ままごとです。-11-


 透が戻ってから数日、家は何事もなく穏やかに過ぎた。一通り泣いて、起きて、体を休めた後、透はいつもと同じスケジュールをこなしている。平日はスクール通いだが、透が馬鹿だと言って憚らない家庭教師は、大学の名前に見合うほどには優秀だったらしく、そこの先生が言うには『彼には高校の科目を教えた方がいい』という事だった。
「中学の卒業証明書は、だから心配しなくても十分取得可能です」
保護者として顔合わせに行ったフレイは、厳つい教育者との涙の攻防戦を期待していたのだが、真っ直ぐに前髪を揃えた熱血教師の覇気の良さに、以外にも苦戦を強いられることとなった。
「いやぁ、宅の息子さんはほんとに頭がいい、今からでも学校に復帰したらよろしいんじゃ」
「いや、息子じゃないし」
「向上心を持ち、常に前進する。今時珍しいですよ、素晴らしい!」
「ど、どうもありがとうございます。で、今後のカリキュラムは―」
「何より謙虚さを失わない。ここに来る子達は皆、何かしら悩みを抱えてるもんですがねぇ、意固地にもならずに非常に真面目だし、あぁ泣けてきた」
「… …」
「こちらも全力でがんばりますので、といっても私は国語担当で、透君とは違ってバリバリの文系なんですけどね」
「いえ、そんな事はどうでも、じゃない。すごく大事ですけど、今日は他に話すことがあるんじゃないんですか」
「あ!そうですね。話が逸れてしまいました。失敬失敬」
やっと軌道修正出来る、と思った矢先。
「で、透君この頃家でどうです、奥さん」
眉毛の太い、どう見たって体育会系で筋肉質な体つきの男は、大真面目な顔をしてそう言った。


状況が状況であれ、とフレイは帰り道で零す。
「僕ってそんな年に見えるのかなぁ…」
つっこむべき箇所が他にあるのではないだろうか。
「人で遊ぼうとするからバチがあたったんだろ」
本当は小夜子さんに来てもらうべきところだったが、急に縁者が事故に遭い病院に駆けつけなければならないというので、フレイが張り切って名乗りをあげた。透の疑心に満ちた目を鼻歌で流しておきながら、「まぁまぁ任せておきなさい」と無責任な事を言っていたのに、相手にした人間が悪かった。
「フレイが完封されるのってあんまないよなぁ、貴重だなあの人」
腕を首の後ろで組みながら透は言う。
「うぅ、若さに負けるもんか」
「そっちかよ」
性別よりも年齢肌を気にするのか。というか、確かこいつの年ってラズとそう変わらないんじゃなかったっけ。言動は商店街にいるおばさんと同レベルだが。
「そういえばさ」
「うん」
「お前時々いなくなるよな」
「ぎくり」
「それも突然」
「ぐっ」
蜂にちくりと刺された顔付きで、フレイはあらぬ方向に目を彷徨わせた。
「に、日給のどかたを少々」
「この前は三週間だった」
透の声には、その間家事を押しつけられることへの恨み辛みは感じられないが、視線が何となく痛い。
「別に何処行ってるかとか聞かないけど。ただ、余計な一言言わせてもらえば、外出る前に一言残してもいいんじゃないかと思ってさ」
「行ってくるわ、マイダーリンとか?」
「アホか」
公園の辺りまで来ると、くりぼうが砂場にいた。ズボンの膝の部分を砂で白っぽくしている。見慣れない子供と対面するようにして、何かを言い合っているらしい。くりぼうと背丈がそう変わらない女の子が、高飛車な目つきで馬鹿にしたような笑みを浮かべている。女の子の後ろでは、その子の友達らしき男の子が、怖々とした様子で二人を伺っていた。
「くりぼう、何やってんだ」
透に呼ばれて、くりぼうはぱっと振り返った。鼻頭が赤い気がするのは気のせいだろうか。女の子にべえっと舌をつきだして、逃げるが勝ちとばかりに進入禁止の柵をすり抜けて、フレイの足にしがみついてきた。女の子は咄嗟に追いかけるそぶりを見せたが、自分より年上が二人もいることに怯んだようだ。ぷいっとそっぽを向いて、半ズボンの男の子の手をとって早足で行ってしまった。
「どうしたの、何か言われた?」
くりぼうは唇を尖らせたまま、黙っている。口を開いたら滝みたいに泣いてしまう、だから言わない、といったように透には感じられた。いつもはぎゃあぎゃあわめき散らすくせに、やけに男らしいじゃないか。
「…ちょっと遊んで帰ろうか」
フレイはくりぼうの前髪を掻き上げてやった。

