鞄を腕に抱いたコーダは、あんぐりと口を開いた。彼の目の中で絢爛と輝いているのは、ホールに吊されているシャンデリアだ。部品一個一個が、ダイヤモンドみたいにきらきら光っている。あれって本物かな、どうなんだろう。
突っ立っているコーダに、少女の声がかかった。
「こっちよ、入って」
アシュリーに招かれた部屋に入ると、こちらは、時代を遡ったようなヴィクトリアン様式。すごいお屋敷だとは聞いていたけれど、まさかここまでとは。
「すごいね、ここ」
「そうね、とても凄いと思うわ」
向かい側に座ったアシュリーは、髪を指に巻いて遊ばせながら、そっけなく答えた。元気がない、というのとは違うけれど、どことなく、心あらずな顔をしていた。コーダには、それが少し気に掛かった。
彼女は時期に外れた入学の用意などで忙しかったらしい。やきもきして待つコーダの携帯に、知らないアドレスでメールが届いていた。件名に、アシュリーの名前があったから登録してすぐにかけ直した。話したいことがあるから、と。
コーダを屋敷に送ってくれたのは、黒塗りのリムジンだった。運転手のいかつい顔をしたおじさんが、待ち合わせの場所で声をかけてきた時、コーダは一瞬逃げ出しそうになった。それを言うと、アシュリーはちょっとだけ笑う。
「だって、本当に誘拐されるかと思ったんだ」
「そんな目立つ車で攫わないわよ」
「だってさあ」
居間のドアが開いて、エプロンを付けた女の人が入ってきた。
「お茶とお菓子です」
怖々した手でテーブルにセットした彼女は、ものすごく恐縮した感じで出ていった。
「ジェインよ、住み込みしている一人」
「へえー、やっぱり、お給仕さんもいるんだね。何人いるの」
「エリクソンと、執事のウェインさんと、ジェインと、料理人が一人と、…ミミ」
最後の名前だけ、アシュリーは苦虫潰した表情で言った。あまり好きじゃないみたいだった。
しばらくはコーダが一方的に雑談をふった。おいしいジェラート屋を見付けただの、今年のサッカーはいけるだの、他愛もない世間話だ。だが、さすがに三十分を超えると、ネタに詰まってくる。さっきも同じ事いったわよ、とアシュリーに窘められ、えへへ、と鼻の頭を掻いた。
ぷっつりと、会話が途切れた室内は、静かなものだ。窓の向こうには、広い庭と、煉瓦の囲いが見える。そのさらに向こうは、森の濃いグリーンがそびえている。
「えぇ、と、マリエは今日、いないの?」
アシュリーの目がキロリと動いた。それをまともに目にしたコーダは、反射的に「ごめん」と謝った。
「なんで謝るのよ」
「いや、だって」
彼女がそういうふうに上目使いして眉を反らすのは、決まって、気分を害した時だ。アシュリーは、ぷいっと顎を横に反らした。
「ずっと伏せっていらっしゃるの―体の弱い人だから、仕方ないわ。それより、話って何。早く言って頂戴」
アシュリーの話し方は、全然仕方なくなさそうだったけれど、それ以上突っ込むと出てけと言われそうなので、コーダは大人しく用件を始めることにした。
「アシュリー、この家のこと知りたがってたよね。だから僕、あれから図書館行ったりして、調べ直してきたんだ」
コーダは、鞄から新聞をコピーしたものをテーブルに出した。
「僕がこの前君にあげたのは、流れてたネット記事のぶつ切りだったんだけどね。過去の色々な新聞見てると、ちょっと違うんだ。例えばこれ。僕らは、当主が二九日に失踪したんだと思っていたけど、実際のところ、ダニエル社の社員が社長から電話を受けたっていう二十七日の夜が、足取りの掴めた最後の日で、少なくともこの日から彼、屋敷にはいなかったんだ。マリエは二十九日の朝に、社長が定時になっても出社してこないのを、会社の誰か、多分秘書かなんかから電話を受けたらしい」
「ふうん―それで?単純なミスじゃない」
「報道する立場にしてはね。でも、マリエの側に立ってみたらちょっと変な気がする」
「変て」
「一日ぐらいなら、僕だって母さんが何も言わずに何処か行っちゃったとしても、家で大人しく待ってるさ。でも二日だよ?なんで、マリエはじっとしてたんだろう」
「忍耐強く、きっともうすぐ帰ってくるって思ってたかもしれないじゃない」
「でも、」
まだ言いたいことがある途中で、ドアが鳴った。二人は一同にそちらを向くと、
「―マリエ!」
