ままごとです。-14-

私は間違ったのだろうか。
火を傍にしながら、時々思う。

夢の端に椅子を立て掛けながら、
古いフィルムをスクリーンに見ているようだ。
言葉もなく、音もなく、時間をも忘れて。

私はどこにいるのだろう。
揺り椅子に、私は、私が。

体が重い。だけど私は幸せだ。
大きくなったお腹をさすり、至福の中で歌を歌う。

教会の白い天使像に見下ろされ、
感謝を込めて祈る。
あの人の声がした。
ふりむくと、いつものはにかんだ笑顔があった。
手を伸ばして腕に滑り込む。
とくとくとく…。とん。
小さな腕が、私のお腹を叩いた。
あの人にそれを言うと、優しげに私のお腹に触れて、アーメンを言った。




「奥様」
執事は車椅子を押している。廊下を静かにゆっくりと、主人が外の様子を眺められるように。髪を左に束ねた真梨江は、水が滴った庭の木々を眺めていた。落ちくぼんだ眼窩に、澄んだ黒い円がある。
長いまつげで縁取られた瞼は、長い間落とされなかった。からからに乾涸らびてしまうほどに、窓際の光景を見て離さなかった。
「何か、見えますか」
真梨江の指がひらりと躍った。二本の指が上下して、胸の辺りを行ったり来たりした。変わり始めた季節には、それを象徴する事物が現れる。ここからは見えないが、目を覚ました栗鼠などが走り回っているかも知れない。庭の花はまだ蕾が多い。五分、六分ぐらいには開きかけているから、様子見を怠らないよう、庭師に注意しておかなければならない。
「蝶々、」
真梨江がそう言った。ウェインには聞き取れない、不思議な言葉でメロディーを口ずさむ。美しいと言うより、可愛い感じのする旋律だった。童謡はマザグースなどを子供の時に色々習ったが、主人が歌う曲に覚えはなかった。どういう意味ですか、と尋ねてみた。
「つぎからつぎに、花の蜜をとりにいくというものよ」
膜が破れてしまいそうだと、執事が不安に思ったところで、真梨江はやっと瞬きした。吹き付けられた風に窓が震え、真梨江は視線を下方に落とした。執事は車椅子を押した。
「ちゃんと、寄付をしてあげてね。とても可愛い子が来るのだから」
執事は頷かなかったが、真梨江はうつらうつらとし始めた。指はまだ暫く躍っていたが、やがて膝に落ちた。
執事は窓ガラスを一枚通るごとに、水色の空を眺めては、焼き煉瓦で覆われた屋敷の一角を見比べる。一部に蔦が絡みついている。手入れが行き渡らないのは、使用人の人数を削ったのだから仕方がない。昔ならば、小言の二言三言ぐらい毎日だって飛ばしただろう。
二人のメイドは下にいる。人がいないわけではない。だが、この屋敷は酷く静かで寒い。執事は眠った主人を運び、廊下を進む。