出向いたのは商店街のシンボルともなっている百貨店デパートだった。出入り口にマスコットキャラクターの『とうぞうくん』がいる。『とうぞうくん』は人間ではない。大銀河M星雲からやってきた宇宙人だという裏設定が、ちゃんとある。だがその見た目は、タヌキに似た等身大の動物が銀色の服着てにかっと笑っている、というもので、彼が宇宙育ちだという事実はあまり認識されていない。『とうぞうくん』は、今日も首にプレートを下げ、アトラクションやお買い得品をアピールしている。立ち止まって一字一句読む人はおらず、三人も人の流れに乗って中に入っていった。
ウィンドウショッピングを決め込む趣味は三人とも持ち合わせていないが、好む場所はそれぞれにある。透は本屋とジーンズ取扱店。くりぼうは企画ステージとアイス屋さん。フレイは食品売り場だ。一階の新鮮な果物売り場から何とはなしに見て、行きたいところを近いところから順に回った。明るい声のアナウンスを聞きながら洋服や雑貨を見ているうちに、くりぼうにも元気が戻ってきたようだ。売店で買ったミントアイスを通路のベンチで舐めながら、「えへへ」と笑っている。マイクを調整するがさこそした音の後に、店内放送がかかった。
『ご来店のお客様に申し上げます。ただ今春の絵画特集として、4階にて絵画と写真展示、買い付けを行っています。入場は無料です。どうぞお気軽にご来場下さい。続きまして、一階東廊下、ベビー用具売り場にて…』
透が面を上げた。「日本画だとおもしろいなぁ」と、一人ごちるフレイを見て、そういえばこいつ絵が描けるんだよなと思い立つ。
「なぁ、やっぱり絵にもうまい下手があるのか」
「うー…ん、まぁ、お前の絵はなっとらんとか怒りまくる先生もいるけどね。でもそういうのは、心象表現をいかに具現化して的確にキャンバスに表すかという作法に固執するものだから、どんなに上手だって褒められたって、納得いかない奴は自分で駄目だと思うし、逆に下手だーって笑われたって、ある日それがとんでもない芸術性を発揮することだってある」
「なんかむつかしいね」
フレイは、そうでもないんだけどね、とエスカレーターの方を見た。
「ま、絵を鑑賞する機会なんてあんまりないから、行ってみようか。アイス全部食べちゃってね、飲食は厳禁だろうから」
くりぼうは頷くと、コーンの先っぽが柔らかくなって開いた穴から、ずーっっと音を立てて吸った。
二階の小物売り場、三階のレストランホールからさらに上ると、アーチを立て掛けられた一角に人混みができていた。きっちりネクタイを締めた社商マン風の男が、額縁を布手袋で支え、中年の夫婦を相手に熱弁をふるっている。ざっと見回したところ値札はついていないので、気に入ったものがあれば交渉するというスタンスなのだろう。美術館で執り行われるような名画があるのなら、もっと厳重に監視があるはずだ。だが、警備員らしき男が装備もせずアーチのある壁に立っていることからして、内容はそこそこ売れているか、無名の新人のものであろうという事が伺えた。入り口に貼られているポスターを、透は眺めた。
「知らない奴ばっかりだなー」
美術に疎い透が知っているのは、薄墨の線を何十にも束ねて異世界を描く某ゲームイラストレイターや、本物と見紛うばかりのイルカと海を描く超有名画家ぐらいだ。「こらこら」と、フレイが窘めた。
「どんな絵だって作者は心を込めて描いているんだから」
「分かってるよ。でもさ、その道の評価って、一体どんな基準に基づいているんだろうな。そりゃ見た目でこりゃ激うまいなーって思うのもあるよ。世間じゃそういうのを一般的にプロって呼ぶんだ。だけど例えば学校の図画工作。これ人間かよって思う怪獣みたいなのを描く奴が賞とってたりするだろう、くりぼうの絵みたいな」
「それは低年齢層の話。おおらかで自由な発想が求められるんだよ」
「じゃあ、何で絵が変わるんだ?」
「大人になれば上手になるに決まってるでしょ!僕だって!」
それはどうだろう。くりぼうの言い分は大いに疑問が残るとして、透の言葉はそれだけがぶつ切りで発せられたようなものだ。フレイは目をしばたかせた。
「悪い。俺にはどうでもいいことなんだ、ほんとは」
透は自分が言ったことに急激に関心をなくしたようだった。
「つまりさ、子供の頃に賞取ったような絵を、大人になっても同じスタイルを取って評価される奴がいるんだろうかって。上手になるって、それはつまり物の形が分かってくるって事だろう。林檎はピンクじゃなくて赤。常識で描く奴らは上手いと言われるけど、常識を手放すことには臆病になる。だから凄くリアルな富士山描く奴が、いきなり滅茶苦茶な絵を描くとしたら、それはきっと純粋に自己満足なんだ。だって俺は、緑の昆虫みたいな形した富士山、見たくない」
