ままごとです。-10-


 ファミリー・レストランの一角に香鳴はいた。手つかずのコーヒーと皿をテーブルに張り付けたまま、携帯に耳を当てている。ガラス越しに見える煉瓦工場は、元はワイン製造をしていたもので、色変わりの激しい街並みの中で、準近代的な空間を保持し続けている。首尾一貫とした物を好む香鳴は、風景それに関しては正反対の嗜好をしている。暖かいとか寒いとか、そういう事は普通の生活をしていればすぐに解消出来る。身体を良好な状態に置くには、危機的な病に陥った場合以外は非常にシンプルなプロセスを辿ればいい。だがそうでない時、良好だと自分が思えるようになるまでの過程に、複雑極まりない寄り道が存在する場合、それに手を差し伸べてくれるものは限られている。そして、それらは高い確率で非代替的である事が多い。
メモを取る右手のボールペンは、先ほどから紙の同じ部分をこつこつと叩いている。走り書きしてある英文は、所々に『?』のクエスチョンが加えられており、水差しを持って歩き回っているウェイトレスが近づきがたいくらいには、香鳴の顔付きは厳めしかった。
「…で、つまりは治療のために環境を変えてみるということか」
相変わらず、話をしたい当人は部屋に籠もっているという。いや、今考えてみると、自分と話をしようとしなかったのは、病以外にも打算があったのではと思わずにはいられない。人の家に口を出すなと言われればそれまでだが―。

納得いかない。今度のことだけは、絶対に納得できない。

執事に問いつめようにも、メモをくれたミミの立場に気が咎める。こんなややこしい話がこっそり進んでいたとは露知らず、結局は姉の掌で躍らされていたのかと苦々しい気分になる。

『婦人が自分の子供を閉じこめていたなんて話は表には出ていないもの。あの時は、軌道に乗り上げたダニエル社の跡取りが突然いなくなったことが焦点だったから―聞こえてる?』

電話の相手はミス・アニー。英国に来たなら顔の一つでも見せろとこの間怒鳴られて、怒鳴られついでに調べ物を頼んでおいたのだ。あぁ、と香鳴は返事する。
『とりあえず、あんたに言われた施設に取材を装って行ってみたけど、その子の友達が言うには、まずは数ヶ月の滞在をしてみるって話よ。…別で調べたんだけど、国からでる交付金の割には子供の養護数が多くて。精神的に問題がある人は普通嫌煙するものだけど、今回はカウンセラー付きで、彼女が自分で希望したそうよ。タフね』
ヒュウと口笛を鳴らす音が聞こえそうだ。あの姉の所に行くというのだから、確かに強い子ではあるのだろうが。
「そうか―。済まない、仕事中無理言って」
香鳴が言うと、向こうでくすくす笑う声がした。あんたは本当に甥っ子が大事なのねぇと。
『別に、今順調で気分いいしね。ああ、でも一つ嫌な事あったわ。パパラッチまがいの酷い奴―!あいつのせいでカメラが一つ壊れた、長く使ってたから気に入ってたのに』
あのソニー製か。いつも首に引っかけていた黒光りを思い出し、そりゃ残念だと零した。
『もう思い出すだけで腹が立つったら… … あ』
急にアニーの声が遠くなった。
「何だ」
『そういえば最近資料部に変な奴が来てたわ。あの事件で一時期ダニエル証券のホームページのプリントアウトやら内部調査をまとめてたのがあるんだけど、ファイルを見せて欲しいって』
「どんな奴だった」
『どんな…うーん、なんか小賢しそうな奴よ。報道の一陣では見ない顔だったからフリーなのかも。会社の事で何かあるのかと思ったけど、クロフォード自身の記録はないかとか、こっちに細かく聞いてきて』
その男は何を調べていたのだろうか。まさかラズの事でもあるまい。発覚したとして、現在では事件性に乏しい。
『気になるなら閲覧可能なとこだけ同じの送るわ、といっても極秘情報なんて殆どないけど』
「ああ、頼む。仕事がんばれよ」
そっちもねと言って、電話は切れた。
携帯をテーブルに置いて、代わりにコーヒーを手に取った。窓ガラスに古ぼけた煉瓦の色が映る。百年余りを大気に晒し続けてきたその色と同じものは、他に一つとしてない。香鳴は胸の内ポケットから、皺くちゃになった包装紙の断片を取り出して広げた。





