ままごとです。-13-


「でさー、ひどいんだよその子」
泣きべそを何処へ置いてきたのやら、くりぼうは走り出した機関車のように喋った。アイスを食べて、お出かけ帰りにはすっかり機嫌を良くしている。泣くんじゃないかと思っていた透の予想は見事に外れたが、どちらにしろ背中にへばり付いてうっとおしいのには変わりない。泣けばびーびー、騒げばぎゃあぎゃあ。くりぼうとは二年ほどの付き合いしかないが、その間に『聞いても心ここにあらず』の術を透は極めていた。
「僕が先に砂場で遊んでたのに、いきなりずかずか乗り込んできてあっち行けっていうんだ。あんたには鉄棒がお似合いだって、遊ぶ道具はいっぱいあるのにわざわざそれを指さしたりして。背が低いからって馬鹿にすんな!」
機関車は頭から湯気を出しそうなほど憤慨している。
「公共物においては前後の優先順位があるって、言ってやればよかったんだよ」
半ば耳に栓をした状態で、透は適当に答えながら歩いた。腕にはカステラ焼きの袋が二つ納まっている。帰りがけ、フレイは香鳴の家に寄っていくといって道を別にした。
大通りの桜並木は通り人の目を和ませてから、散り際に花嵐を起こし、今は葉を緑に色づかせている。
花の命は短いけれど―。誰が詠んだか、それは儚くも誇らしげな生き物に相応しい詩である。付き人に小夜子を呼ぶことは透の意に反していたが、義務教育も半端な家出人が駄々をこねるなんて真似、格好悪くてできるわけがなかった。

―小夜子さんが嫌いなんじゃない。

それは自分でよく分かっている。沙耶を遠くにやらなければならなくなった原因は自分にあるこそすれ、小夜子には何の落ち度もない。両親に置き去りにされ一人となった自分を心配し、駆けつけてくれたのも小夜子だ。

俺が嫌なのは、多分記号なんだ。将棋の駒みたく動かされ続けてきた、「緋ノ原」や「六条」なんて名前を持った記号が―。

指先を開いては握り、決意して透は電話をかけた。取った相手は使用人で、透が名乗ると息を呑んで固まった。小夜子さんはいると尋ねると、使用人は何度も謝った。すみません、小夜子様はただ今外出中です、一週間ほど戻られないと思います…血縁の方が事故に遭いまして。今度は透が顎を引いた。使用人は慌てて言った。いいえ!あの、大した事ではないと言付かっています。戻られましたらご用件をお伝えいたしましょう。それとも緊急のご用事でしょうか。
この使用人は、自分の両親の事を知っているのだなと、透は思った。だからこんな、相手の傷口を見るような話し方をする。それほどの事ではないからと言って透は電話を切った。一週間後、つまり今日、だからフレイに代行してもらった。
「僕どかなかったよ。だって、作ったばっかりのトンネル崩されるかも知れないじゃないか。それで―それで…」
語気が萎んでいく。勢いに乗って怒濤のように喋り続けたはいいものの、言葉が感情についていっていないのを一まとめにして表すかのように、くりぼうは「うー」と呻った。まるで犬みたいだ。
「お前なぁ…」
石炭を燃やし尽くして途中停車かよ。猛スピードでレールを逆に転がっていくのを恐れて、透は家に帰るまでは開けまいと思っていた袋の中から、焼き上がりでまだ暖かいカステラの玉を一つ取りだした。それをくりぼうの手の中に落としてやると、くりぼうはまた「うー」と呻った。
「うー、じゃわかんねぇよ。一番言いたいこと喋れ」
自分も一つつまんで、口に放り投げた。ふかふかと甘くてスポンジみたいに軽い。くりぼうはカステラ玉を見下ろしながら言った。
「…親なし、だって」
掠れてよく聞こえなかった。
「『あんたなんて居候じゃないの、男ばっかりでママもいない。家族もいないくせに団地の公園で遊ぶなんて。あんた変!』、だって」
内容がいきなり具体的になって、透は話の結びにつまずく。「変」てどこにかかったんだろう。居候、男所帯、母親がいなくて家族がいない、付き添いなく団地の公園で遊ぶ。

