ままごとです。-16-


小さい時に見た夢を覚えている。真っ白なお城の中庭で、レースをふんだんに縫い付けたドレスを着ていた。昼と夜、食卓のテーブルには果実と肉を盛った皿がいっぱい並んで、私は淑女らしく、音を立てずに食べる。夢の中での王妃様は、私の母ではなかった。母は給仕が住むお城の角で、立派な絨毯を縫うために仕事をし、そこは高貴なる者が立ち入る場所ではなかった。王妃様は私のことを「可愛い私の娘」と言って、傷一つない指で頭を撫でてくれた。そうして中庭を並んで歩きながら、回廊の向こうに母の顔を見付ける。母は黙って絨毯の模様を織っていた。夢はそこで終わった。



「アシュリー様」
執事が少女の名を呼んだ。二階の自室の窓を開け、桟にもたれかかっている所だった。アシュリーが振り返ると、丸眼鏡の身なりのいい紳士がいた。ドアを開きっぱなしにしておいたから、ノックをしようにも出来なかったようだ。突然声をおかけしてすみませんと、律儀に執事は謝った。
「いえ―、風通しをよくしたくて。もう閉めます」
留め金に手を伸ばして、アシュリーは窓を閉めた。
マズローから市内の屋敷に移って一週間になる。車で移動する間、ケンブリッジ郊外の閑散とした街並みが、シティのビル群に変わる様を眺めていた。屋敷の運転手が案内してくれたが、彼は無愛想すぎて、車内で交わした世間話は二言三言だけだったと思う。
「御昼食が出来ました。下においで下さい」
自分の荷物は、着いた時に全て解いた。施設で使用していた古着は一応全部持ってきたが、開き戸の白い洋服ダンスには何とも不釣り合いで、恥ずかしくなって隅に丸めてしまった。今着ているワインカラーのワンピースは、ハザーが懇意にしている子供服会社の製品だ。旅疲れの夜、寝間着と一緒に何着かを箱にしてもらった。これまで着たことがない、高そうな服ばかりだ。
 到着して翌日、執事のウェインが屋敷の中を案内してくれた。二階の通路は、階段の上で二方に別れている。左の通路には、奥に真梨江の寝室、その隣に彼の夫が使用していた執務室が並ぶ。右の通路には、奥に先代が使用していた寝室、応接室がその横に並ぶ。つまり二階には、全部で四つの部屋があることになる。アシュリーに宛われたのは応接室の方で、ソファとテーブルが残されている他、寝室としての家具が一通り揃えてあった。真梨江の部屋に行こうと思ったら、吹き抜けの階段の踊り場に一旦降りて、もう一度階段を登り直さなければならない。現在使用されていない執務室と先代の寝室には鍵がかけられており、それらを含めた錠の束を、執事が管理している。
下に降りると、円状の大ホールを横断して廊下が伸び、こちらは右にも左にも二室ずつ客室が備え付けられている。玄関を上がった小ホールと廊下が接してできる角には、庭に面して突き出た部屋が左右一つずつある。屋敷を訪れた客は、玄関から入って左側の居間に通される。右の部屋は、これから向かう食事室。客室の裏には細い通路があり、こちらは左右合わせて六つの部屋が並ぶ。住み込みの給仕達に与えられているものだ。
執事の後ろを歩いていると、左側の廊下に掛けられた紺色のカーテンが目に映る。ウェインに改装中だから入らないようにと言われていた場所だ。気になってカーテンの裾を少し捲ってもらったが、段ボールが幾つも床に運び込まれているのが見えただけだった。箱と箱の間を縫って歩くには、かなり苦労しそうな感じがした。
