ままごとです。-2-


「最近野菜高いよなぁ」
『ご利用はパリエにこにこ店で』と書かれたチラシを手にし、のりくらりとした声でぶつくさ言いながら、フレイは帰り道を歩いていた。家事をまかされている、なんてことはないのだが、できる人が他にいないから、消去法で自分がやるのが普通になってしまっている。今朝方せっかくデパートで買い物を済ませたというのに、野菜が足りないことに後で気付くとは。
「いいけどね、慣れてるし」
時は1時を刻んでいる。口笛を吹いている間に、簡素なアパートに辿り着いた。着古した上着のポケットに片手をつっこんで、鉄製の階段をこぎみよく上がるともう我が家の前だ。鍵を差し込んだところでフレイは顔をしかめた。いつもより用心深くノブを引いて、顔をつっこんでみる。目に映ったのは小綺麗な皮の靴だった。
「お、フレイ帰ったのか」
知った声が奥から聞こえて、にわかに警戒心をといた。
「香鳴かなりさん来てたの」
部屋の中に入ると、背広を来た男がくりぼうを脚にからませて、ずずっと前進してくるところだった。遠慮のない末の子は、遊び相手が見つかったとばかりにおもしろがっている。じゃれつかれている香鳴の方は、ええい離せと髪を掻いてはいるが、子供好きの性格は変わっていないようだ。もっとも、そうでなければ四人の子守などできはしない。
「覚悟!膝十字固め!」
ぎゃあああっと哀れな声を出して、香鳴は狭いリビングにひっくり返った。バンバン床を叩いて「ギブ、ギブ!」と叫ぶ様子はとても齢四十そこらとは思えない。
見かねてフレイはくりぼうの体をはがしにかかった。
「こら、一応お客様なんだから大事にしなきゃ」
「一応とはなんだ一応とは」
膝をさする香鳴の顔は赤らんで、目尻が光っていた。どうやら本気で痛かったらしい。
「ああ、ごめん。スポンサーだもんね」
いつも振り込みありがとうございますと恭しく頭を下げると、後頭部にぺしりと衝撃が走った。
「俺が出してんのは坊の分だけだ」
ふん、と香鳴はそっぽを向く。とても一人分とは思えない生活費を入れてくれているのに、感謝されるのに慣れていないとは損な性分だ。分かっている上でフレイは「そだね」と言って笑った。

 買い物袋から痛むものを早々に冷蔵庫に移し替え、冷凍ピラフの袋を取り出して振って見せた。ちゃぶ台に肘をついている香鳴は、眉間に皺を寄せて首を振った。くりぼうはくたびれた香鳴が回復するまでテレビを見ることにしたらしい。隅の方に背中を向けている。
レンジで解凍している間に、フレイは手際よくお茶を入れて出す。
「冷凍物はやめろって言っただろ」
「大丈夫。好きなのは僕だけで、みんなにはちゃんと手料理出してるから。ラズはそれ以前にあんま食べないし、透もジャンクフードの性格じゃないの知ってるでしょ。それに」
口元まで上った言葉を、不自然にせき止めた。
「国の生活よりマシだってか」
ちょうどそこでレンジが鳴ったので、フレイはちゃぶ台の傍から立ち上がった。スプーンを棚から掻きだして、引き出した皿を片手に座り直す。
「そこまでひどくないよ」
ああそうかいそうだったと言って、香鳴は茶を飲み干した。
「荒れてるね、なんか」
肩をすくめてフレイは言った。気性が少々荒いのは承知だが、来たくんだりでからんでくるのは珍しい。だが予想はできる。仕事で忙しい香鳴が愚痴をいうのは、大抵彼のことだ。
「―姉さんは相変わらず俺を憎んでいるよ」
独り言のように香鳴は呟いた。
「坊を返せと言っている。ただの叔父というだけで何様だ、だと」
「そりゃ、まあ、そうだろうね」
「…お前俺を敬う気持ち本当にあるのか?」
にっこりとフレイが笑顔を返すと、香鳴は嫌なものを見たと言いたげに眉を寄せた。「だいたいお前はなんで何も聞かないんだ。良くも悪くもこだわりがなさすぎるだろう!」
そうかもねーなんてフレイが笑うと、香鳴は思いっきり盛大なため息をついた。そして打ちひしがれたように頭を振って立ち上がり、転がっているビジネスバッグを拾って脇に挟むと、スプーンを加えたままのフレイをいら立ちげに見下ろした。
「もういい。お前に聞いた俺が馬鹿だった」
「お早いお帰りで」
「仕事の合間に抜けてきてんだ。坊一人にまかせられねぇよ…おい、ひっつくなって!」
いつの間にかがっしりと右足を固めているくりぼうを引きはがし、さっさと玄関に降りてしまう。

「ラズに今日はシチューだって言っといて」
「言わねえって!」
「香鳴さんもさびしいなら寄ればいいよ」
「人の話はちゃんと聞け!!」
馬鹿をしている間にドアが開き、きょとんとした顔の透が二人の前に現れた。
「ただいまー…何やってんの?」
別に答えを期待していたわけではないらしく、そう言うと香鳴の脇をくぐって中に入っていった。香鳴もそれに入れ違いになるように「六時頃に終わる」と漏らし、ドアを抜けていく。しかし胴体を外に出したあたりで、何かを思い出したように振り返った。
「そういえばお前、いつ坊に会ったんだっけ」
不意打ちの質問で、フレイの表情がとまった。
「お前に限らねぇけどよ」
じゃな。後ろ手をひらひらさせて、香鳴の姿は消えた。
ドアが閉まりきるのを見届けてから、フレイはくるりと体を翻した。台所に行って皿を流しにつっこむ。蛇口をひねると、冷たい水が手の甲を打ちつけた。
「―いつだっけ」
空気に溶けてしまうほど小さく、そう呟いた。