ままごとです。-12-


雪が降っている。
春になったはずなのに、と彼は思う。
絨毯を擦る音。室内靴を履いた軽い体が移動しているのだ。
音が変わった。靴の裏が鉄板を静かに打ちつける。

―お母さんは、こっちに来た。

クリスマス前だから、働いている人はみんな休みをとっている。お父さんはまだ「かいしゃ」に行っている。だから家にいるのは僕と、お母さんだけだ。暗い穴に次第に姿を隠していく子供の背を、彼は見ている。





子供はそれまで、母親の部屋で絵本を読んでいた。母は暖炉の傍で編み物をしていた。クリスマスの日に森の動物たちが、お世話になっている少女に何かプレゼントできないかという話だったように思う。子供は絵本から抜き取った言葉を紙に写し取っていく。forest … …bear…rabbit…単語の横に、絵も描いておく。時々上目使いに見ると、母は微笑んで、また視線を編み目に戻した。火は子供の左側にあり、服に燃え移らない程度の距離を置いている。暖気を肩に感じるうちに、子供は眠った。

夢の中で絵本の主人公は幸せそうに頬を染めていた。熊や兎や狐やロバに囲まれて、小さな家は大層賑やかだった。
『プレゼントをあげるんだ!』
『プレゼントをあげるんだよ!』
テーブルの真上から見下ろして―もちろん体はそこにないが、子供は中身が早く見たくてどきどきした。貧しいけれど、心の優しい木こりの娘。にこりと笑って、箱のリボンに手をかけた。少女の顔が途端に燃え上がった。


…どくんどくん…。

服の襟元をわしづかみして、心臓の音が静まるのを待った。なんであんな夢見たんだろう。子供には理由が分からなかった。彼は思う。あれは目の片方が薄く開いていて、暖炉の火を少女の可愛らしい顔に重ねてしまっただけの事だったかも知れないと。
だが子供は物事を論理的に考えられる年ではなかった。驚き飛び起きて、辻褄の合わない事柄を身振り手振りを交えながら手近の者に喋りまくり、そうして一人安心する、成長への中間地点にさえいない人間だった。子供はごく普通に、母親の慰めを求めた。

助け手となる親鳥はそこにいなかった。彼女が座っていた揺り椅子は空になっていた。彼女の膝を暖めていた膝掛けは、起きがけでのぼせた顔をしている子供の背中でずり落ちていた。毛糸玉が椅子の後ろに転がっているが、先を引っ張る人がいないのだ。

―どこに行ったのだろう。

ごつ、と鈍い音が廊下に聞こえた。咄嗟に膝掛けから体をぬいてドアを開く。けれどそこにも母はいない。鈍い音が再度鳴った。それも一つではなく数回を区切りにして、心なし音も強くなってきている。音は下の方から響いてくるようだった。家には僕とお母さんしかいない。思いこみが先んじて、子供を一階に降りる階段へと近づけた。彼は子供に声をかけなかった。自分がどう呼んだとしても、子供は降りるのをやめないことを知っているからだ。彼は目覚めた。




電気スタンドを付けたまま、椅子に座った姿勢で意識を手放したらしい。靄のかかる頭を振って、ラズは起きあがる。何か飲めば目が覚めるだろう。伝票やら簿記が重なった事務室から出て、台所の暖簾をくぐった。甘みなしのコーヒーを好む香鳴は、豆からしてこだわりがあり、冷蔵庫の下段にきっちりと各銘柄が仕込まれている。当然メーカー等の機具も揃っているし、出がけに「家にある物は適当に使って良いから」とも言い残されたが、ラズが使用するのは、主に事務室と台所のみだった。誰かにもらったのか、豆にこだわる香鳴に似合わず、ドリップ式の袋がインスタント品を詰めた食品棚にあった。
洗い場のカップを借り、袋の中にある薄紙を破いたのをそれに重ねる。ポットのお湯を注げば、一応完成する。
ラズは今年で二一歳になる。成人式にも行かず、日本じゅうで騒がれるその日も、香鳴に付き合っていた気がする。テレビの中で宙に飛び上がる巨大凧を見ながら、香鳴は「お前の方がよっぽど老成してるよなぁ…」と会話がてらに言った。外国の若者が日本のそれより大人びて見えるのは一般論の大半を占めるが、この時は独り言に近かった。何せラズは、一日に話す量を予め決めているのかと尋ねたいくらいに喋らない。全くというわけではなく、必要不必要で分けているところがある。「そんなことはない」「そんなことはある」。この際何でもいいが、そう言われた時もラズは僅かな間テレビに顔を向けただけで、口を出たのは「この明細書にある振り込み期日だけど」という言葉だった。香鳴にはその返し方が、自分への興味を欠如しているように感じられた。最近は三人組に囲まれて、幾分表情は和らいだが、一番始めに住み着いたフレイに聞くところ、「やー、機械人間だったね、あれは。黙り込んでいると思えばこっちがたじろぐほど理路整然としたこと言ってくるし。まぁそれが面白くてついてきたんだけどさー」ということらしい。
薄紙を流しのコーナーに捨てて、ラズはカップを手に持って椅子に座った。一口含んで唇を噛む。頬に張り付いた髪を、横髪もろとも掻き上げ、壁に掛かった時計を見た。
あいつは、ちゃんとやったのだろうか。
時刻は四時半過ぎ。何も問題なければ透とフレイが帰ってくる頃合いだ。出かける直前の透のげんなりした顔を思い出し、ラズはふと顔をほころばせた。香鳴が見たら目を擦るぐらいに、それは貴重な変化だった。だが笑みはすぐに消え、再び機械仕掛けの能面となる。遅くとも来年までに決めなければならない。それ以上は滞在に支障をきたす。