覇気のなかったアシュリーの頬に、生気が宿った。椅子から降りて、飛ぶようにして女性の手を取った。コーダの方と言えば、いささか間抜けな顔をして夫人に釘付けになっている。髪を緩く結い上げていて、首のうなじが白々しい。真っ黒な目には潤んだ艶があり、淡いピンク色をしたシフォンのドレスが、この上なく似合っている。東洋の黒真珠、という言葉がぴったりだ。
「ごめんなさいね、ずっと待たせてしまって」
真梨江はアシュリーの頬を手で触れて、コーダとも目を合わせた。にこりと微笑まれると、どぎまぎして何を言ったらいいのか分からなくなってしまう。
「アシュリーのお友達?」
「あ、はい、」
「あんた何緊張してるの。そうよ、遊びに来たの。マリエ、今日はつらくないの」
「えぇ、大丈夫。あなたのお知り合いが来てるって聞いたから、ちょっとぐらい顔を出さないと申し訳ないと思って」
「別にいいのに。どうせコーダだし」
そうは言うものの、アシュリーの喜びようったら、傍目で見ていても丸分かりだ。でも、なんか―。
「何のおもてなしも出来なくて…、そうだわ。そんなに見る物もないけれど、中を案内して差し上げたらどうかしら」
真梨江がそう勧めると、アシュリーは「そうね、そうするわ」と、あっさりそれに従った。
「マリエは無理しないで、そこで座っていて」
と、コーダが座っているソファのあたりを目で示す。
「何かで遊んでいらしたの?」
「い、いえ、これは!」
コーダは紙をかき集めて、肩に掛けていた鞄の中につっこんだ。
「何でもないんです。じゃぁ、お願いするよ…と、その前に、ちょっとトイレ行きたいんだけど」
アシュリーが、ついと顎を動かす。
「ここを出て、ホールを行った階段の下よ」
「あ、ありがと」
そそくさと出ていくコーダを、相変わらず艶容な笑みを浮かべた真梨江の目が見送った。
(やりにくいなぁ…)
のろのろと歩きながら思う。
(マリエの話してるのに、本人出てきちゃ出来ないよ)
それに、何なんだろう。アシュリーがやけに子供っぽく見える。新しいお母さんに甘えたいのは理解出来るんだけど、施設にいた頃はもっと、お姉さんぽかった気がする。まぁ、ここは山の上だし、知り合いもいないとなると心細いんだとは思うのだけど。所在なげに感じて、部屋を出てきてしまったけど、トイレに行きたいのは嘘じゃない。さっき見た馬鹿でかいシャンデリアの下をもう一度通って、コーダは階段の下をくぐった。
「ここかな…」
ホールの側からは太い支柱が立っているように見えるが、小さな硝子窓を嵌め込んだドアがあった。だが入ろうとした所で誰かに腕を掴まれ、コーダは悲鳴をあげそうになった。
「お待ちになってくだせぇ」
手を掴んだのは、エプロンを付けた、でっぷりした体格のおばさんだった。その片手には、コーダが鞄に突っ込んでいた紙の一枚がある。思いっきり、クロフォード・ハザーの名前がゴシック体で書かれているやつだ。やばい、とコーダが顔色を変えるよりも早く、女は何を思ったのか、足音がしないよう小走りして、使用人の部屋が並ぶ細い廊下に、コーダを引っ張り入れた。
「これ、坊ちゃんが落としただか」
女は、大きい体を丸めてヒソヒソ聞いてくる。
「は、はい。ごめんなさい」
「気を付けなぁよ。特に、執事さんと奥様に見られたら、何言われるか分かんねぇ」
「本当にごめんなさい。アシュリーに見せようと思って」
口をすべらし、またもしまったと思った矢先、女は瞼を少しばかり歪ませた。人の家の事情を嗅ぎ回っている事に怒るというより、どちらかといえば悲しげな表情だった。
「…あの子は、早く出ていった方がいいだ」
女は紙をコーダの手に返して、のっしのっしとホールの方に戻っていこうとした。それを今度はコーダが追いかけると、女は、ちょっとびっくりしたように振り返った。
「あ、あの!一つだけ聞かせて下さい。ここの当主様が行方不明になった時、夫人は主人の事を心配してるようなことを何か、あなたや他の誰かに言いましたか。お願いです、僕、アシュリーの友達だから、放っておけないんです」
何か嫌な予感がして―、とは口にしなかったが、女は躊躇った顔付きをしながら答えてくれた。