『香鳴様へ』

こんな風になって申し訳ないです。けども時間がなくて、執事さんも話していない様子なのでここに失礼します。奥様は養子を取るつもりでございます。耳に挟んだのでは、市から北に向かった所のマズローとかいう養護施設の女の子ですだ。奥様が何をしようと、私達が口を出せる事じゃございませんが、私には奥様がラズリエル様以外の方を召されるとは信じられません。もしや子息様と同じ事を繰り返すのではないかと、びくびくしております。執事さんはいい人ですが、奥様に同情なさっています。ミスターに黙っていては悪いと思われているようですが、ハザー家とその当主は執事さんにとって一番守らなければならないものですだ。
奥様が何を考えておられるか分かりませんが、香鳴様には事の次第をお知らせした方がよいと思いました。子息様にご連絡がなければ香鳴様にお委ねしたいと思います。


P・S

ミミは元気でいると、子息様によろしくお伝え下さい。







*  *  *


 鐘の音というのは、どうしてこうも物々しいのだろう。朝学習の始まりと昼休み、終業の知らせと一日三食に手をつける前。鐘が鳴らない日は一日だってない。
ケンブリッジ郊外に位置するこの建物は、元々はカトリックの僧院だったらしい。歴史の時間に先生にそう習った。この国の宗派は国教会といって、プロテスタント信仰と儀式形式が融合したものだ。「こうもりさんみたいなもの?」と、馬鹿なクラスメートが質問して先生を困らせていた。

頬杖をついてノートに落書きしているうちに鐘が鳴った。そのうち崩れるんじゃないかと思うぐらいの古めかしい塔から、ごうんと響いてくる。もし塔が倒れたら、シスターは神のお怒りだと言って騒ぐに違いない。
「アシュリー、聞いたわよ」
他のみんなはさっさと筆記用具をまとめて教室を出ていっている。バレーボールの球を腕の間で軽く跳ね上げている子をちらりと見やってから、少女は「そうですか」と答えた。
「良かったわ、行き先が決まりそうな感じじゃない。あなたはとても優秀だから、きっと早く貰い手がくると思ってた。おめでとう」
「ありがとうございます、でもまだ様子見ですから」
クラスで先にいなくなったのはそばかすのマギーだったけど、面倒なので言わずにおいた。
「市でも名前の通っている家だとか。他の子が羨ましがるわね」
にこにこと先生は笑っている。もうすっかり契約が成立した気でいるらしい。これで何人目だろう。アシュリーは先生と同じくらい愛らしい微笑みを浮かべる。
「ええ、先生。だけどちょっと寂しいです。ここの子達とは長く一緒にいたし、もうあの鐘の音も聞けなくなるかと思うと」
「まぁ!」
先生は口を押さえた。
「慣れるまでは大変だと思います。だけどがんばります」
健気に言って見せると、先生は眼鏡の奥にある茶色の目を細めた。
「そうね、そう、でも会いに来たかったらいつでも来ていいのよ」
「はい、他の子にも挨拶しなきゃ。―失礼します」
礼儀正しく返事して長い髪を揺らし、少女は教室を出た。

