ままごとです。-21-


 瞬きしない、作り物めいた瞳が正面を見ていた。画面をスクロールし、つらつらと流れる横文字を引っかかりなく頭に収めていく。
アニーの文面はさすが記者とだけあって、言い回しが簡潔で要領もいい。


―カナリの甥である、親愛なるラズリエル・ハザーに

返事がとても遅れてごめんなさい。過去の資料を漁るのに時間が掛かりました。仕事の合間に見た事なのであまり充分とは言えないのだけど、結果だけ先に言わせてもらうわね。残念だけどホームページを印刷した物は残ってないわ、各々の事件について数年間はファイルに保存される事になっているのだけど、長く使用されておらず必要ないと資料部がサインを出した物については、定期的に廃棄する事になっているの。ただ、クロフォード社長の失踪を伝えたホーム画面と、混乱に対するお詫びの文面だけは取ってあったから、それをエアメールで送る事は出来ます。資料の持ち出しは厳禁だから、うちの会社には絶対秘密にしとくのよ、いい?―あと採用の件だけど、社に問い合わせてもまともな答えはなかったもんだから、昔ここを一度受けて落ちたんですって言って採用状況を一通り聞き出してみたわ。あなたが言ったとおり、社長の失踪と同時期にして、採用予定の取り消しがあった過去があったようね。人事が変わっていて、詳しい事は分からないの一点張りだったけれど。社長の事で混乱が生じてそれどころじゃなかったんじゃないか、って今の担当者は言っていたわ。私もそう思う。
カナリは元気にしてる?今度こっちに来た時は、必ず会いに来るように言っておいて。オリジナルレシピの究極のプディング食べさせてあげるわ。もちろんあなたにもね。あの馬鹿が可愛がる甥っ子だもの。お父様の事はお気の毒だったけれど、今の生活を大切にするのもそう悪い事じゃないわ。あなたは昔不自由していたかも知れないけれど、今は何処にでも行けるのだから。好きな物をたくさん作ればいいの。

最後は依頼と関係ないわね。ごめんなさい。いつか会えるのを楽しみにしています。

                    アニー・フローレン


彼女らしい、強くて優しい言葉だった。
だけど本当に。


「本当に、そう思うか」
忌々しげな声を滲ませて、香鳴は何本目かの煙草の頭を路上に潰した。電話の相手は沈黙の末に答えて寄越す。
『思わないわ』
だろうな。そんなお人好しで記者なんて勤まるはずがない。出先での休憩時間。携帯に寄越された一本の電話は「あんた自分の甥御に何させてんのよ」の、ドスの利いた声で始まった。
『あんたの名前が入ってたから、てっきり了承済みなのかと思ってたら何、何で今になって墓穴を掘らせているの?』
この場合、墓穴の意味は慣用句ではなく字の通りだ。自分がシャベルを渡したようなものだから、友人の怒りに反論もできない。
「何か分かったのか」
あくまでも平然とした声を貫く香鳴に、いよいよアニーが切れた。
『あんたねぇ!身内が綱渡りしてるってのに、何でわざわざ背を押すような事するの!』
「事実を信念にしている記者の言葉とは思えねぇな」
『茶化さないで。あんた、お姉さんからあの子を離すのが正しい事で、必要だと思ったからやったんでしょう。気まぐれだったなんて言ったら殺すわよ』
香鳴の目の前に映る空は青い。まぁ、昼の空なんて青いか白いかどっちかなんだが。
『聞いてるの』
「あぁ、聞いてる」
工事現場がどこかにあるのか、時折ドリル音が耳を掘る。ワイシャツ一枚でも良くなった季節、見れば燕が孤を描いて飛んでいる。
『ったく…守るんだって息巻いていたのは一体誰よ』
アニーが気に入らない理由は、つまりそこなのだ。そして彼女と同様に、香鳴本人にでさえ気に入らない。思い出したくないものを思い出せと言える権限なぞ誰にもない。
「その様子じゃ、あいつが自分の父親の周辺を調べまわっている理由に思い当たっているんじゃないのか」
『―』
頭のいいアニーの事だ。だからこそ、こうしてちゃんと確認を取ってきている。
「アニー、綱渡りする奴はどういう気持ちで歩くんだろうな。サーカスじゃ向こう側で待つのは信頼出来る仲間だが、そうじゃないなら何処を見りゃいいだろう。下を向けば真っ逆さま、観客はやれ動けと野次を飛ばす。宙でふらふら摺り足してるのは、後ろに戻る器用さも持ち合わせていない奴だ。いっそ落ちてしまえば楽なのに、馬鹿真面目に演じきる―あちら側で待つ誰かのために」
『それは真梨江のことを言っているの』
「どうだろうな、案外客席の一人だったりするかもしれない」
香鳴は自分が疑問に思っていた事を話した。それはラズに突きつけたのと同じ内容ではあったが、アニーは黙って最後まで聞いた。
『…一つ聞いておくけど』
アニーは強い口調で問いかけてきた。
『あんた、クロフォードの失踪にラズが関与してると思ってるの』
「ああ―そう思っている」
『どうして』
「それ以外に、真梨江があいつにあんな仕打ちをした理由が思いつかない」
『真梨江は精神障害者よ。息子を長く閉じこめておいたのだって、夫のように消えてしまわないようするため。不安とストレスから発作的に首を絞めたと考えるのが普通だわ』
「だがあいつは動き出している」
外野がどれだけ推測を重ねたとしても意味はない。ラズが行動したというのなら、事実はその延長にある。
何故彼にそうさせたのか、そんなのは俺に聞かないでくれと、香鳴は思う。しなければならない、するべきだ、した方がいい。言い方なんてどうだっていい。俺がやっているのは単なるお節介。坊や姉が、過去の亡霊に取り込まれたくないがための、ただの願望だ。彼が自ら思い出すと言ったことで、思い出せと言った自分の罪悪感を減らすことは出来るだろうが、腹にわだかまる嫌な感じは拭えきれない。

