ままごとです。-17-


コーダは電話を切った。ボックスから出て、外で待っている身なりの良い老人に場所を譲った。天気は上々だが、スコールの予報がなされていた。空の移り気の速さは日常茶飯事のことなので、気にしてもしょうがない。携帯を充電し忘れて今日は持ってきていない。アシュリーの番号も、かかってきたら入れよう。

コーダの養父母の家は、ロンドンを西に離れたウエンブリーにある。義祖父の経営するドルトン社は、CITYのど真ん中に本社を構えている。注釈を入れるなら、ここでいうCITYとは一つの行政区であって、三十三の行政区に分けられるロンドンの、まさに中核街である。ロンドン内部・近郊で人々が言うシティとは、普通この区を指す。よって金融ビジネスを一手に引き受けるシティに君臨することは、それだけで相当な大業を意味する。
祖父がその社長を務めるとなれば鼻を高くもするはずだが、コーダにとってその話はあまり気の休まる話ではなかった。田舎に慣れ親しんできたコーダには、都市の空気はあまりに尊大で、そして突拍子もなかった。遠足気分で歩いてみれば、バスがひっきりなしに往路を走り回り、道端に座り込んだ怪しい中年男が、金はあるかと言ってふらふら手をかざしてくる。道に迷って地図を開いていると、頭髪を真中以外剃って鶏冠のように立てた青年から「よう、どこから来た」とはやし立てられ、大急ぎで近くの店に飛び込むと、今度は犬を連れたマダムとぶつかり、きつい香水を嫌と言うほど浴びた。文化が入り乱れたそんなところが、この大都市を魅力的に仕立てているのだが、来たばかりの頃、何とも場違いである気分になったのは確かだ。面白いと思えるまでに余裕が出てきたのは、つい最近になってからである。
(アシュリーはすぐ慣れるんだろうなぁ)
施設の中でも、アシュリーは人一倍目立っていた。勉強出来るし、走るのも速いし、私立の入学試験にもパス出来たなんて、凄く格好良い。彼女が行くフェリアン女学校は、カトリック系のパブリックスクールで、土地の時価が高くて有名なウェストミンスター区にある。清貧・貞潔・従順を三本柱にした、頭カチカチの進学校として有名だから、自分みたいなのは(男だけど)きっと苦労するだろうが、王女様みたいに誇り高いアシュリーなら、願ったりに違いない。
コーダも始めこそ祖父に全寮制のパブリックスクールを勧められたが、将来は技師かプログラマーになりたいとの希望があったので断った。今は公立のセカンダリー・スクールに通っている。卒業後は専門学校に入るつもりだ。大学を受験するならかなりの努力を強いられるだろうが、それほど規則も厳しくなく、比較的ゆったりとした時間割なのも自分に合っていると思う。
それにしても、とコーダは首を捻った。
今日のアシュリーは何だか変だった。前はハザーの事一つ聞いてもカリカリしていたのに、さっきの声はどことなくぼうっとしていて、元気がないように感じられた。屋敷に越してきたばかりだというから、疲れが抜けてないだけかも知れない。だけど、あんなに知りたがっていた事なのに、「そうだっけ」はない。ハザーの先代と友人だったという祖父に、養母から取り次いでもらってまで、ラズリエルの事を聞いてもらったのだ。もちろん「日本の知り合いに、英国人とのハーフがいないか」といった程度のことで、それでアシュリーの身内となる人を特定出来るなんて思ってもいなかったが、思いついたことをとりあえず実行しなければ、彼女は気が済まない質なのだ。
アシュリーのそういう性格を十分に知っているからこそ、まるで他人事のように相づちを打つアシュリーの様子が気になった。
「…よし!」
コーダはハイドパーク沿いの地下鉄に走っていった。乗り場では三十歳半ばほどの女性がジュースと新聞を台に載せて搬入しているところだった。
「すみません、国立図書館に行くにはどこで降りればいいですか」
女性は気持ちよく答えてくれた。
「あら坊や、ロンドンは初めて?ここはマーブルアーチだから、トーテムコートロードで乗り換えて、ユーストンに降りるのが良いわね」
「そうですか、ありがとうございます」
「それとコリンデールって、ここから北に上がったところに、新聞図書館があるわ。国立と比べたらボロいけど、新聞の事だけならもの凄い量の資材があるから、そっちに行く学生さんも沢山いるわね」
新聞、と聞いてコーダの目が光る。
「そっちもこの駅から行けますか」
「ええ、ユーストンで降りずにいれば着くわ。切符売り場の方に路線地図があるから見てごらんなさい」
「ありがとうございます!」
コーダは切符売り場の方に走って行った。