「あの年の冬、ここにいたのは旦那様と奥様と、子息様であられるラズリエル坊ちゃんだけだぁよ。親子水入らずでクリスマスと年明けを過ごされたいって、奥様の御希望で、執事さんも住み込みのみんなも、自分の家族か知人の家に行って山を降りてた。料理人も一人残らずだ。旦那様がいなくなられた時の奥様は、見てるこちらが気の毒なほど、動転して泣いて、今にもぺしゃんと潰れそうだった。ほんとうになぁ…お可愛そうで、お可愛そうで。だから、ラズリエル様の時も、誰も」
女ははっと上を見上げて、コーダを廊下へ戻した。足音を鳴らして階段を誰かが降りてきた。
「ミミ、掃除は終わったか」
「へい、あともう少しです」
「すまんが、少し急いでおくれ。エリクソンに会ったら、納屋のいらなくなった道具を降ろすように言っておいてくれ」
「分かりました」
足音はまた上がっていった。コーダが出ると、女は「いいか」と強く念を押した。
「旦那様の事では、それ以外、おらは何もしらねぇ。旦那様がいない今は、ラズリエル坊ちゃんだけが跡継ぎ様だ」
「でも、アシュリーが」
女は首を振った。
「あれがどういうことか、おらには分からねぇだよ。坊ちゃんをあれだけ溺愛されておいて、急に心変わりされたとは絶対思えねぇのに」
「そう、それなんです!ラズリエルってその人、留学か何かで日本にいるって、マリエに話を聞いたアシュリーからまた聞きしました。彼はこちらに帰られないんですか?」
「すまないけんど、もう答えられない」
女は急に口を閉じて、廊下を行ってしまった。話を一方的に切られたコーダは、その場に立ちつくすしかない。ラズリエル様の時も、誰も、ってどういう意味なんだろう。
コーダはアシュリーに問いかけた言葉を思い浮かべる。それほどまでに愛していた夫が、二日も不在だったのに、はたして彼女は本当に耐えられたのだろうか。この広すぎる屋敷に、幼い息子と二人きりにされて。
「コーダ、何処行ったのぉ?」
アシュリーが自分を探しているようだ。コーダは紙を四つに折り畳んで、今度は落ちないように鞄の蓋を閉めた。
「今行くよ」
裏道からホールに出ながら、コーダはふと視界に映ったものを振り返った。そこだけ夜を落としたかのような色のカーテン。なんで、あんなものが。
「何やってんのよ」
コーダを見付けたアシュリーが、つかつかと歩み寄ってくる。
「ごめん。ちょっとこれ気になって」
「あぁ、これ?昔の物を整理していて、荷物を一時こちらに移動してるんだって」
アシュリーは、カーテンの裾をつまみ上げた。
「ね、逆方向の客室と廊下の作りと一緒よ。勝手に触らないでくれとウェインに言われてるから、見てみたいんだったらあっちを案内するわよ」
「へえ、」
もっと興味を示すことを期待してたのか、アシュリーは頬の片方を膨らませた。
「あら、どうしたのかしら二人とも」
コーダがぎくりとしたのとは正反対に、アシュリーは軽やかに反転して、その声の主に答えた。
「マリエ」
アシュリーは、そうだわ、と嬉しそうな顔をして真梨江の細い腰に飛びついた。
「ねぇマリエ、客室の一つを使わせて頂けない?コーダを泊めたいの」
「えええ?」
仰天するコーダに、アシュリーは、
「せっかく来たのに勿体ないじゃない。一日使ってみれば分かるわ。ここのお部屋は、そこらのホテルより快適で、上等よ」
「で、でも僕、明日学校あるし」
「それならこちらは一向に構わないけれど。明日の朝は車を出して送ってもらいましょう。もちろん、あなたがお嫌じゃなければのお話だけれど」
マリエは、くるくると巻いた横髪に手をやって、にこりと微笑んだ。
甘い匂いが漂っている。マリエが付けている香水だろう。
「いいじゃない、ね」
機嫌良くはしゃぐアシュリーを前にして、嫌とは言えない。
「でも、着替えがないし」
一日くらい本当は全然気にならないのだが、来たばっかりで泊まりとなると遠慮が入る。
「それも大丈夫、こちらで全部用意いたします。頂き物の服が沢山あって困っているの。私は体が本調子ではないし、アシュリーのお話の相手をして下さると嬉しいわ。仲の良いお友達のようですしね」
真梨江の瞳が、コーダの緑のそれに重なった。儚げで優しい感じだった。その脆さが、はたして彼女が本来持っている性質なのか、クロフォードの失踪によって跡付されたものなのか、コーダには咄嗟に推測しかねたのだが。
「…じゃぁ、お言葉に甘えさせて頂きます。母に電話をして、オーケーをもらえたら」
許しの出ない確率はないに等しい。コーダの養母は人付き合いが良く、友人を大切にする人だから。