*  *  *


「おー、野郎ども。久々じゃねぇか」
誰かが飛び込んでくるのを期待してか、香鳴は大腕を広げた。が、涙の対面を繰り広げる者は一人もいない。がらんとした中に座っている子供は暫くぶりの顔にちろりと目をやって、ちびっ子はスナック菓子を頬張りながらむぐむぐ顎を動かすだけ。登場の仕方を散々悩みながら歩いてきたのに、すっかり出鼻を挫かれてしまった。
「よぉ、末っ子。元気にしてたか」
気を取り直して中に入った。部屋代出してるのは自分なので、そこらの遠慮はしない。ずかずかと上がってくる男の右手に照準を定めて、くりぼうが瞬きした。やっとこさの反応に、香鳴は満足した表所で、手に持った紙袋を高く掲げた。背の小さいのは、駆け寄ってきて肘の下でぴょんと跳ねた。
「おみやげ!」
鼻がいいな。とは言っても、袋の側面に思い切り『神戸屋プリン』と書いてあるから丸分かりなのだが。チビはもう一度ジャンプして猫タッチ。惜しい。
「坊と少年は何処に行った」
香鳴は四人を好きなように呼ぶ。ラズのことは坊。透のことは少年とか、そのまま。フレイのことは家政婦とかエセ画家(だってあんまり絵を描いているのを見たことがない)。くりぼうのことはチビとか末っ子などと呼ぶことが多い。合っているといえばそうなのだが、本人にはダメージになっていることも多々あって、目の前にいるこの小さいのも例外ではなかった。
「透は学校だよ。ラズはちょっと出掛けてる。フレイはもう戻ってくると思う」
たっぷり一週間程度の出張だったが、四人に変わりはない感じだった。人の住まいに常のゴミや汚れがそれなりにあったが、上から二番目のあいつが週末に掃除をするだろう。フレイについては、押し掛けセールスで掃除夫を雇ったぐらいに香鳴は考えている。常時の無礼は派遣の域を超えているが。
「そうか」
渾身の跳力を足に込めたくりぼうの手が、袋の端をとらえた。負けた、と言った表情で、香鳴は降参を表して座り込んだ。
「まぁ、いい。留守番のご褒美だ。お茶持ってこい」
くりぼうは台所に行ってポットのお湯を急須に注いだ。土瓶を二つ持ってきて座卓に座り、香鳴が菓子の包装を破るのを見る。中の箱の蓋を開きながら、香鳴は末の子に向かって目を上げた。
「…おい」
「なに」
「随分大人しいじゃねぇか」
まわりが静かなのも、この部屋にとっては珍しい気がした。訪問する時は大抵四人ないし三人が揃っていて、うるさくも騒がしいものだが、この静かさはかえって薄気味悪い。くりぼうは、じっとりと香鳴を見た。
「香鳴、ラズに何か言った?」
香鳴は答えられない。何もといえば何もだが、今から言う予定だといえば、この子はますます顔をくしゃりとするに違いない。くりぼうは項垂れた。
「昨日から変なんだよ。喋らないのはいつものことだけど、何か微妙に眉寄せてるし…」
「お前達に何か言ったか」
「言うわけない!」
くりぼうは声を上げた。
「…言わないよ、それもいつものことだ」
プリンを目の前にして、すぐに手をつけないのも珍しい。おい、と声をかけると、くりぼうはぐずった鼻を擦って言った。
「僕、ラズの手を噛んだことあるんだ。お前の母さんは戻ってこないって言われて、頭に血上がって」
「…お前だったのか。犬に噛まれたって言ってたが」
「当たってるよ。あん時の僕、考えなしだったもの。施設から抜け出して心配かけても、自分とママのことしか考えられなかったんだ。だから、透にだって馬鹿だ馬鹿だって言われて…」
末っ子の母は蒸発したと聞いている。扶養義務を放棄して列車と共に消えた。小夜子という保護者がいる透はともかく、くりぼうの足場は人が聞いたら驚くぐらい複雑だ。成人してもいなかったラズにくっついて他人の家に住み着くのは、世間様から見ても非常に困難なことだった。だが、母親が一年近く子供の前には現れず、児童擁護施設の方も適当な養育者を見付けられずにいたことが、香鳴への一報につながった。
(俺も流石に頭痛かったよなぁ)
一度拾った捨て犬を、もう一度段ボールに返しにいけるほど、香鳴は非情になりきれなかった。一人が二人。二人が三人。そして、こいつが四人目だ。
くりぼうのことは施設と話し合って、義務教育を完全に終えさせることを条件に話が付いた。保護されていたその頃は、完全に心を閉ざしてしまっていて学校どころではなく、彼と友好な関係を築き上げることが最大の使命だった。今の状態からは全く想像出来ないが、あれは手に負えないからやめろと苦言を漏らしたのも香鳴である。五月空の寒々しい中、全身に棘を立てて歯を食いしばっていた子供を思い出す。
(分かった。分かったからそんな目で見るな)
そのように言った覚えがある。今ではくったくないただのガキだ。落ち着きを取り戻した生活態度が評価され、診断テストやらなんやらを無事終えれば、来年には他の子供達と交じって行けるようになるかもしれない。
「僕ねぇ、嬉しかったんだよ」
顎を座卓に載せて、くりぼうは口を尖らせた。
「ママのこと言われて怒ったけど、連れてきてくれて嬉しかったんだ。…どこ行くんだよ」
立ち上がった香鳴の後ろ姿に、話を聞けと言いたげな視線を送った。
香鳴は台所で平皿を見付けてUターンしてくる。
