ままごとです。-19-


 空は水色。見渡すは稲穂の金。風すさぶあの場所には、まだ毒が塗り込められている。土を、大気を、家屋を汚す黒い草、黒い茎。庭木にくくりつけたブランコ、藁ふきの屋根、麦を積んだ荷馬車の車輪、背丈より長い緑の茎を肩に運んだ二人の子供。記憶は確かな事実として僕の頭の中に残っている。白いベールで日々二重三重に覆われながら、まだ「ある」と、虚空に手を挙げてしがみついている。



 彼は薄く目を開けた。目覚めたのは遠くで鳴く鳥の声のせいだった。窓を通り抜けたやや明るい日差しを頬に受けながら、腰を折って体を起こした。台所とこちら側を仕切るガラスが左手にあり、右手にはくりぼうを挟んで青年と少年がすうすう寝息を立てている。
半ば寝ぼけた頭で、彼は自分がいる位置を確認した。額に手を当てて髪を掻き上げる。汗ばんでいるのを何故だろうと思いながら、その答えを容易に足下に見つけた。くりぼうは青年の腕に巻き付くように隣で眠っているが、掛け布団を足で蹴ってしまっている。それが全部自分の腹の方に押し寄せられているのだ。気温が高いので寝冷えすることはないだろう。どちらかというと、くりぼうにしがみつかれているラズの方の表情の方が険しい。子供って体温高いからなぁ、と助けるでもなく目を逸らす。二人の向こうで安眠している透の方は、一人だけちゃっかりと厚めのタオルケットを布団代わりにして、適度に良好な状態を保っている。冬用の羽毛布団にプレスされている自分とは大違いだ。安堵かどうなのかも分からない吐息をして、彼はそろそろと足を立てた。