一階は左右が同じ造りだというので、右の客室へ試しに案内してもらった。中を覗くと何の変哲もない、ホテルによくある作りだった。しいて言うなら、暖炉の右上にヒーターが取り付けられているのが可笑しい感じがしたという、それだけ。
カーテンは今もぴたりと閉じている。サテンの質のいい生地だが、向こう側の客室に対する興味はもう消えていた。
「ウェインさん」
食事室に入る前に、アシュリーは尋ねた。
「マリエは今日は降りてくるの」
真梨江は病気がちで、階下に降りてくることがあまりないのだという。食事も自室でとるのが習慣で、食事室の椅子につく姿を、ここに来てから一度も見たことがない。寝る間を惜しんで挨拶をあれやこれやと考えていたアシュリーには、何だか物足りなく感じられる。
執事は「申し訳ありません」と答えた。
「冬の寒さが今頃になって現れたようです。ですが今朝は言伝を預かっておりますよ」
それを聞いて、アシュリーの顔がぱっと華やぐ。
「何と言ってらしたの?」
「何日か顔を会わせられないが気を悪くしないで欲しい、と。欲しいと思っていた一人娘に風邪をうつしては大変だから、症状が落ち着いたらご自分で会われるとおっしゃっていました。どうかもう暫くお待ち下さいませ。真梨江様はすっかり用意出来てからでないと、なかなか人と面会されないのです」
普通の家庭ならおかしな話だが、ハザーは英国でも名高い名門だ。血筋は商才に恵まれており、曾祖父から続く家業を、時代に取り残されず維持している。それ故現当主であるクロフォードが失踪した事件は、大々的に報じられることとなったのだが。
彼について尋ねると、ウェインの口は重くなる。一族は泉の水を波立たせるような事態を好まない。彼の口振りからは、残されたマリエが周囲から謂われのない誹謗を受け傷ついた事が窺われた。彼女の義母にあたるサリサ・ドロウは元伯爵の血を持ち合わせ、ハザーに輿入れしてからも人一倍自尊心が高く、息子が娶った日本人妻を可愛がりはしなかったようだ。執事が大奥様と呼ぶ彼女は、真梨江が息子を生んですぐ、西の海岸沿いにある別荘に移り住んだ。心臓を患っての療養だとおっしゃってはいたが、混血の孫の顔を見たくないほどに、東の国に対して侮蔑した感情を持っていらしたと、ウェインは残念なふうに語った。息子が失踪した当時、ただ一度屋敷に戻り、真梨江をなじり、不甲斐ないと怒り、見付かるまでロンドン紙に広告を出すと言って、定期的に新聞に記事を載せるよう指示を出した。しかしそれも八年前、療養先の病院から屋敷を経由して宛てた封が最後になった。余命幾ばくもないと悟ったサリサは、捜索の引継を真梨江に任せるという内容を送りつけ、間もなくこの世を去った。
「大奥様は純血という物に大層こだわっておりました…自分の反対を押し切ってのご結婚を、良く思っていらっしゃらなかったのです」
「それでも息子の事は大事だったのね」
「左様です、ですがご子息様―ラズリエル様の事は、お亡くなりになる最後まで、口に出すことはありませんでした」
義兄となるその名前を聞くと、アシュリーの胸はちりちりと痛む。
マリエに望まれ、大切に育ててこられたハザーの嫡子。サリサがどんなに彼を嫌っていたとしても、彼はここに生まれ、居場所を約束された子供なのだ。施設から来た自分とは違う。電話で聞いた声が耳に焼き付く。回線の遠さを感じさせない、滑舌のいいテノールだった。
(やめた方がいい)
(君のためだ)
アシュリーにはそれが、身分不相応だと言われているように思えてならなかった。