フレイにもやっと意味が分かった。学生の頃、単に絵を描くことが好きだから描くということが当たり前だったあの頃、同じようなことを考えて講師と論議になったんじゃなかったっけ。機械時代とダダイズムは、まさに制作者本人の欲求により現時点を皮肉るべく生み出された。それが進歩なのか破壊なのかを探るあたり、そもそも分野などという狭い枠を作ったのが観衆なのだから、枠にとらわれたせせこましい絵を進んで描くことは観衆の飼い犬に他ならないと聴講生になって間もないフレイは述べた。それに対して美術大学の教授を兼じていた講師は、まだ少年だった走り出の教え子に、こう言ったのだ。
―なるほど彼等の活躍は大衆の文字にひとまとめにされる『誰か』ではなく、美意識で凝り固まった価値観を否定する事から始まった。およそこの難しいことを成し遂げたという偉業が、彼等の勲章を現在にピン留めしている。だが大戦の悲劇が広がった時期、否定行動は困難な作業ではなかった。身内を失い手足をもがれた復員者らの大勢が自殺した。彼等がしたことは、実は外部から誘発され―人間が道具化されていく過程の疲労、無気力の波に飲み込まれ、押し流された残留物を、人の目に止まりやすい棚に陳列しただけのことではないのかね。よしんば例の偉業によってもてはやされるとして、それだって中途半端なものだ。何故って、何かしらを創作するうちは、それ自体が肯定作業であるからだよ。真に無意味の意味を司るものがあるとするなら、それは理由をもってはならない。ベルトコンベアに流れてくる缶詰に賞味期限の数字を押すことに、機械が「これがなければ人間が腹を壊すかも知れない」とは決して思わないように。突き詰めるところ、彼等が自分らの行為をダダと名付け、周囲の反応を窺った時点で試みは失敗したのだと私は思う。…さぁ、話は終わるが一つ質問がある。強調も遊びも怒りもない無反応な人間が、既に作法としての土台がある「せせこましい絵」を描いたとする。山麓の美しい絵だ。彼は君の言う飼い犬かね―。


「…描きたいものを描いて食べていける人も、いるにはいるけどね。それで認められて、成功する人間はほんの一握りだ。受けがいい印象派に無理に転向する奴もいる。それでも、その人が本当に描きたくてたまらないものだったら―その技法がどんなものにしろ、見る人には伝わるものだよ」
自分の言葉じゃない。けれどそう言ってくれた人が昔いた。
「しがらみなく紙にクレヨンで塗りたくっていた時代を懐かしんで辞める子達は、僕が通っていたセミナーにもいっぱいいた。人のためにはもう描けないと言ってね。何をやっても自己満足の檻の中なら、せめて納得はしたいだろう?」
透が何か返す前に、フレイは話も尻切れトンボで中に入っていってしまった。やんわりとした表情で手招きしている。
「透、行こうよ!」
くりぼうの目には、きっと見る絵はみんなきらきらして映るのだろう。透は肩を竦めて、細いワイヤーのアーチをくぐった。フレイもラズも、自分のことを率先しては話さない。一緒に暮らすうちに、言葉端に伺い、感じ取るだけだ。
(学生の身分で画家を気取って、路上で似顔絵を描いていたことあったなぁ。人がまばらな時は、店先やアパートの建物を描いたり。初めて見るものを描くのが、とてもおもしろかった)
スケッチブックにラフ画があるのを覗き込んだことがある。橋の上を飛ぶカモメがいた。フレイがいた国は内陸だというが、橋の下に流れる川はいつか海に出るのかも知れない。
(これは赤ん坊、友人に生まれた子でね)
ざらりときめが粗い紙質だったが、眠っている赤ん坊の頬は、突いた指が埋もれそうなほど、柔らかいタッチで描かれていた。
フレイの希望に反して、美人画の類はなかった。大判写真や油絵が、入場者の目を遠くさせない間隔をとって壁に掛かっている。
中の者に聞くと、壁半分にある絵は高くても数千円で、額に納められている方がもう一レベル高いらしい。中央のテーブルでは土産用にポストカードも売っていて、こちらは二枚で四百円の値段が付いていた。隅に書かれた名前こそ知らないものの、そこらの文房具売り場にあるものよりは味があった。何より一点ものというのがいい。
バスケットのパンフレットを開くと、主催が『日本美術振興会』という市民団体―多分NPOの一つで、協賛に『アカデミーボランティアクラブ』という法人が加わっているらしい。世界の子供、大人達が描いた絵を集めて出版し、途上国に売り上げを還元する事業を行っていると、見開きに説明があった。