「フレイーーーっ」
バックに荷物を詰めているフレイに向かって、足音がどたどた近づいた。誰よりも遅くまで寝ていたのに、一番目を丸くして大きな声を出す。フレイが起きてから程なくしてラズが起床し、透はいつも通りの定時だ。それでもくりぼうよりいくらかは早い。ラズは無言でトースターを囓り、透はジャムの蓋が固くて開かないとぶつぶつ言っている。朝食の食卓の風景は、大抵こんな感じだ。布団を畳んでねと言われて、くりぼうは素直に行動に移しながらも喋りかける。
それもそのはず、フレイがこんな朝っぱらから旅行鞄を用意しているなんて、ここ最近は滅多にないことだったから。
「フレイ、またお仕事なの」
「そうだよ、今度はビフテキ一人三枚くらい食べれるよー」
人が聞いたら涙を誘うような受け答え。くりぼうは「ビフテキ!」と、幸せそうに口元を緩ませる。とても素直な反応だ。
「今度は何するの」
「うーん、宝探し…かなぁ?」
「宝!?」
くりぼうは昨夜見た冒険物のドラマの影響あって、目を輝かせる。透からはなんで疑問型なんだよと合いの手が入った。
「仕事の内容くらい分かってろよ」
「あ、ひどい透。僕のこと行き当たりばったりだと思ってるでしょう」
「食事以外はほとんどそうだろうが。なぁ、ラズ」
「あいつの場合、生き方そのものが行き当たりばったりだ」
「ぐ…」
普段礼儀という物を欠かさないはずのラズは、身内に対しては遠慮ない。同居を始めたのが四年前だというから、今更間にクッション一つ置くのも面倒なだけに違いないが、人が作ったものを食べながらグサリ刺す辺り、ラズも相当なものである。四年前というと、フレイはまだ十五、六歳。そんなふうに言われてもまぁ仕方ないなと、自分を棚上げにして透は思うが、フレイは立ち直るのも早かった。気を取り直して持ち物を再度詰めに入る。
「今日は顔合わせみたいなもんだから、明日には一度帰るよ。忙しくなるのは夏後半から冬開けにかけてだね。後始末もあるから」
今までに比べると格段に長期だが、それだけ実入りのいい話ということだろう。内容が曖昧なのはいつものことなので、くりぼう以外であえて口を挟もうとする者はいない。
「宝物って、砂漠の洞穴にあるんだよね!!爆発してバーンて鳴って、崖から飛び降りるの」
「スタントマンかぁ、それも面白そうだね」
「やめておけ」
「なにラズ、心配してくれるの。やっさしー」
「導火線間違って他に死人が出る」
「…」
「ラズってフレイに厳しいよね」
「ていうか容赦ないよな」
くりぼうと透が同方向を見ながら頷く。ラズは心外だという表情を少しだけ眉に表し、マーガリンを塗りつけたトーストを口にした。
「フレイ、気にしないでね。僕ちゃんとお墓つくるから」
「お前の方が酷いよ」
もう誰も話しかけない方がいいのではないだろうか。本当のところ、一番ダメージを与えているのはくりぼうなのだが、当の本人は供養塚を建てる気満々な笑みを浮かべている。
「まだ死ぬ気はないんだけど。えぇっと、あ、時間もうこんな経ってる」
腕時計に目をやって、フレイは慌ただしく周囲を見渡したが、そのうち「まぁいっか」と重そうに腰を上げた。どうせ一日分だから何とでもなると思っているに違いない。台所にぴょんと入ってきて、透が半分残したトーストを牛乳と一緒に喉に流し込む。
「夕飯は作り置きしてあるから、後は勝手に食べててね」
「騒々しかったのはそれか」
「起きてたのラズ」
「お前は老人並みに朝が早すぎる」
出掛ける当日まで食事の世話をする必要ないだろうに、フレイは「まぁ趣味みたいなもんだから」と言って口を拭った。
「約束は約束だから。…あ、もう行かなきゃ」
「財布だけは忘れんなよ」
「なんか透今日お母さんみたいだ。ちょっと感激ー」
「ティッシュとハンカチも!」
「ありがとね、くりぼう」
子供に気を使われる様は見ていて面白いものがある。思いやりが心に染み入ると、先ほど言われたことを忘れたのか、フレイはよよよと袖で涙を拭う振りをした。だが時間は時間。ふざけている間も、鞄を取りに隣部屋には戻る。玄関には一応見送り部隊が揃っていた。
「じゃぁね、くりぼう、透、―」
一人ずつちゃんと名前を呼んでいき、最後に我関せずといった態度で突っ立っているラズに目を向けたフレイは、何故か透の方をじっと見た。嫌な予感がする。にやあっと楽しそうに微笑むこれは、ああ、奴が何かすごくろくでもないことを考えている時の顔だ。
「出掛ける時には一言、ってね」
「あ」
「あ”ぁ?!」
二名合唱。その間、二本の腕がふわりとラズの肩に伸び、後頭部をその手で支えた。
「行ってきます―」
耳元で何事かを続け様に囁かれたラズは、完全に石像と化した。勝利の笑みを浮かべたフレイは啄むように頬に触れ、さっと顔を引っ込める。軽やかな動作でドアを開き、手を振って消えていった。
後に残された、長く重苦しい沈黙。やり逃げとはこの事だ。「おー」と感動の音を上げているのはくりぼうだけ。透は熱に浮かされる気分で冷や汗流しながら、バネで閉じゆくドアに視線を釘付けた。
(嫌がらせだ)
(絶対、嫌がらせだ!!)
「…透」
「…」
ラズの表情を確かめるのが恐ろしくて、透は返す言葉を持たない。
言ったよ、あぁ言ったさ。もはや開き直りに近かったが、それが何だと胸を張れるほど怖い物知らずでもない。さっきの仕返しだと思ってくれないかな、思わないかな、などと甘いことを考えるも、透に対して向けられた意味ありげな微笑を、ラズが見逃したはずがなかった。
「あれに何か言ったか」
「…」
透は、俺は悪くないのにと涙しつつ、それでも丁重に謝った。



フレイは駅に直行した。改札を抜けてキオスクで飲料水と腹持ちが良さそうな食料を買うと、テンポ良く特急が入ってきた。指定席を要求したのだが「このくらいの距離で四の五の言うな」との先方のおたっしで、自由席の切符を頂戴済みである。乗り込むと、平日のためかすぐ空席が見付かった。何人かの若い男女と子供を連れた老夫婦が同様に空席を見付け、ほっとした顔付きで腰を下ろした。フレイは加速していく景色をしばしの間見つめていたが、やがてそれにも飽きたように目をつぶった。
―にしてもラズのあの顔といったら。
思い出すと噴きそうになる。攻撃は最大の防御、とはよく言ったものだ。フレイが切った肉は己の評価で、裁った骨はラズなのだが、今回骨には透という筋がセットでお得に付いている。実際自分の肉1ポンドくらい平気で軟骨と引き替えるのがフレイという人間である。
(僕ん家なんてしょっちゅうだったけどな)
込み上げてくる懐かしいもの。だが笑みは半端なところで波引いた。
「おりかわはん」
全席の男性の二人連れが話している。
「おりかわはんてば、なんや起きてたんとちゃうんか。肩動かしても目ぇ開けんからどないしよう思うたわ。次やで、次。一区間で寝ぇへんといて欲しいわ」
「う、わわわ。切符、切符どこにいった!…あ、あった。良かったー」
「仕方ないなぁほんま」
「残業続きやったし頭ぼうっとしてもうて」
「あちらさんにあげる土産も忘れんといて」
そう言って、わははと豪快に肩を揺すり合う。車両のスピーカーが、次に止まる駅名と時刻を告げた。列車はそれからゆっくりと速度を落とし、二人連れは紙袋を両手に昇降口へ消えていった。