俺だけを救いたいのではないのだろう―。

あれは、香鳴の心を読んだ物言いだった。幼い子供への非道の前に打ち捨てた、肉親への複雑な思いを、彼は見透かしていた。だが、ラズが思っているのと、自分が感じているこれには若干差があるのかも知れない。真梨江に対し持っているのは、情というよりも負い目だ。クロフォードとの結婚を許されず泣いてばかりだった彼女を、訳も分からず見ているしかなかったことへの。
「正直、俺は彼奴の父親が何処でぶっ倒れてようがどうでもいい」
もしそれがラズの責任だったとしても、顔も知らない人間のために坊を怒れるほど善人じゃない。
「こっちに連れてきたばかりの頃、彼奴は何をするにも俺の了解を得ようとした。はいといいえしか覚えていないロボットだ。答えがノーなら起動せず。他の三人が居着くようになってからは、その頭の固さを改良されたみてえで、随分と臨機応変になったもんだ。―だがな、」
香鳴は燕の白い腹を見上げた。そういえば、燕と王子の話があったな。あれの最後はどうなるんだっけ。
「時々不安になる。あいつはちゃんとやっているようで、実は『いつか』なんて日を決めているんじゃないのかって。見た目にゃ分かりにくいが、彼奴の頑固さは俺も承知済みだ。一度決めたら梃子でも動きやせん。錆の部分はまだ健在なんだな、ありゃ。油差して、駄目ならあとは叩くしかねぇだろ、壊れた家電は何とかってな」
アニーは呆れて声を高くした。
『荒療治に出るってわけ、でもそれで本当に壊れたら、あんたはただの馬鹿よ』
「そうだろうな」
『優しいのか優しくないのか分かりにくいのも困りものね。…まぁいいわ。あの子を無責任に放り出したってわけじゃないのね』
いいわ教えてあげる、とアニーは言った。ラズからメールを受けて、プライベートの時間を割いて調べたというのだから頭が下がる。ただ、ラズに送ったのはその一部で、深いところは香鳴の了解を得てからにしたいのだという。
『話す前に、これをラズに送っていいかどうか先に答えて頂戴。内容を言ってからじゃあんたの意志が変わるかも知れない。そんな優柔不断に渡すような情報は持ってないから』
それだけ腹を決めろという事だ。了承したと香鳴は答えた。電話口の向こうから紙を何枚か捲る音が響いてくる。物音のした後、アニーは話し始めた。
『ラズから要求されたのは二つよ。一つはクリスマス前からニューイヤー明けまでのダニエル証券のホームページ記事が残ってないか。二つ目は、ダニエル社が新規募集していた社員の採用状況について』
一つ目は、明らかにクロフォードに関係しているとして、後の方は質問の意図が掴めない。それはアニーも同じようだった。
『二つ目の質問は、彼が何を調べたがっているのか分からなかった。でも一応社に問い合わせてみたわ、クロフォードが失踪した頃の人事係がまだいたわ・・・。あの子にはひとまず伏せておいたけど、新規募集は確かにあった。でも早期に解除されてもいた。答えたくなさそうな感じだったけど、隠す必要があるのかとはっぱをかけたら、怒ってこう言ったわ。『募集はあった。だが、失踪前のクロフォード社長から採用予定を取り消すよう、直々に通達があったんだ』って。ちなみに募集はフロアレディ一名。そんな重要な役でもないから取り消しだってありえると人事は言ってたけど、考えてもみてよ。重要でもない募集にどうしてわざわざ社長の名前が出てくるの。ダニエルは社員の一人や二人、間違いだって養っていける大企業よ。それに募集していた勤務地はロンドン本部ではなく、西に構えている比較的小さな支店。状況によって支部長がキャンセルを出すことはあっても、社長が口を出すようなレベルじゃない。必要なくなったから取り消されたのではなく、取り消さなければならない事態が起こったと考えるべきだわね。だから次に、その面接で採用が決まっていた人間はいたのかと試しに聞いたら、女性が一名決まっていたわ。仕事が急にパアになって怒ってこなかったのか不思議だったけど、社から何度電話やメールをしても繋がらなかったというの。いざとなった時に居留守を使う奴は沢山いるからって、人事の方も封を何通か送った後、それ以上深追いしなかったというし。個人情報だからって女性の名前は聞き出せなかったけれど』
香鳴は眉間に手をあてた。あいつが何を探しているのか、検討もつかない。
『クロフォードの行動については確かに怪しいと思う、でも今のところ分かるのはそれだけ。それと、話は変わるけど、私はこの件に関してはあの子に言われた時だけ動くようにしたいの。身内を売るような真似したくないし―ねえ、』
アニーはしばし口を噤んだ。
『あんたは、あの子を守りたいのよね。坊やの事はもちろん心配だけど、あんたはちゃんと用意が出来てるの?経験上言わせてもらうけど、生半可な気持ちなら踏み込まない方が良いことの方が多いのよ。クロフォードの失踪にラズが関与しているというのなら、私が予見している事ぐらい、あんたにだって分かるでしょう』
アニーが今この場でそれを口にしたとしても、怒る権利はついぞ昔に喪失した。香鳴は確かに考えていたからだ。真梨江が息子を愛しながらもその手にかけかけた理由、全てが一本に繋がる事象、正解を。それをようやく一つ見付けておきながら、それだけは駄目だと踏みつけてきた。何度も何度も払拭し続けながら、完全には頭から取り払うことの出来ない、その仮定。
『―それでも彼にさせておくの』
丘の上に映る十字の陰。登った先にあるのは救いではなく、破滅かも知れないのに。
アニー、と香鳴が呟いた。
「それでもだ」
背を押したのは自分かも知れない。だが、手が触れる前に、彼はもうそのつもりでいた。言われようとしていることを、分かっていた。