*  *  *



ロンドン大学に近いユーストン駅から、さらに北上していくと、車内の人はだんだんとまばらになっていった。ロンドンの地下鉄は深い。大戦時に防空壕として使用された過去があり、昇降口とホームを繋ぐエスカレーターが恐ろしく長い。コリンデール駅で降りると、簡素に舗装された道が続いていて、木々の緑もよく目に付く。遊びではシティに負けるが、静かで住みやすそうな場所だ。そのせいか、北地区には日本人の姿がよく見かけられる。

新聞図書館を訪ねてみると、受付の女性が黒眼鏡を布で拭いていた。
コーダに気付くと、司書らしい応対で眼鏡をかけ直した。
「こんにちは、見ない顔ね」
「こんにちは、調べ物をしたくて来たんです」
ちょっと待ってね、と受付の女性は図書館の奥を少し眺めて、コーダに聞いてきた。
「何を調べるのかしら。ここは小説とか、読み物の類は豊富じゃないの。でも新聞なら、ありとあらゆる社で発行されたのが全部取ってあるわ」
「そうですか、良かった。学校の課題で、おもしろいと思う記事を見付けて調べてるんです。八十年代の新聞を閲覧出来ますか」
「それじゃいっぱいありすぎるわ」
「じゃあ、八四年の十二月と、五年の一月を下さい。とりあえずタイムズ紙と夕刊で」
「日付は?」
「二十四日と二十九日、あと、新年明けの一週間を」
メモ書きして、司書は奥を指さした。
「あちらの椅子に座って待っていて。あと、この用紙に名前と目的を書いて頂戴。学生証はある?」
用紙を記入して、閲覧室で暫くぼうっとした。交付金が行き届いていないのか、床の一部はギシギシ音が鳴る。国立は煉瓦色の真新しい建築物だが、こちらの図書館には歴史を感じさせる風情がまだ残っていた。来館者が少ないためか、司書はすぐに資料を集めて台に持ってきてくれた。
「はい、どうぞ。コピーしたい時は声をかけてね」
新聞は全部で十八部ある。一般の発刊書はカバーがしてあるから、そうそう早く痛まないが、新聞は老朽が顕著に現れる。閲覧用に持ってきてくれた物は、すでに端の方が折れていたり変色していたりしている。これでは保存に特に注意が必要だろう。
山のように積み重なっている新聞を、上から順に手に取っていく。二十四日は、一面紙に公園のイルミネーション風景があり、教会のミサの様子や、市場の賑わう様子を撮った写真が収められている。
二十九日には、まだ失踪のことは載っていない。年末を控えて、いつもより紙面の量は分厚い。
年明けの二日。朝刊の中程の一面に目が止まった。
『ダニエル証券社長、失踪』
副社長がインタビューに困惑気味に答えている写真が、見出しに飾られている。記事を挟んだ下にもう一つ、ハンカチを目に押しやった老女の写真があった。先代の妻、サリサである。
『若くして経営を担ったクロフォード・ハザーが、忽然と姿を消したのは、昨年十二月二十八日のこと。時間になっても出社しないのを不審に思った社員が自宅に電話を入れたところ、事件が発覚した。夫の失踪について、妻マリエ・ハザーには全く心当たりがなく、二十六日の朝に『用事があるから遅くなる』というようなことを残して家を出たという。実際、クリスマス休暇が明けた二十七日の夜、社員の一人がクロフォード自身から電話を受けたと証言している。社株価値は上昇傾向にあり、経営面で問題ないとしているが、何らかの事件に巻き込まれた可能性があるとして、警察は調べを進めている』
読んでいて「あれ」と思うところがあった。以前インターネットを通して調べたものは、あたかも二九日に失踪したように書かれていたが、厳密には間違いだ。この記事によると、実際は二八日の朝からクロフォードとの交信が途絶えていたことになる。二九日というのは、マリエが社から電話を受けた日だ。その日になって初めて異常が分かり、足早く報道陣に嗅ぎ付かれたということか。年末は事件についてさほど詳しいことは掲載されておらず、失踪の日付も二九日になっている。まだ詳細が定かでなかったために、こうなったのだろう。年明けの二日以降は、二八日だと分かる書き方になっている。
だがそうだとすると、束の間の休日が終わってから二七、二八日の二日間、マリエは帰らない夫を待ちながら右往左往していたことになる。あまり人前に出たがらない性格のようだとアシュリーが零していたから、それで社にも電話出来なかったのだろうか。随分長い間こちらで暮らしているのだから、喋るのが億劫だったとは思えない。だがそうだとしても、誰かに不安を話してもよさそうなものだが。例えば住み込みのメイドなんかに―。