―いいわ。それなら、なるまでだもの。

彼の居場所を奪い、痕跡を消す。それがここの子供になるために必要なことだ。そのためなら、何でもする。

食事室の真中には長方形の木目テーブルがあり、フランス貴族が腰掛けるような、複雑な彫りの入った椅子が並べられている。上座は当主の不在にも空けられている。すでに食器が置かれている前の椅子に、アシュリーは座った。小太り気味のメイドが、慌てて部屋に飛び込んでくる。水さじをパンの入ったボールの傍に置いて、決まり悪そうに去っていった。何だかおどおどした目で人を見る。嫌な感じ、とアシュリーは思った。
「来週からは、今入ってきたメイドが食事のご連絡をしに参ります。ミミという名です。ここでは古株ですから、屋敷の中について分からないことがありましたら彼女にお聞き下さい。それから学校のことですが、市内のフェリアン女学校に通うことになります」
フェリアン―私立らしいということだけ、名前で分かる。
「制服は後ほどお届けします。朝と夕、車をお出ししますから、遅れずにご用意下さい。何か用事があって、時間に間に合わないと言う場合には、必ずご連絡下さい。携帯はこちらで契約を済ませておきましょうか」
ぱちくりとアシュリーは瞬きした。話の展開が早くて、反応が鈍る。携帯なんて持ったことがない。街を歩いている時に見かけた、ラメの入ったピンクの機体が目に浮かぶ。野外テントの下で、背の高い女性が足を組みながら電話する様子が、すごく格好良かったのを覚えている。
「いえ、あの、自分で選んでもいいでしょうか」
言ってから恥ずかしくなってくる。構いませんと、執事は言った。
「それでは今度下に降りる時、アシュリー様をお連れしましょう。他に要りような物はございますか」
コーダの間の抜けた顔がぼんやり頭に浮かんだ。彼は何処に住んでいると言っていたっけ。屋敷の電話番号は教えておいたが、まだ連絡はない。こちらから彼の家に電話するのは、何か嫌だった。
「いえ、今のところは―そういえばウェインさん。マリエには弟がいらっしゃるとか。カナリというのよね。そしてラズリエル、彼も日本で一緒に暮らしていると、マリエに少し聞いたわ。私のお兄さまになる人ですもの、ぜひとも一度お声を聞きたいわ」
本当は事務所の番号、とっくに知っているのだけれど。執事は急に困った顔をした。
「真梨江様の容態が不安定ですので、ラズリエル様は一時的に香鳴様の元で暮らしております…ただ」
「ただ?」
「奥様はアシュリー様がラズリエル様とお話しするのを、極力避けるように言われております」
言われている意味がよく分からない。ウェインの顔色が一瞬陰を帯びたのは気のせいだろうか。だが、彼はすぐにやんわりと微笑んだ。
「ラズリエル様がこちらに戻ってくる時に、娘が出来たと言って驚かせたいのだとか」
「そう、」
マリエが息子の帰国を考えていると知って、また胸の何処かがくすぶってくる。帰ってこなければいい、あんな人。
「香鳴様もお忙しい人ですから…」
執事は言葉を濁したが、食事を始めたアシュリーを残し、部屋を出ようとしたところで足を止めた。
「くれぐれも左の廊下に立ち入らぬようお気をつけ下さい。先代の荷物を運んで整理している途中ですので」
カーテンの向こう側の、段ボールの山を思い出す。屋敷には不釣り合いな古びた黄土色。死んだ母が内職でレースを入れていた、搬入用の箱に似ていた。
「分かったわ」
頷くと、執事は今度こそ出ていった。
誰もいなくなった部屋で、スプーンを取ってスープを飲む。作法は悪くないのに、食器がぶつかり合う音が大袈裟に響く。
パンを囓りながら、屋敷の構造を復習し、窓から見た外の景色を頭に思い描いてみる。施設には望めなかった、ポーチまで舗装された長い小道。両側に広がる芝生はきちんと切り揃えられていて、点画のような花達の花弁が眩しかった。彼もまた、あの庭で走り回ったのだろうか。
(君は、誰)
コーダを引っ張り回しまでして、わざわざ見つけ出した義兄。

―でも、それから?