"賭をしようか―"

鞄に差し込んでいたウォークマンを取り出し、イアホンを耳にした。
歌詞を口ずさむ事は簡単、だがフレイが最も解する国語ではない。目を開くと山の緑が延々と伸びている。なだらかに続く平野の田植え地と、ビニール栽培の低いテントがその麓に並ぶ。やがてナズナの咲く落地が出現したが、その黄色い帯はあっという間に窓の隅へ押し流された。

"とても単純な賭だ、君がどうしても彼を殺したいというのなら―"

空色を張り付けた目で、フレイは自分の手元を見る。荷物は着替えと少しばかりの食料、他には何も持ってきていない。

あの人は違う―。

自分とよく似た声が、耳元でそう囁いた。



同じ曲をリプレイし続け、さすがに飽きてきたところでようやく目的地に着いた。足を降ろすのもやめたいくらい、人、人、人、で溢れかえっている。都会に憧れ上京する人間は多いが、自分は遠慮したい。今回の仕事を渋りまくったのも、人酔いが一つの原因ではある。
早くも帰りたい病に冒されながら、フレイは仕方なしといった顔付きで地下鉄に向かった。乗り継ぎを繰り返し都心より東に出ると、若干呼吸しやすくなった。バッグのサイドポケットにつっこんだハガキを取り出して、裏に書かれた住所を眺めたフレイは、通りすがりに道を尋ねながら暫く歩いていたが、ふと往路で立ち止まったかと思うと、踵を返して急に方向を転換した。何かを確かめるような顔付きで、次第に早足になっていく。先ほどのやる気のない足取りに比べれば、それには確固たる意思が伴っていた。
やがて緑が生い茂る並木が姿を現した。よちよち歩きの幼児の手を引く女性の姿が目に入った。入り口のアーチをくぐり、中へと入る。砂利を敷き詰めて固めた道は、散歩する人の目に優しいよう、ベージュに塗られている。しばらく行くと円形の芝生が正面に見えた。サッカーボールを追いかける子供や、バドミントンの羽根に飛びつく若者の姿がある。その円周上を半分ほど行って、孤より左に少し逸れた分かれ道に入ると、今度は白い時計塔にぶつかる。直方体のよくある造りだ。針のある盤面にも、それほど凝った趣向は見られない。だがてっぺんで風を受けて回転する風見鶏が、待ち合わせの目印として利用されていることを、フレイは知っている。「彼」がいた頃よりも、少しばかり汚れたかも知れない。だがなくなってはいなかった。ここからなら、休日を満喫する親子の姿や、公園に咲き乱れる季節の花もよく見える。
近づくと、木製のベンチの下にたむろっていた鳩達が飛びずさんで羽音を立てた。人に慣れているようだが、足下までは近づいてこない。席を見下ろすだけで一向に座ろうとしない青年の周囲をうろつきながら、不思議そうに喉を鳴らしている。

"―お前がまだ憎むというのなら、それでもいい"

「彼」はもうここにはいない。



 再び歩き出したフレイは、記憶の断片を頼りに、時に風景の既視感に導かれ、いつしか人寂しい外れに道を選んだ。途中ホースを片手に庭木に水を撒いている男性に、この辺りに二、三年人が住んでいない家屋がないか尋ねた。始め首を捻っていたが、フレイが口にした名前を聞いて、「あぁ、それなら」と、先に見えている小山を指さした。
「間違いないよ。凄い有名だけど、人嫌いでも有名だったから。家の所在を知っているのはこの辺りの者ぐらいだ」
フレイは苦笑した。「彼」に対する評価を人から聞いて、そんな人だったと思い出したからだった。
落ちた白木の枝を踏み、フレイは緑の中へ埋没していく。木々の数は迷うほど多くはなく、振り返れば古ぼけた家屋がぽつりぽつりと並んでいるのが遠くに見える。発達めざましい『都市』の片隅で、ここは奇跡のように息を殺し続けている。頭上で鳴いた鳥が飛び去った。数分もしないうちに、その家は現れた。
誰かが手入れをしているのか、フレイが予想していたより形は崩れていなかった。キャンプ地のログハウスのように、丸太を屋根に組んでいる。ガラス窓には淡いピンクのカーテンが引かれていた。中は見えない。昔、家人はモズを飼っていたはずだが、それがどうなったのかフレイは知らない。ただ見覚えのある錆びた鳥かごを、裏の納屋に見付けた。戻ってきてポーチの階段に腰を下ろす。呼びつけたのはあちらだから、誰かは来るだろう。暇をもてあましてジーンズのポケットに突っ込んでいたウォークマンを再生した。列車の中で何度も聞いて覚えてしまったが、差し込み口に入れていたこれしか持ってきていないのだから仕方ない。膝に頬杖をつき、掠れた声を唇に乗せた。