『あの子はいつか戻ってくる』

壊れた母。優しい歌を口ずさみながら我が子の首に手をかけた人。生きたかったのか死にたかったのかは分からない。ただ、部屋に閉じこめられてからずっと、自分は母の気にくわない何かをしたのだと考えていた。到底、謝っても済まないような、何かを。

一面赤い。赤い、赤い部屋。

『忘れるのよ』

『目を閉じて、忘れるの』


垂直に、眼下に何かが落ちてきたように思えた。それがどういうものなのか、形が定まりきらないうちに電話が鳴った。事務室だ。香鳴か発注先だろう。台所を出てラズは受話器を取った。
「はい―」
「Hello」
少し高めの、少女の声だった。個人の注文だろうか。ネットでも受け付けているから珍しくはないが。相手はすらすらと英語で話し始めた。
「ミヤサト事務所よね。あなたがカナリ?」
「申し訳ないですが彼は外出しています。ご用件を承ります」
メモ用紙を千切ると、慣れた手付きでペン立てのボールペンを取り、そこに日付を書く。
「なんだ、いないんですって」
少女の声が遠くなる。隣の誰かに話しているようだ。電話口のごそごそした音のあと、声はまた舞い戻ってきた。
「まぁいいわ。彼に用はないもの。じゃああなたでいいから答えて頂戴。そちらの事務所にラズリエル・ハザーという天使みたいな名前の方はいる?」
それは唐突な物言いだった。
「もしもし?」
「―」
出された名に答えない。それが返事だ。一息間隔を空けた後、ラズは客用の言葉を捨てた。
「君は誰」
はっと息を呑むようにして、相手は静まった。「もうやめなよ」と、今度は少年らしき声が小さく聞こえた。うるさいわね黙りなさいと、少女はそんなことを言っている。
「へぇ…いきなり当たりじゃない。私って運がいいのね」
猟師が獲物の巣穴を見付けたような物言いをする。
「私あなたに用があるのよ。名前ぐらいは教えてあげる。私はアシュリー、アシュリー・グレイスよ。もう少しでハザーになるけれど、反応無しのところをみると、連絡されてないようね。ああ、残念。きっとマリエは内緒にしてるのね」
ふふ、と少女は楽しげに笑った。
「真梨江は母だ―君は、養子になるのか」
「そうよ」
アシュリーは辺りを見回した。駅でカードを買って国際電話が繋がる公衆電話にいる。コーダは後ろで眉を寄せて見守るばかりだ。ほんとになんて私は運がいいのだろう、英字サイトはすぐ見付かったし、日本の連絡先も書いてあった。おまけに一度聞いてみたかった兄となる人の声でさえ、簡単に釣れた。
「挨拶した方がいいと思って、まずは叔父様にかけてみたの」
嘘だった。自分は満足したかっただけだ。秘密で行われているということを知りもしない内部の人間が、どんな反応を返すか試してみたかったのだ。
「お兄さまはずっと日本にいらっしゃるのね。そちらはそんなに楽しいところなのかしら」
「やめなって、アシュリー。こんな事してどうするんだよっ」
「聞けばずっと帰っておられないと言うじゃない。心を病んだお母様がお嫌なのかしら。でも安心して、私がいるから。一日も早く治るよう、私が傍についているわ。お兄さまは、だからそのままそちらにいらっしゃればいい」
非道い言葉があとからあとから、湯水のように湧いてくる。私はカッコウになるの。卵を蹴落として、私があの家の子供になるの。あなたなんていらないのよ―聞いている?お兄さま。
ラズリエル・ハザーは何も言ってこない。返す言葉がないのだろうか。だが、相手はショックを受けたのでも混乱しているのでもなかった。
「やめた方がいい」
その一言。
「君のためだ」
一瞬真顔になったアシュリーの顔から、みるみるうちに血の気が退いていった。君のためって何がよ、あなた私の話聞いていた?帰ってくるなって言ってるのよ、私は!
ちらりと残りの度数を見る。もう5を切っていた。鼻を鳴らしてアシュリーは言った。
「心配して頂いてありがとう、でも大丈夫よ。いなくなったお父様の分も、きちんとお母様の事見ますから」
「そうじゃない、母は」
「それじゃご機嫌よう」
電話はそれで切れた。

握っていた受話器を放したラズは目を瞑った。『忘れるのよ』という言葉が、脳を駆け回るように響いた。