そりゃ、全部だろうな。

箇条書きに直すまでもなかった。くりぼうの年代の子にしちゃあ上出来だ。噂好きな近所のオババが垂れ流しにしているのを耳にしたというだけのような気もするが。
「そんで、『うー』なのか」
気の利いた反撃一つ頭に思い浮かべられなかったんだろう。小学上がりでさえない、ほんとにチビのチビなんだから。だが、くりぼうは、掌のカステラ玉をぽいっと口に放って頬を上下させると、「ひがうほん!」と叫んだ。
「おく、もらはれっこれ男しかいはいけど、」
「待て、食ってから喋れ」
ごくんと喉を鳴らしたくりぼうは大口開けて話し出した。止まりかけた機関車が、怒りの石炭を積み上げて動き出したのだ。
「どうせ僕はもらわれっ子だよ、居候だよ!家には男しかいないし、部屋は狭い!だけどラズもフレイもきれいじゃないか!団地のあの子のお母さんより十倍くらいきれいだよ!!ママが束になったってラズ一人分にもならないじゃないかーーー!!!」

     …シーン。

透は頭を痛めた。み、未成年の主張をする気か、ここで。

慌ててくりぼうの口を押さえて、然るべき対処に回ろうと対応策を練る。
(えぇと…、どこから突っ込むべきなんだ。十倍っていうのは大きいのか?小さいのか?確かに顔はいいが、いいのは顔だけだぞ)
透の思っていることが分かるなら、フレイはここで「ひどい」と呟いただろう。
「じゃぁ、お前が言いたかったってのはそんだけか」
くりぼうは悔しそうに眉をつり上げ、透の手を破がした。
「そんだけって言うけど!僕はそんだけも言えなかったんだ!考えている間にあの子べらべら喋ってくるし、頭まわんないし、僕、僕なんてぇ"」
話し方が怪しくなってきたくりぼうに、透は「待て」と蓋をした。いや、お前はよく頑張った、よく耐えたと、負けた野球チームをねぎらうような慰め方をする。
「今のは100%言わない方が良かった。俺の分のカステラ賭けてもいい」
「なんでさ、ホントのことなのに」
「真実だからだ(うっ)。ボロアパートに何の接点もない4人が暮らしてるって、それだけだったらそんな喧嘩仕掛けられることなかったんだ。あいつらは…そうだな、羨ましいんだ。くりぼうとか俺のこと」
くりぼうは益々気むずかしい顔になっていく。
「だって俺たち、その子の母さんの十倍くらいきれいな奴と一緒にいるんだろう。ママが束になったってラズとかフレイにはなれないんだろ?あこがれの人が自分より知恵も金もなさそうな奴と四六時中一緒にいるってのが、我慢ならないんだよ」
「そうなの?」
そういうことにしとけ。土台、一人しかいない母親が束になるっていう時点でおかしな話だ。バーゲンじゃあるまいし。打ち切り御免とばかりに息を吸い込んで上を見上げた透は、気怠い空に鱗雲が流れていくのを見た。このまま夏まで、日暮れになる時間は遅くなっていく。一日を得した気分になるのが、少し嬉しい感じもする。
「ママ…か」
雲がぷつんと切れてしまった感じがして、透はくりぼうに目を向けた。そういえば―なんて言ってたっけ、ラズ。腕に歯形付けて帰ってきた時、母親が帰ってくるまでここで預かるとか言ってなかったっけ。あれから何年経つ―?それに答えることは、とても残酷な事のように思えた。
「くりぼう、お前」
まだ待ってんのか、とは言えなかった。言う前にくりぼうが喋った。
「とーる、学校って面白い?」
透が通う認定校は、一般開放の学校とは異なる。くりぼうにその区別はついていないから、何かを学ぶ場所を総じて学校と言っているのだろう。校によって単位の取り方は全く違うのだが、聞かれているのはそんなことではないし、横やりを入れる必要もない。だがくりぼうの場合、彼の状態のせいあって、標準年齢から少しばかり外れてしまっている。短く悩んで、透は返した。
「まぁ、ちょっとはな」
「そか、…ねぇ、透」
「何」
「友達と仲直りしたの」
「―」
くりぼうは砂糖が付いた指を舐めて言った。
「この前来た女の人、僕より透に近い人だってラズが言ってた。だけどそうじゃないかも知れないっても言ってた」
「小夜子さんは俺の血縁なんだよ。…友達が酷い目に遭ったから病院に行って来た」
「ちゃんと治ってた?」
「うん」
よかったねぇと、くりぼうは安心したように笑う。その笑い方が、幼い日の沙耶のようで、ああそうか、沙耶は治ったんだと思う。肺が悪いって言ってたのも、きっと命取りにはなっていないはずだ。毒にも負けずに、あいつは帰ってきたんだから。
透が最後通告した通り、沙耶の母親からは、あれ以来連絡を一切受けていない。沙耶の手術が終わって退院すれば、すぐにも何処かの町に引っ越すだろう。
「あの人が透に近いなら、とーるとかラズとかフレイとかより僕に近いのは、ママなのかな」
絶対に僕を迎えに来ると言って電車に乗ったママ。だけど来ないママ。くりぼうは自分の右頬を指で挟んで、思いっきりつねった。
「イッツ…たーーーー!」
「お前何やってんだ?」
呆れた声で透が言う。透明な大玉が流れてくるのを、くりぼうはごしごしと手で擦った。こうでもしなきゃ、また馬鹿にされるじゃないか。
「へへ…痛くなんかないよーだ」
何だか少し悲しいけれど、昔のようには痛くはない。くりぼうは面を上げて、片手に持っているカードの包装を確かめた。
「早く行こう!ラズより後じゃ心配するよ」
「げんきんな奴ー…」
電線で鳴く烏の群に野次を飛ばし、二人は路地を走り出した。