―Sometimes I get to feelin' ―


十五分ほどして、管理人らしき男がやって来た。五十を過ぎたぐらいの、割と年輩の人だ。フレイを見て何やら目を見張ったが、ハガキを見せるとすぐに鍵を開けてくれた。
「ちょっと驚いたよ、こんな若い人だとは思っていなかったから」
まぁ自分は言われた事をやるだけだから、そんなふうに言う。
「窓に打っておいた板は今朝方外しておいた。週に一日掃除に来ているから、埃とかは大丈夫。足の踏み場もないこいつらが邪魔だけど、あんたそれを片付けるために来たんだろう。浦賀氏の知り合いか何かかい」
「まぁ、そんなところです」
フレイは適当に流した。
「じゃぁ、女史さんが後で来ると思うからそれまで中で待っていてくれ。私は鍵を開けに来ただけだから。トイレだけは使えるようにしておいたよ。あぁ、でも作品だけにはくれぐれも傷つけないようにって、女史さんからの伝言だ」
「分かりました」
管理人はカーテンだけ全部開き、フレイに鍵のスペアを渡して早々に出ていった。
部屋のあちこちには黄ばんだシーツが掛かっている。捲らなくても下に何があるのか分かる。単独者には広すぎるスペースを埋めるように、大小様々の張りキャンバスが放っておかれているのだ。それ以外にも何十個もの紙袋に、それぞれ包装紙やらスケッチブックが束になって突っ込まれている。中の一つを手にとって捲ると、狂うように鉛筆を走らせたラフ画があった。丸い輪郭は赤ん坊の頭部だろうか、目鼻らしき点がうっすらと見える。他のスケッチブックも、作品とは言い難い落書きのような物ばかりだ。お飾り程度に備えてある棚も、からからになった絵の具がこびり付いているベニヤパレットやオイル瓶、先の固まった筆やスプレーなどの画材道具が押し込められ、その重みで一部が破損している。描く事以外の用をいっさい感じさせない、それだけの場所。狂人、という言葉が脳裏を過ぎった。
巨大な芋虫を連想させるシーツの塊の群れから目を離し、意識を壁に向けた。振り子式の壁時計の針は止まっている。コルクボードが玄関の戸を入った右に掛かっているのを見付けた。画鋲で何か留めていた痕があるが、捨てられたのか、メモの類は残されていなかった。木板に手を当てながらギャラリーを一周すると、奥の左右にドアが付いている。中の一つは洗面台、もう片方は台所になっていた。台所の調理器具は全て洗い場のステンレス台に裏返しにして置かれている。誰かが片付けたというより、長い間使用されることなく放置されているという感じだった。


『画伯はなんでここにいるの』

『他に行く場所がないからだ』

『僕みたいに』

『お前のように』

『一番描きたかった物を、忘れてしまったから』



壁板に傷がある。『フレーヤ』のたどたどしいカタカナと、身長を彫った三桁の数字。彫りを指でなぞって、はたと視界に映り込んだ物に近づいた。一人住まいの学生が購入するぐらいのサイズの冷蔵庫、一枚が開き戸になっているタイプだ。食材などを置くカウンターのすぐ隣にあった。開いても当然何も入っていない。住み込みの時の食料はどうなるのだろう、そんな事を思ってみる。膝を立ち上げて他へ行こうとしたフレイの目がある場所に止まった。冷蔵庫とカウンターの間の細い隙間。何か落ちている。何とか指の先を差し入れて、端をつまんで出した。これは。


『何でもいい、描きたくなったら描きなさい』

『描きたい物なんてないよ、絵なんて嫌い、大嫌いだ』

『でも君は思い出したいのではないのかね。君だけが知っている、君だけの場所を』



見付かるのが恥ずかしくて、自分がそこに隠したのか、それとも何かの拍子に挟み込まれてしまったのか。埃をかぶり大分色が薄くなっている。描かれているのは、黄色い花を肩にした一人の少年と一人の女性。背景に書き込まれた小さな家。少年の足にじゃれつく羊の綿毛。水色と金に挟まれた遠い憧憬―。

永遠がそこにあった。