「ありがとう。こんな山奥だから、つまらないかもしれないけれど、夕食はご一緒しますわ。とても楽しみ」
それを聞いたアシュリーは、コーダが見たこともないほどの喜びを表した。
「本当!?」
「本当よ、だからお行儀良くしていらっしゃいね」
「ええ、マリエ!」
アシュリーは真梨江から体を離して、コーダの手を引っ張った。
「さあ、時間がいっぱい出来たわ。私のお部屋を見せてあげる。こっちよ」
急かされるまま、コーダは階段を慌ただしく昇る。中踊り場で見た真梨江は、口元を緩く微笑させ、青白い顔を二人に向けていた。
アシュリーの部屋は趣味が良かったけれど、女の子の部屋としては、調度品が厳かすぎる雰囲気だった。アシュリーは洋服ダンスからあれやこれやとドレスを引っ張り出しては、自慢げにコーダに見せる。
「マリエにもらったの、すごい高いのよ」
「ねぇ、アシュリー。さっきの話なんだけど。さっきそこで、ちょっと太った女のメイドさんに会って」
コーダが言うと、アシュリーの目つきは一気に剣呑になった。
「それミミよ。あの人嫌い、私のことじろじろ見て、気分悪いったらありゃしない。かといって睨むと逃げてくし。でもあんたも考えすぎよ。人が言ったこと一々気にしてたらきりがない」
彼女からそんな台詞が出てくるとは思いもせず、コーダは目をしばたかせた。
「それは、僕がお節介だって事?」
「そこまで言わないけど―」
アシュリーは気まずそうに口籠もった。
「何だかここ、妙な話が多いよ。当主の失踪はもちろんだけど、ハザーが経営する病院が独立の交渉してるっても聞いた。ラズリエルの事にしたって、なんでこんなに長く離れさせておくのさ」
「彼のことは言わないで」
「アシュリー、駄目だ。ちゃんと考えなきゃ。彼は本当に留学しに日本に行ったの?メイドの人すごい答えたくなさそうな顔してたよ。もしそうだったら教えてくれるはずじゃない。それに今、彼、何歳?単なる留学だと考えるには長すぎやしない?跡取りならそろそろ帰国させてもよさそうなのに、ここの人達、そんなことは一言だって口にしやしない。まるで―」
「知らない、やめてよ!」
甲高い大声が、アシュリーの口からほとばしると同時に、ドアが強くノックされた。動かないアシュリーに代わって、コーダが開きに行った。鼻から両頬にかけてうっすらとそばかすを浮かべたエプロン姿の女―先ほど二人にお茶と菓子を運んできてくれた―が立っていた。手には大きな白い箱が抱えられている。
「し、失礼いたします」
「何よジェイン、その箱」
「奥様より仰せつかって、あの、コーダ様のお着替えとのことです」
まだ泊まると決めた訳じゃないのに。気が早すぎると思いながら、コーダは箱を受け取って床に置いた。
「一度ご覧になって見て欲しいと仰られておりましたので、どうぞお確かめ下さいませ」
アシュリーを見やると、ふん、と顔を逸らされた。勝手に見なさいよ、とそんな感じだ。
コーダは仕方なく箱を開けた。中に見えたのは、まず長袖のシャツだ。透明な袋に入ったタグ付きの新品。どこにでもありそうな細いストライプ柄だが、これ一枚一体いくらするんだろうと、胃がきりりとする思いがした。
袋を一つ一つ取り出し、うろうろと視線を彷徨わせながら中身を見ていった。きちんと袖を折り畳まれた太めの紺のボーダーと全くの白のシャツ。今しがたまで店の棚に並んでいたようなブルーのジーンズも、何着か入っている。手探りしているうちに、下の隅の方の明るい黄緑に目が吸い寄せられた。自分が今着ているような普通のセーターなのだが、袋に入っていない。なんだろう、これ。『商品』とは感じが別―。
両手に取ってみて、息を呑んだ。銘柄も品質保証を謳ったタグもない、コーダの体格よりも少しばかり小さめの編み上げだった。腰のあたりをぐるっと一回りした黄色のダイヤの列。古めかしい匂いがする。さらに下の奥には、どうしたってコーダの足には小さすぎる毛糸の靴下、赤のベストがあった。
「アシュリー」
少女に向かい―その異質さを伝えるまでもなかった。アシュリーはぽかんと口を開いてそれを見つめ、コーダにも分かるほどに唇をわななかせた。
「何…何よそれ!」
声を上げて出ていった少女を、ジェインはおろおろと目で追った。
「いかがなされたのでしょうか…」
自分に聞かれても困る。コーダは苦しい表情を浮かべた。友人にとっては不味いことに、数着紛れ込んでいたそれらは、全て手作りだった。