校舎の外に出ると、さっきまで授業を受けていた子達が、石灰の粉でラインを引いた中で球を投げ合っていた。枝を上に伸ばしたマロニエの木々が、建物を囲う煉瓦に沿って並んでいる。その一つには寄贈された年と送り主の名前が彫られているけれど、ありがたがる子はあまりいなかった。球を避けながらはしゃぐ姿を横目にして、ぬかるんだ土の上を歩く。出口から真っ直ぐに伸びた石畳の道など、ここにはない。雨は降っていないが、空は『すぐにでもお前をずぶ濡れにしてやるぞ』と凄んでいるように見えた。春になるというのに日当たりが悪くて溶けきらない雪に、何度も足を取られそうになりながら校舎の裏手にまわる。ボイラー室に通じるそこには金網が張ってある。管理が悪くて、網戸に引っかけてある数字式の鍵が壊れたまま放置されている。ボイラー室の向こう側には、人には見付けにくい角度で開けた場所がある。年下の子供達がうるさい部屋に戻りたくない時、そこはちょうどいい休み場だった。
芝生はまだしっとりとしていて、座るとまずいのは明らかだ。コンクリートの壁に寄りかかると、機械音が背中を叩いてきた。他に聞こえてくるものはない。今日の課題は何だっただろう。
カシャンと、網が鳴った。反射的に身を起こし肩に力を込める。今日の用事が来た。辺りを窺うようにして、その子は角から顔を出した。大きな眼鏡が鼻からずり落ちかけている。鈍くさそうなのは相変わらずだった。
「コーダ」
呼ぶと、緑色の瞳をした彼の瞼が、一回り大きく開かれた。肌がすごく白いから、寒くて鼻が赤くなっているのも目立つ。
「アシュリー!―君」
そばかすを浮かせた顔がほころぶよりも一寸早く、アシュリーは興味なしという感じで言い捨てた。
「まさか、あんたも『おめでとう』なんて言うつもり」
少年はまさにそのつもりだったらしく、舌を止められずに大きくCongraturation(おめでとう)の発音をしてのけた。
「あ…」
きりりと釣り上がる眉を見て、コーダは半笑みの間抜けな表情をしたまま固まった。
「ごめん―僕」
謝る理由に思い当たってもいないだろうに、すまなさそうに声を出す。アシュリーはさっと腕を伸ばした。
「はやく見せて」
少年の腕には厚めの封筒が抱えられている。こくこく頷いて、コーダはそれを差し出した。封を切って中の書類を読み出す少女に、コーダは遠慮がちに言った。
「全部、言われたとうりのが入っているよ。祖父の会社で日本勤務の人にも、片っ端から聞いてもらった。ええと…たにさわさん、だっけ。でもその人は本人に会った訳じゃないから、よく分からないって。ハザーの方もそんなにないんだ」
聞いているのかいないのか、コーダが説明するのにも関わらず、アシュリーは紙の束をじっと見ている。ホチキスの針で一つにされたその中には、新聞を拡大コピーしたらしい物も交じっている。
「ふう…ん」
くっと、アシュリーは喉を鳴らした。
「アシュリー?」
「おもしろいわよ、この家族」
紙の一枚を捲りあげて、少女は読みあげた。

1973年

ハザー家当主 クロフォード・ハザーは日本女性と婚姻。女性の名はマリエ。旧姓はミヤサト。

1980年  9月19日

長男 ラズリエル・ハザー アルデリー病院にて出生。0歳。

1984年  12月29日

ハザー家 現当主 クロフォード・ハザー失踪。母 サリサ・ドロウ・ハザーと妻 マリエ・ハザーにより捜索願いが出されるも以前不明。警察は蒸発と事件の両面から捜査を進める模様。