―殺される理由が存在し、それをその人間が納得している場合。そうだろう。


「…万が一、奴が父親を手にかけていたとしても、故意だとは思えない」
クロフォードいなくなったあの頃、ラズはたった四つぐらいでしかないのだから。アニーは同意を示した。
『そうよね。もしそうだとしても、遺体がなくなるというのは変。子供を思い遣った真梨江が隠したって言うのなら分かるけど、あ、ごめん』
推測で安易なことを口にしたのを、アニーは謝った。しかし返事がない。その場を離れてしまったかのように、物音が途切れている。
『カナリ、何?』
「今、何て言った」
『だからごめんて』
「違う、真梨江が何とかってところだ」
ラズが父親を誤って殺めたというなら、隠蔽をしたのは真梨江以外にありえない。これは分かる。初めてあの屋敷を訪ねてクロフォードの話題になった時、クリスマス前後にかけて、あの屋敷にいたのは、彼等三人の家族だけだったとウェインから聞いたことがある。家族だけで過ごしたいとの夫人の要望で、自分も含め、使用人達にいつもより長い休暇を取らせていたと。それをラズが知っているのかどうかまで、こちらは知らないが、どちらにせよラズが自身を疑っているのなら、問いつめるべきは彼の母親だ。アニーにこんなメールをわざわざ寄越すことはない。なら、この質問の意味は何なのだ。あいつは何を知りたがっている。

刀が振り降ろされるような感覚が脳に閃いた。―まさか。
「…他にいるのか?」
アニーの声を遠くにして、思わず空を仰いだ。電線から燕が飛び去り、宙を切るようにして三日月の孤を描いた。携帯を耳に戻し、出来る限り落ち着いた声を出そうと試みる。が、
「すみませーん、中片付けたんで戻ってきてもらえますかー」
依頼人の声が背中に掛かった。営業スマイルを咄嗟に返した香鳴は、舌を打って早口に言い放った。
「次からは俺に一々承諾を求めなくていい、あいつがまた何か聞いてきたら、仕事の邪魔にならないぐらいに答えてやってくれ」
『報告は無しでいいのね。良かった、密告しているみたいで私も嫌だったもの』
「義務教育は終わってる。プライバシーの侵害だと煩がられるのがオチだ」
『それも悲しいわね』
「うるせぇ。今言ってたのは適当なこと言って、後からでも添付してやれ、じゃあな」
香鳴は携帯を切って、さっき出てきたばかりの新築一戸建てに踵を返した。仕事は次から次へと舞い込んでくる。有り難い事だが、最近少し忙しすぎる。家に入る間際、振り返ってもう一度電線に目を上げた。燕は短く鳴いて、あっという間に飛び去った。