男の大声が館内に響いたのはその時だ。
「何だって貸し出し出来ねぇんだよ!ここは図書館だろうが!」
テーブルで本を読んでいた数人が、カウンターの方を見上げた。コーダも驚いて、新聞から目を上げた。ロゴ入りの灰色パーカーにジーンズ姿の男が、司書に食ってかかっている。
「だから、新聞は他の発行物と違い、保存に人一倍気を使うのですと申し上げているでしょう。必要ならコピーを取ってください」
「そんな事言ったって、一枚10ペンスかかるんだろうが。そんなちまちましたことやってられっか!」
「お出来にならないのなら、諦めてくださいませ」
司書は冷ややかにそう言い、席を立とうとする。
「あ、待て!分かった、分かったよ。なら閲覧でいいから資料出してくれ。わざわざ一覧表まで作ってきたんだからよ」
嫌そうにそのメモを見た司書は、何故かコーダのいる方を向いた。
そしてメモを男に返して言った。
「こちらにある新聞は、あすこにいられる学生がお使いになってます」
「あぁ?夕刊もか?」
「そうです、暫くお待ち下さい」
「待つってどれくらい」
「あちらが読み終わるまでです」
だあああっと、男は地団駄踏んだ。事の成り行きを見ていた人々は、やれやれといった表情で、自分の読んでいた本に目を返した。
「そんな気の長いこと出来るか!…おい、お前!」
男は早足でコーダの元に歩み寄り、新聞の山に掴みかかった。
「な、何なんですか」
「うるせぇ!生活懸かってるんだよ、育ちのいい坊ちゃんは余所へ行け!…何だ、これも、これも、俺が見たかったやつばっかじゃねぇか」
「何してる!」
男性職員が二名駆けつけてきてくれた。男は言い訳しつつも、羽交い締めしようとする職員に向かって罵声を浴びせかける。
「離せ、離せって!ちょっと見たかっただけなんだってば。おい、客つまみ出すつもりか」
「営業妨害だ」
「営業って、お前ら交付金で食ってるんだろうがっ。こちとら毎日食うか食われるかでやってんだ、少しくらい大目に見ろ!!」
男に味方する者は当然おらず、体を斜めにして男が引きずられる。
「ちくしょう、五分でいいんだ!せめてコピーぐらいさせてくれ。タイムズ紙の!八ページ!!」
男の口から発せられた言葉に、コーダははっとした。職員が玄関から男を放り出そうとするのを、慌てて止めて入った。
「あの、ちょっと!」
今度はコーダの方が職員に睨まれた。
「僕は共有でいいですから」
「だがね、君」
職員が何か言うより早く、男は脇に当てられた手を振り解いてコーダのテーブルに走り寄ってきた。
「ありがてえ」
男はコーダに礼を言うでもなく椅子に座り、新聞の紙面に頭を突っ込んだ。職員は面白くなさそうに男とコーダを見たが、肩を竦めて事務室に消えた。
息を付いたコーダがテーブルに目を戻すと、猫背の男が三日の朝刊を開いていた。ひっひっ、と嬉しそうな声を上げている。八ページ目の何を見たいのだろう。
「おじさん」
声をかけると、男は初めてコーダを見上げた。