1992年  

長男 ラズリエル・ハザーは叔父に伴って日本へ渡航。現住所は不明。


コーダは眉を情けなく斜めにして喋る。
「ハザー関連の記事は散々探してもこれくらいだった。当主がダニエル証券の会社社長だから、失踪した時なんかのは見付けやすかったけど、数年も経つともう全然だめだ。端にも引っかからない」
「ラズ…」
「そう。君の兄さんになる人。クロフォードのことでマリエが神経衰弱になったから、身内が引き取ったらしいんだ。昔寝具の管理をしていたっていう人が今の母の知り合いに運良くいて、その人は当主が失踪して数年で辞めたから、彼が小さい時の事しか知らないんだけど、まだ帰国してないなら留学も兼ねてるんじゃないのかって。計算するともう二十歳越えてるよね」
苛立ち気に友人が爪を噛んでいる。気分が良くない時の彼女の癖だ。コーダがこの施設を出たのは半年ほど前である。気の強い姉のような存在だったアシュリーの行き先が決まりそうだと聞いてとてもうれしかったのに、老夫婦の目にとまったコーダに、アシュリーは変な要求ばかりしてくる。いいところに引き取られたんだから、これくらいしてくれていいでしょうと彼女は言うのだが、探偵まがいの事をやらされているこちらの身にもなって欲しい。
コーダの養夫婦の母方は、英国で名の通った綿製品会社、ドルトン・クチュールを経営する社長の娘だ。施設ではコーダを羨む大合唱が起きたほどだ。コーダ自身は何から何までがいつの間にか決まってしまい、事情がよく飲み込めていない調子で目をしばたかせていた。誰しもがコーダの一攫千金を地団駄踏んで妬んだが、実際、母親となる人は早くから自立を始めた人で、会社の名前からは遠く離れた質素な家庭を営んでいたので、子供らしい嫌がらせもすぐに熱を退いた。ただ、祖父の方は、子供のできない娘の幸せを何より望んでいた人で、養子縁組の際には回線付きのノート型パソコンを一台、記念として贈呈してくれた。施設にも機材は一通り揃っていたので、扱いはそう難しくない。最近はアシュリーの注文に使われるばかりであるが。
「アシュリー」
ぼそぼそした声でコーダが尋ねた。
「新しい家に、どうしてそんなにこだわるの」
養父母が決まれば孤児院の子供はここを出て行く。狭い部屋で複数で寝る事もなくなるのだ。コーダは幼い日を長らく一緒に過ごしたアシュリーといたい気持ちが強く、最後までぐずったが、先の子供らは意気揚々として正面の門を抜けていった。しかし彼女のように行き先の事を事前にあれこれと調べまわる者は珍しい。アシュリーのすっと伸びた眉が、神経質そうに歪んだ。
「私にしてみれば、あなた達の方が変」
「僕たち?どこが?」
それには答えず、少女は紙に穴が開くのじゃないかと思うほど、じっとそれを眺める。アシュリーのそんな目を、コーダは度々目にしたことがある。院の子供達が、養父母と手を取り合ってアーチを抜けていく時だ。コーダの時は外に出て菓子の袋やら渡してくれたが、そんな時、アシュリーは決まって教室の中から親子の様子を見ていた。怖いくらいに黙ったままで。
「あんたには分からないかもね」
投げやりに聞こえる響きに、コーダは戸惑う。
「この間、院の人と一緒にお屋敷に行ってきたわ。マリエは情緒不安定なところがあるという話だったから、虐待の可能性がないかを見極めるためだった。初めて会った時、彼女、優しい目をしていた。細い腰のきれいな人だった。一番印象的だったのは黒い瞳。私のことを可愛い子と言ったわ。自分の夫のことで心を痛めているよう―始めはそう思った。だけど少ししたらすぐに分かった。あれは私に言ったんじゃない」
「何でそう思うのさ」
「目」
「?」
「あの人の目は、私を通り越して別の人を見ている。私の母さんもそうだった。酒飲みの父さんと別れてから、母さんは私に何も言わなくなった。近所の人が来た時には、可愛いわねと言ってくれる彼等に、微笑んで『そうでしょう』と返すの。だけど二人になると、母さんはいつも別の部屋に行ってしまう。まるで私なんていないみたいに、一人で裁縫してた。内職の同じ柄のを何枚も、何枚もよ。―今度のお母さんは素敵な人よ。裕福で大きな庭もあって、あそこで暮らしたいと思った。だけど私じゃないの、彼女はまた私を見ない。(She never looks me.)」

アシュリーは文字列の一行を爪で濃く引っ掻いた。
「で、でも」
コーダはうまく回らない舌で言葉を返す。
「今、彼は離れているんだし、新しいお母さん、君のこと大事にしてくれるよ」
「―そうね、きっと二番目に」
アシュリーは苦しそうに笑みを浮かべ、紙の束を握り締めた。
「奉公人に聞いたんだけど、マリエの姉弟は家具を扱う仕事をしているらしいの。壁紙とか戸棚の材木とか。名前は、ここにあるのと合わせてミヤサト・カナリ。事務所の事調べられないかしら」
「そりゃ…できないことも、ないけど」
あのパソコン漢字に対応してるんだろうかと思いつつ、少年は不安な眼差しを少女に向けた。
「そんなの一体どうするのさ」
ふふ、とアシュリーは笑った。
「秘密」