一つ一つの絵を見ていくと、作者について所属がはっきりしているものもあれば、名前のタグだけが素っ気なく隣接しているものもある。展示の仕方はてんでばらばらで、静物を描いた横に、ベトナムの少女を写したモノクロ写真があったりする。人通りの多い商店では、整然と並べるよりも、乱雑さの方が受け入れられるのかも知れない。
展示会場自体はこぢんまりとしたもので、透はすぐに一周し、二周目したところでテーブルに寄った。くりぼうが難しい顔をして、カードを両手にしている。
「一枚なら買えるんだけど」
ばら売りはしていないらしい。透はポケットを探って、財布から二百円渡してやった。
「ラズにだろ、きれいなの選べよ」
何だかんだ言って、よほどのシンパシーを感じない限り、見目に良いものを先に取ってしまう。善人になりきれない分、代わりに今日も香鳴の家で仕事している人間を思いやる。
「ええと、じゃあこれ!」
くりぼうが手に残したのは、水彩で描かれたコスモスと、セピア色の街風景だった。小金を売り場の者に渡し、袋に入れてもらう間、透はフレイを探した。ラズほどではないが、背が高いから見付けやすい。フレイは出入り口と対置する奥の壁を向いて立っていた。
彼が見ているのは、透も一瞬ぎょっとしたものだった。他のに比べてサイズが大きく、壁の半分を埋める縦長の絵なので、別段上手いと思わなくても目を奪われてしまう。
アジア系を両親に持つ子供の目は、九割に及んで黒だ。ラズの目は灰色だが、あれは父親の遺伝が強く出た例だろう。だがフレイは間違いなく隔世遺伝だ。青い瞳は、彼が二分の一ずつ血を分かち合って生まれた者とは思えないぐらいに澄んでいる。
フレイは立ち止まっていた。あくまで会場の一枚であって全部ではないとする一般客が、歩きながら横目にしていく中で、彼だけは正面にその絵を据えていた。
一面を黄色に塗りたぐった上方が、フレイの目に似た色を重ねている。天まで上り詰めるように密集し身を寄せ合う花の群衆は、太陽の小さな子供達のようだ。通り過ぎていく何人もが目を細めて視線を変える。その場に留まる人間が少ないのは、まだ先があるからだけが理由なのではない。光の色が溢れて、強すぎて、痛いのだ。
後ろから見ていた透は、フレイがひまわりの洪水のただ中に立っているように見えた。
たたっとくりぼうが走った。
「お静かにお願いしまーす」と、手伝いの店員が伸びた声で注意した。すみませんと謝って、透も早足で歩いた。
「フレイ、行こう!」
ポストカードを早くラズに届けたくて、くりぼうはフレイの着ているパーカーを引っ張った。
「ん、あ、ごめん。すぐまわるよ」
かなりの間ぼうっと見ていたはずなのに、フレイはへらっと笑って動いた。
「見るの遅いねー、僕なんかとっくに全部まわっちゃったよ」
鑑賞タイムを競うなら、むしろ時間の長さを測るべきなのではないかと思うところだが、くりぼうは胸をはっている。すごいなーと、フレイは指先で拍手した。
「あとちょっとで終わるから」
そう言って十分くらいして、フレイは入り口に戻ってきた。
「じゃ、いこー」
撥ねる足でくりぼうはエレベーターに直行する。どうせ上がってくるのを待たなければならないんだからとのろく歩く透と、それに付き合うフレイが並んだ。
「黄色」
「うん?」
「長く見てたなーと思って。そんないい絵だった、あれ」
俺は目が潰れそうだったと透がぽつりと言うと、フレイは「ちょっと色がきつかったね」と目に手を当てた。確か、北海道のひまわり畑を題材にしたというようなことが添え書きしてあった。
「でも、実際あんなふうだよ。小さい頃は僕も農村育ちで、よく中を走り回ったから覚えている。肩からなにまで花粉まみれになって―姉さんと一緒に」
姉弟がいたのか。沙耶が出入りするより前、広い部屋にぽつんと一人で座り、話ができる誰かがいればいいのにと思ったことがある。
フレイに似ているのだろうか。口を開けた時、ちょうどドアが開いた。降りていくまで喋るのは憚られ、一階で人が一斉に降りると、外の通りでパレードが始まっているようだった。意気高揚した空気を吸い込んで、透はフレイに尋ねようとしていたことをすっかり忘れてしまった。神社に向かって練り歩く行列と人集りができている。
「今日はあっちに用事ないし」
食品売り場を一度振り返って、フレイは目配せした。
「帰り道、屋台でカステラ焼き買っていこうか」
おおっ!とくりぼうが腕を突き上げた。