探し出して、私は何をしようとしていたのだろう。宣戦布告してみたところで、彼はこの英国の、陸の上にさえいない人間だ。姿を形作ることさえ出来ない。静けさの中で、アシュリーの目が彷徨う。柄模様の壁を追い、飾り棚のガラス戸の中に意識が注ぎ込まれた。銅細工のフレームに、写真が納まっている。立ち上がって棚に近づき、戸を開いた。
若い女性と男性が、寄り添うように立っている。景色の一部に屋敷が写り込んでいる。年齢からいって、女性は真梨江に違いない。柔らかそうな赤ん坊を腕に抱いて、この上ない微笑みを浮かべている。隣にいる男性は彼女の夫―。当主と息子はいないのに、まだ忘れ去られてはいないと、主張するかのように置いてある。
切りつけられるような痛みと共に、衝動が襲ってくる。卵を巣から蹴り落とし、潰れる音を聞きたいような、どうしようもなく子供じみた感情だ。目に焼き付けるように写真を見た後、アシュリーはフレームの面を下にして、椅子に戻った。
「アシュリー様」
バターナイフを持ち直したところで、さっきの赤毛のメイドが戻ってきた。大きな体を揺らして、どすどす足音を立てるから、床の下から地響きが聞こえてきそうだ。
「何、」
食事を邪魔されて、少しつっけんどんに言い返してしまった。先ほどの盗み見るような視線が気にくわなかったのが、まだ心にあったからでもあった。メイドはアシュリーの声音に気付くでもなく、ドアの外を指さして言う。
「お友達から電話ですだ。コーダと伝えてくれば分かるとおっしゃってました。お電話は居間にありますだよ」
「そう、分かった」
戸口に下がったメイドを素通りして、食事室を出て正面のドアを開いて入る。来客との面会用に設備された部屋は、他に見て歩いた中で、一番装飾に手が込んでいる。ドアを開いて左手の壁側に、調度品をしまってある棚がある。保留の音が鳴っている電話は、オフィスなんかで見られるコード式のごく普通の物だが、この部屋では浮いて見える。アシュリーは受話器をとりあげた。
「―もしもし」
『あっ、アシュリー?移ってきたんだってね、おめでとう』
相変わらずのほほんとした口調だ。この間睨んでやったのに、もう忘れている。
『そっちはどう?もう慣れた?』
「大体はね。住所と電話番号教えておいたのに、やけに遅かったじゃない」
ごめんごめん、とコーダは謝った。
『あれから他に何かないかって、色々調べてたんだ』
「調べてたって何を」
コーダがちょっと声を詰まらせた。
『何って、ひどいな、アシュリー。君がハザーの事調べろって僕に言ったんじゃないか。養子先の事を何一つ知らずに行くのは御免だって』
「そうだっけ」
『そうだっけ、って、君ねぇ…』
呆れたようにコーダが絶句するのが分かった。
『いいよ、もう。こっちも全部用意出来てないし。ねぇアシュリー、学校はどこに行くの?』
「フェリアンて名前の女学校よ」
『フェリアン!?本当に?凄いね、あそこものすごい学費高いんだよ。僕の学校からは二区ほど離れてるけど、今度会いに行くよ』
門でつまみ出されるような気がする。朝晩迎えの時間があるのだと言うと、コーダの声はしゅんとなった。
『そっかー…、じゃあ、あんまり会えないか。そーかぁ』
何だか情けない弟を持った気分になってくる。無視しきれず、アシュリーはつい教えてしまった。
「でも携帯を頂けるの。コーダ、携帯はもう持ってる?」
『え、うん、持ってるよ!なら番号教えるから電話頂戴、また話したいから。ええと、今メモ出来る?』
アシュリーは傍らのペンスタンドとメモ用紙を引き寄せ、さらさらと番号を書きだした。
『僕の住んでいる家は、中心街から少し出たとこにあるんだ。休日になったら遊びに来てね』
「ありがと、じゃ―」
『あ、待って、アシュリー。それと』
切り際にコーダが声を潜めた。
『こんな事そっちじゃ誰も言わないだろうけど、実はマリエはもう子供を産めないらしいんだ』
真梨江の歳は四十の後半。年齢的には微妙なところだが、断定される歳でもない。眉をひそめている間も、コーダは話す。
『ハザーで働いていた知人がいるって話したろう。もうお婆さんなんだけどさ、屋敷にいた頃の話を聞いてみたんだ。マリエは日本から嫁いで来てからずっと、子供に恵まれずに苦労したんだって。先代は早くに亡くなっていたし、大奥様からは、随分と冷淡に扱われたって言ってた。アルデリー病院て、前に渡した紙に書いてあっただろう。彼処はハザーの先代が、ダニエル社の出資で運営を始めた法人なんだ。苦労の末やっと男の子をそこで出産出来たけど、長期の不妊治療と体が元々強くないこともあって、二人目以上は望めないって医者に言われたらしい。それを聞いたマリエは落胆したけれど、それでも半ば諦めかけていた子供を一人授かることが出来て、失望よりも喜びが勝っていたって。だから、彼にはあんな名前がつけられたんだ』
―ラズリエル。まるで、天使のような。
『本当のところをマリエは何も言わなかったけれど、クロフォードがいた頃、よく夢心地に語っていたみたいだよ。子供は三人欲しい。息子二人と、それに可愛がわれる妹がいるといい、って。ねえ、アシュリー、だからそんなに気を張らないで。マリエは娘が欲しかったんだ』
アシュリーを励ますコーダは、いつも一生懸命だ。一生懸命すぎて、アシュリーは彼に対して上手に謝意できない。励まされるのは、自分が『足りない』子だからだ。憐れみ深い誰かが空洞を埋めようとすればするほど、慈善を与える側と受ける側との隔たりを感じずにはいられない。コーダは同じ施設の出身だ。だが、励ましの言葉にある前提は、足りないというそれなのだ。
「―ありがと、」
『電話してよ、きっとだよ』
コーダは念を押して電話を切った。
受話器を置いて、アシュリーは暫くその場に立っていた。大切に育てられたラズ。愛されて然るべき、ハザーの一人息子。彼を意味する言葉が頭を過ぎるたび、黒々とした靄が腹に巻きつく錯覚がする。同時にどこか、釈然としないものを感じる。
だが、それをはっきりと言葉に表してみることは、アシュリーにとって不必要なことに思われた。義兄が帰らない限り、ここで寵愛されるのは私だ。それでいい。
―食事をしなきゃ。
電話から手を離し、アシュリーは居間を出た。