「プリンの食べ方って知ってるか」
「スプーン使えばいいじゃないか」
ノン、ノン、と香鳴は指を横に振った。
「この後ろの爪を折ってこそ魅惑の菓子だ」
パキン。黄白色のぷるんとした表面が皿の上で揺れて、キャラメルソースが鮮やかに流れた。「ほえ」と、くりぼうが今までの話も忘れて声に出した。
「ほれ、旨いから食え」
自分の分は透明のカップのままで、紙スプーンを使って食べ始める。
くりぼうは皿を手にとって、それでも短い間、瞬きしてプリンを見つめる。
「ラズは大丈夫なのかな」
「多分な。でもお前が大丈夫でないと、あいつも駄目になる。あいつがお前ら連れてきたのは、遊びじゃないんだ」
そろりとくりぼうが顎を上げた。香鳴は目配せしてやった。
「坊のことが心配ならここにいろ。だが俺は、多少厳しいこと言うつもりでここに来た。それ聞いて黙ってられるなら、いればいい。俺が言ってること分かるか?」
くりぼうは頷いた。
「良し。いくら俺でも、身内の陣営に槍持って乗り込むのは痛ぇんだ。だが今回ばかりは、大人の話ってわけにもいかねぇからなぁ…お、帰ってきた」
スーパーの袋を手にしたフレイが中に足をかけていた。
「ただいまー。あ、香鳴さんいるね。帰ってくるって聞いたから、トマトとカルボナーラのスパゲッティ二種類。食べてくでしょう」
人の分の好物まで知り尽くしている。生活費は自分らで稼いでいるというが、ラズはともかくフレイは謎だ。掃除夫のヘルパーは時給がいいのかと、香鳴は勝手に想像する。フレイは袋を台所のテーブルに下ろして、「およよ?」と二人の間に入った。
「いいもの食べてるね、一個頂戴」
くりぼうが袋から箱を取り出した。開け口をぺりぺりっと剥がしてカップとスプーンを一緒に差し出した。えへへ〜と、幸せそうな顔で、フレイはプリンの蓋を開けた。
「お前も奴の味方か」
苦笑いを浮かべて、香鳴は彼を見る。ラズがフレイにどこまで話しているかは知らないが、感情的なやり合いは避けたい。そのせいでこいつらの間に変化が起きて欲しくはない。全くもって機能的に、傷を付けることなく、それが不可能だと分かっていながらも、だ。
精神論を犠牲にしろと言う割に、自分の願いは滑稽なまでに甘い。
結局の所、情にほだされている。
「どうだろう、味方っていうのは一方的な愛情だし。そんなもの欲しがっちゃいないなら、隣人なんて面倒なだけじゃない」
「面倒な役回りを買って出てるのがお前だろうに」
フレイはまわりを一度刮いでから、スプーンを入れた。
「借りを返せないから、本来の目的忘れそうなんだ。でも、もうそれでもいいかと思い始めてたところ…言っとくけれど、僕はラズを肯定しようなんて思っちゃいない。必要なら全力で否定する。神戸くんだりでお気の毒様―口出しはしないよ。あ、おいしい」
毒にも薬にもならない。お前には巨大な鉛筆買ってくれば良かったと、香鳴は思った。頭をそれで殴るくらい出来ただろうに。
「くりぼうも聞くの」
「その方がいいなら―ううん、違う。僕、聞きたいんだ。…ラズ怒るかな」
フレイはくりぼうの頭に手を触れた。細くて白い、きれいな指。右の薬指に緑の絵の具が付いていた。どっかで描いてきたのかな。
「怒ったら、僕が怒るよ。みんな聞かなきゃいけない、そんな時があるんだから。ラズはくりぼうのこと知ってるのに、くりぼうがラズのこと知らないのは不公平だろう?世の中ギブアンドテイクだ」
…また教えなくていいことを。お前はアメリカ人でもないくせに。しかもさっき言ったことと矛盾してないか?もうちょい育って、可愛げという言葉とさよならする年頃に覚えりゃいいんだ。
香鳴の思いとは裏腹に、くりぼうはすっかりやる気を出していた。
「透もかな」
「あの子は言わなくたってタヌキ寝入りだろう」
話し込んでいる時に、丁度透が帰ってきた。いきなり現れる香鳴にも慣れた様子で、靴を脱いだ。
「腹減った。何かないか」
「透、タヌキになろうね」
怪訝な面差しで、透は台所の菓子パンの袋を破いた。
「お前じゃあるまいし。俺はもう少し上手くやるよ」
心配はいらぬ世話だったらしい。そう言えばこういう奴等だったと、香鳴は諦めたのだった。
―さぁ、あいつもここに帰ってくる。
黄昏時の日差しは暖かいだろうか。押し潰した太陽の色が窓に映る。
外でアパートの階段を上ってくる音がした。
今度はあの子かと、女の声が聞こえてきそうだ。最後まで寄り添うつもりなどないくせに。母以上に慈しむつもりもないくせに。
ドアが開くのと同時に、長い金髪が揺れるのが見えた。灰色の目が香鳴を見つめる。彼は少女の名を知っていた。携帯に寄越された問いに答えるため、香鳴は今ここにいる。少女は自ら動いたそうだ。蜘蛛の網を足下にして、優雅に羽を広げようとしている。舞えばいいのだ。糸に絡め取られず悠々と。彼女に偽りのない愛を、惜しみなく注いでやればいい。
苦しむ人間はもういないと思っていたのに、あの日はまだ続いている。赤い絨毯に巻き取られ、息が止まるほど締め付けられるような圧迫感。皺が深く入り込んだ目尻を擦り、香鳴は言った。
「夕食後だ。話すのは」
今はまだ、美味い物の事を考えていよう。それが一番理解しやすい欲だから。