿させる老人だった。
―そういやさっきミミって人が話してたの、この人かな。
彼はコーダのような子供にでも礼を欠かすことなく客室へ案内してくれた。中を見てコーダは驚いた。凝った内装に対して、ではない。アシュリーの部屋においてきた大きな箱が、いつの間にかこちらに移動されていたからだ。
「シャワー室が中にございます、自由にお使い下さいませ。明日の朝は気に入った物にお召し替えください、―それでは」
ベッドの上に寝間着がある。コーダはアルバムを化粧台の引き出しに入れた。物珍しげにローブのようなそれをつまんで広げたが、脇に追いやって、靴を脱ぐなりぼふっと枕に顔を埋めた。どこもかしこも目の回るような豪華さ。足りない物なんて見当たらない。鞄から携帯を取り出して見ると、時刻は十時を少しまわっている。アシュリーともう少し話していたかったけど、何だか凄く疲れているみたいだった。自分のせいかもしれない。そう思うと、胸が痛んだ。今夜は眠気が来るのが早い。箱の中身は同じだろうか。新品のシャツ。ラズリエルが着ていたという服。

『―十二になるまで、私が繕ってあげていたから』

コーダの意識は、闇に落ちていく。



 少女は目を開いていた。床についてもなお、さっきの写真が瞼の裏から剥がれない。彼は名前通りの姿をしていた。タイもしていない普段着だけれど、生来の育ちの良さは消えていない。彼がもし知性に欠けた人物なら、多少なりとも優越に浸ることが可能だっただろうに、それも空しい期待だと自覚せざるをえない。
ある意味、想像は彼女にとって幸福だった。必要な時に自分を上位に置いて他者を見下ろせる。例え同等であったとしても、不確定さがそれ以下を和らげてくれる。
だが、彼女は今見上げる側にいる。写真に収められた彼の姿は、認識を絵物語から存在へと変化させた。彼は輪郭のある人間。それも一目見ただけで、競う気持ちすら減じさせるほどの。
青年となった彼にあの小さな服は着られない。それでも真梨江は最上の思い出を、捨てることなく箱にしまったままにしている。彼が帰ってきた時、昔話を始める二人の間に私はいない。
天井のファンが回るのを見ながら、アシュリーは人差し指で宙をなぞった。真中より右に彼が居る。ドアの前方に毛の短いマットがあって、それから、それから。あぁ、この、ごちゃごちゃした玄関!おおよそ彼には似合わない、下町の家の中の風景がどうしてだか燗に障る。何が彼に似合わないって―。
「…靴」

青い靴の片方が、裏返し・・・・・・・ ・・・

アシュリーは半身を起こした。
ごちゃごちゃしているって、つまり物が多いのだ。夢に誘われ霞む寸前だった写真の記憶を慎重にたぐり寄せ、彼の顔から左に逸れた部位を思い出す。あの洋服を見た後だったから、隅の隅に映り込んでいた物を奇妙と思わなかったのだが。

遠近によるのだとしても、あの靴はラズリエルには小さすぎる。

「写真…」
コーダがまだ持っているかしら。十二時を過ぎている、もう夜中だ。
迷ったアシュリーは、ベッドサイドのランタンを手にして足を降ろした。

音を出してはいけない。もし誰かに見付かったら、消灯時間も守れない子だと思われる。お行儀よくね、と私に言った真梨江をも失望させてしまう。だけど確かめたいと思う気持ちを、明日まで悠長に引き延ばせない。手に持った朧気な明かりを頼りに階段を一歩一歩降りていく。下の大ホールに足をついてほっと胸を撫で下ろした、が、
「アシュリー」
浮かび上がった白い陰に、心臓が飛び出そうになった。陰は眩しそうに目を手で覆った。
「僕だよー」
咄嗟にその口を手で塞いで、ふがふがと喚く彼を「しっ、小声で」と、こちらもスカスカした声で封じにかかった。
「…何やってんのこんな所で」
コーダはアシュリーの手を除けて、ボソボソと話した。
「トイレだよ、ここの裏のしか知らないから」
「ばかね、部屋のシャワー室にあるでしょう」
「あー…そういえばそう言ってたかも。シャワー浴びるつもりなかったから、忘れてた」
「ねぇ、アルバムまだ持ってる?」
「うん。でも何で?見たいなら朝になってからでもいいじゃない」
居間にいた時、あんまり見たそうな顔をしていなかったから、コーダは少し驚いていた。
「今すぐ見たいのよ」
アシュリーは客室の廊下へ向かった。階段から見たら左がカーテンの掛かってない方だ。しかし後ろをついてきていたはずのコーダが、逆方向に歩いている。大ホールの直径の長さは結構ある。小声では届かず、仕方なくホールを横切った。
「違うわよ、どこ行ってんのよ」
「アシュリー、こっちの中はどうなってるの」
「あちらと同じ造りだって聞いたわ。客室が二つあるって」
コーダは何か考える素振りをしていたが、カーテンを捲って中に入っていった。
「コーダ、そっちは入っちゃ駄目だって言われてるの」
「この荷物いつからあるの」
「私が来た頃からずっとよ」
「ふうん、一ヶ月くらい…わっ、」
段ボール箱に足を取られたのだろう。だから言ったのに。それでもコーダは、根気よく手探りで前進していく。明かりを持ったままホールにいると、誰かに見付かって怒られるのを馬鹿みたいに待っているような気がしてくる。アシュリーは肩を竦めて中へ入り、コーダの足下を照らしてやった。コーダは段ボールの蓋に手をやって小首を傾げている。何やってるのかしら。アシュリーがそう思う間も、コーダはずんずんと、奥へと進んでいく。こんな時間に真っ暗な中で、私達は何をやっているのだろう。立ち止まったアシュリーのところに、闇からコーダが帰ってきた。明かりを貸してもらいたいのだそうだ。
ランタンを預けて、アシュリーは月の光がかろうじて当たる窓辺に座り込んだ。ほどなくしてコーダは戻ってきた。
「同じだったでしょう。さぁ、帰りましょう」
「うん?…うん」
やはりどこかぽけーっとした顔で腕組みしている少年の背を押して、彼の部屋まで行った。コーダはアルバムをアシュリーに渡して「じゃあね」とドアを閉めてしまった。まぁ時間も時間だし、彼を付き合わせなくてもいい。アシュリーは足取り軽く階段を昇った。