「おお、ぼうず。ありがとな。国立まで出直す手間が省けたぜ…ええと、二日のはこっちか。もう開いてるじゃねえか」
男はコーダが見ていた新聞を、そのまま横に滑らすように自分の手元に寄せた。見ているのは、やはりクロフォード失踪の記事がある箇所だ。
周囲を窺い、コーダは小声で男に話しかけた。何だか気になる。
「おじさん、何調べてるの」
「何ってお前、儲け話よ」
ひっひっ、とまた笑う。男の背丈はそれほど高くない。座高はコーダの方が高いくらいだ。ほとんど禿げ上がった頭に、紺色のスポーツキャップを被っている。何気なさを装って、コーダは言った。
「そこってダニエル証券のニュースだよね。社長が行方不明になったっていう」
「よく知ってんな、ぼうず」
「宿題でここ数年の政治経済の動向を調べてるんだ。ねぇ、何か面白い話知らない?他の奴等に差をつけたいんだ」
そうだなぁ、と男は機嫌が良さそうな声を出した。コーダが新聞を譲ったのが幸をなしたらしい。上目遣いの、何やらうきうきした様子で、先を聞いてくれと言わんばかりの表情だ。
「ぼうず、ここだけの話だから秘密にしとけよ。俺の考えが当たっていれば凄い記事になるぜ、これ」
「もったいぶってないで教えてよ」
「間違ってもお前発表なんてするんじゃないぞ。今度は自信がある一品なんだからよ。今まで散々俺を門前払いしてきた奴等に、目に物見せてやる」
禿頭は、コーダが見ていた紙面をさらに二、三ページ後ろに捲った。
財宝を探し当てたかのように、目が爛々としている。
「あの病院が社長を脅してたなんてよぉ、世は下克上ってのはこの事だぜ、まさしく」
男が捲った場所には、広告写真が大きく張り出されている。頭に包帯を巻いた男の子が、隣の女の子にキスしているのを撮った物だ。

『私のサンタは何処へ?』

写真を飾る文字と、その下に小さく表記された広告主の名前。
愉快そうに男が笑う。
「俺が調べたんだから誰にも言うなよ。この広告を出した病院は、ダニエル社が創設したプライベート医院なんだがな、―N.H.S.病院との違いぐらい分かるよな。N.H.Sは国営の医療制度で、保険料を支払っていれば基本的に診療は無料になる。逆に、金はかかるが手厚いサービスを受けられるのがプライベート医院。まぁ説明はここらへんにしておいて、数年前にクロフォード氏が失踪したってのはここに書いてある通りだ。面白いのはダニエル社が出資した金額さ。失踪するまでに三度、クロフォードの名前で、常時の三倍の額が出されてる」
こりゃ俺の想像だがよ―男は背もたれから体を離した。
「氏の失踪には八割九分、この病院が絡んでる。聞けば最近独立を計っているそうじゃねえか、このアルデリーっていう病院は」
コピーを取りに男が席を立った。軽やかに口笛まで吹いている。
司書がそれを見て眉を潜める。テーブルに残された紙面には、恥ずかしそうに笑い合っている幼い子供が二人。
「―大変だ」
コーダの目が写真に釘付けになった。