*  *  *


 スタンドライトを付けた部屋で、紙を捲る音がする。国際便の差出人は、香鳴の仕事繋がりの友人。メールで出すには膨大な量の記事が中身である。新聞をコピーしたものや、ホームページをプリントアウトした紙をゴムで一纏めにしてあったのを外し、一枚一枚に目を配っていく。パソコンは立ち上げられ、低い唸りを発している。
映っているのはダニエル証券のサイトのトップページで、ところ狭し書かれた英文を、灰色の瞳が追う。目に疲れを感じたのか、暫くして彼は椅子から立ち上がり、台所へと歩いていった。コーヒーを入れたマグカップを手にして、また事務所へと戻ってくる。
手伝うと言った香鳴を先に休ませたのはラズ自身である。あの晩の後も香鳴はアパートを訪ねてくるし、四人との関係も見た目には変わらない。だがラズと仕事をしていた数日、彼は何処か心此処にあらずな目をして、一人でコーヒーを飲みに立つことが多くなった。ラズがそれを指摘すると、香鳴はバツが悪そうな顔をして煙草を噛んだ。休憩所を兼じた奥の部屋に引っ込み、小サイズの段ボールを手にして出てきた。封は開けられていなかった。
「クロフォードのところのだ。俺にはこんなものしか見付けられなかった」
箱にまなじりを落とし、ラズは礼を言った。そのまま事務所に戻ったラズに、後ろから声がかかった。
「一人で大丈夫か」
ラズは頷くだけして、香鳴に寝るように言った。ここ連日、客回りに飛んで歩いて疲れているのが、見て取れたからだった。香鳴は何かを言いかけたが、片手をあげてそれに応じた。

机の隅に置かれたデジタル時計が、十一時五十三分を示した。部屋の後ろ半分には、脚の長い茶色のテーブルが置かれている。始めは部屋のインテリアとして持ち込まれていたようだが、今となっては購入した当時の真新しい艶をすっかり失っている。ラズはそれに近づいて、仕事道具が分類無く積まれた上に手を伸ばした。黄色い封筒がそこにある。簡潔に書かれた中身はすでに読まれている。―来年九月半ばまでに、申告を成されたし。同じような文面が、フレイのところにも行っているはずだった。まだ一年という思いと、あと一年という思いが、同時に過ぎる。ラズの手が黄色い封筒を離れ、その隣に並ぶ茶封筒に移動した。表には清和幼児施設と書かれている。無感動な顔に、よく見なければ気づかないほどの曇りが差した。
ラズの両目が、散らばっている紙に視線を注いだ。およそ無限とも思える静けさが部屋に流れた。カップを適当な空き場所に置いた指が、ある一点を指すように動いた。
取り出した一枚を見つめ、折り重なっている中から、さらにもう一枚取り出す。どちらもダニエル証券のトップページを刷ったものだ。
二枚の印刷日付は一週間ほど間がある。ラズはページの更新日付を両方目にした後、比べるように二枚を並べ置いた。近況報告と株式の推移グラフ、会社概要等が、女性のCM写真と共に写っている。日付が遅い方の紙も、ニュース欄は同じ内容だった。ラズの目は更新を並べた左部分の枠に止まった。半黙してじっと中の箇条書きを読んだ後、時計に目をやった。十二時少し過ぎている。
記事が詰め込まれていた段ボールの中には、差出人が書いたPS文が一枚乗っていた。ラズはそれを箱から取り出し、インターネットのメールを開いて、新規にアドレスを入れた。


―ミス・アニーへ。先日届いたコピーのことでお話があります。ダニエル証券トップページの、十二月始めから一月五日までの間の更新が残されていないでしょうか。また、ダニエル社が株発行数の増加に伴って新規事業を展開したにあたって、同時募集していた社員について、その採用取り消しの詳細が分かるのであれば、返信にてご連絡下さい。アドレスは俺のでお願いします。―ラズ


件名に香鳴の名を含めておいたから無視はされるまい。送信ボタンを押してからログアウトすると、そのまま全てのウィンドウを閉じ、シャットダウンした。事務所を出た廊下の奥から、僅かに香鳴がいびきする声がする。屋内の灯りを消し、ラズは家を出た。