*  *  *

ピーンポーン。ピーンポーンピーンポーン。

客用ブザーが鳴っている。
青年が玄関を降りると、見慣れた顔がドアの隙間から現れた。
「コンニチワ、迎えに来たよ」
お隣のお嬢さんをパーティーに誘う口調だ。勝手に入れと、ラズは身体を翻した。廊下を戻るラズの後ろを歩いて、フレイは事務室の中を覗き込んだ。
「相変わらず…だねー…」
物の整理をしない香鳴の部屋は、机はおろか床にまで日焼けした紙がそこら中に散らばっている。片付けといてあげたら、と室内のラズに呼びかけると、「何処にやったか分からなくなるから現状維持しとけと言われた」と返ってきた。家主はこの足場もない状態がベストなのらしい。
「まぁ、無理してやることないけど。お腹減ったし」
フレイは廊下と事務室を隔てる壁に背を付けた。
ラズは中でパソコンを立ち上げていたらしく、シャットダウンの操作をしている。液晶の四角い画面が青く染まり、プツッという短い音の後に電源が切れた。デスクトップとノートの二台あるうち、使用していたのは固定の方だ。作業机の分厚い伝票の束を見る限り、今日は入力作業だったようだ。
「もう少しで終わる」
教科書の例文を読むような声がした。はいはいと、フレイもそれに答える。背もたれしていた壁に肩を擦って膝を折った。廊下を照らす平たい電光が微妙に点滅している。
「透と行って来たよ」
開けっ放しのドアの中まで聞こえる大きさで話す。ラズには聞くつもりがないかも知れないが、フレイはそんなの当てにしてないというように一人で喋る。坊さまに人生の岐路を開くのを手伝ってもらおうなんて気、更々ない。ただ暇で暇で仕方なくて、誰かが相手をしてくれるだろうというただそれだけの理由で懺悔室に入ったパンク少年を真似て、顔の見えない誰かに話しかける。
「僕のこと奥さんだって―こんな若者つかまえて」
白色灯は、曇り空を思い出させる。濁った灰色から身をよじって這い出ようとする、太陽の光だ。

―フレーヤ、それ、いい色ね。

「ラズはもう決めたの」
日本における二重国籍者は二十二歳までに、自分の国はどこそこですと申し開きをしなければならない。すでに何通か来ている通達は、速やかに決断をするよう促している。だが、それは日本の規律規範においての中だけで、国外にはなんの適応もない。つまり留保していた日本国籍を追認した方が、実質的には損がない。―そんな打算、ラズだって分かっているだろうに、彼の中では問題は全く別の場所にあるのだ。返事がない代わりに、早口にフレイは言った。
「僕はここにいるよ。日本人だと宣言したところで、あちらの戸籍は消えないもの」
「あいつを消すためか」
坊さま役のラズがやっと口を開いた。君は牧師様にでもなれば良かったのに、とフレイは小さく笑った。心の奥に表情を沈め込めやすいその性格は、告戒に耳を傾ける聖職者にもってこいだろう。
「あの時もうちょっと手を伸ばして先が届いていれば、僕は刑に処せられて、だけど後悔なんてしなかっただろうね。家族のためにやったことだって、納得して―誇りにすら思って」
言ってから少しの間、フレイは静かになった。今日は色々なことがらしくないと呟いている。
―あのひまわりのせいだ。黄身色の渦から目を離せなかったから、目の奥に何かチカチカと輝くものが鱗粉のように降ってきて、こびり付く。
目を閉じたフレイの横で、ドアが軋んだ。室内の電気を消して、ラズが出てくる。
「明日、香鳴が帰る」
「こっちに来るの」
もちろん事務所でなくてアパートの方だ。ラズは足早に廊下を抜けた。
「聞きたいことがある」